2010年8月29日 大人と子どもが共に守る礼拝説教
  聖  書  マルコによる福音書3章31〜34節

  説教者  山岡 創

「 “みこころ”を行うのは“わたし” 」

             〜 主の祈り(4) 〜
 “みこころが天で行われるように地上でも行われますように”。
 〈主の祈り〉の第3の祈りとして、私たちはこのように祈りなさい、とイエスさまから教えられています。
 子どもたちも“みこころ”という言葉を、教会で大人の人たちがよく口にするのを聞くことがあると思います。みこころ、というのは“神さまのこころ”という意味です。神さまが心の中でお考えになっていること、神さまがこうしたいとお考えになっている願いや計画のことです。
 “天”というのは、神さまの居場所、神さまが治めている国(天国と言いますが)ですから、神さまのみこころが、つまり神さまの願いや計画が、天使たちや天に召された人たちによって行われています。だから、天の上には憎しみや争い、戦いはなく、みんな仲良く、愛と平和に満ち溢れています。
 それと同じように、私たちが生きている地上も、憎しみや戦争がなくなり、愛と平和に満ち溢れた世界になりますように。神さまの願いと計画が行われることによって、愛と平和の世界になりますようにと祈る。それが、主の祈りの第3の祈りです。

 神さまのみこころが地上でも行われたら、この世界は本当に平和になると思います。けれども、私たちが自分の胸の扉を開いて、自分の心の中に何が入っているかを見てみたら、神さまのみこころが行われるように、と願う祈りよりも、“わたし”の願いが行われますようにという気持の方が、たくさんたくさん詰まっているかも知れません。
 想像してみてください。私たちの心の中にお城があって、そのお城の真ん中に王様の椅子があるとします。さて、そこには誰が座っていますか?‥‥‥神さまが座っていますか?そして、あなたはどうしていますか? 神さまの前にひざまずいていますか? そうだとすれば、私たちの心の中で神さまが中心になっています。
 けれども、王様の椅子に座っているのは“自分”ではないですか? そして、神さまがあなたの前にひざまずいていませんか? そうだとすれば、私たちの心の中では“自分”が中心になっています。もう分かるでしょう。そういう心を自己中心と言うのです。
 イエスさまは弟子たちに、そういう自己中心な人の信仰を次のようにお話ししました。口では「主よ、主よ」(マタイ7章21節)と言って祈るけれども、父なる神さまの御心をちっとも行わない。そして、そういう人は、砂の上に家を建てた人のようだ、と言いました。岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人がいて、神さまの御心を行う人は、岩の上に家を建てた人のようで、その家は、嵐が起こり洪水になっても倒れず押し流されない。ところが、砂の上に家を建てた人は、簡単に建てられるけど、土台が砂で弱いから、嵐が起こり洪水が押し寄せると、その家は倒れ、流されてしまう。口で“主よ、信じます”と言うだけで、神さまの御心を行わない人は、信仰が身につていないから、いざっ と言う時に、神さまを信じられない、信仰が力にならないのです。
 神さまのみこころは何か、それを聖書の御言葉から聴いて、行いながら生活すると、だんだん、実力が付いて来ます。それは言わば、信仰の“トレーニング”です。
 どんなことでもトレーニングをして、練習しなければ力がつきません。例えば、山岡海波くんは夏休みが明けて2学期になったら早速、1学期に習った漢字の50問テストがあるそうです。50問テストがあるということ、そしてどんな漢字が出されるか知っている、というだけでは良い点を取って合格することはできません。出題される漢字を繰り返し書いて、練習でテストをやってみて、そうやってトレーニングをして力をつけていきます。
 サッカーだって、例えばシュートだったらどう蹴るか、コーナーキックだったらどう蹴るか、近くにいる人にパスするならどう蹴るか、頭で分かっていても試合で使える技術にはなりません。インステップ・キック、インフロント・キック、インサイド・キック、普段から練習して身につけて、試合で使える力になります。
 マラソンだって同じです。速く走れるように足の筋肉を鍛える。激しい呼吸になっても、それに耐えられるように肺を鍛える。そのために、長い距離を走り、短い距離をダッシュし、階段の上り下りなどしてトレーニングします。そうやって練習した力が本番で発揮されます。
 神さまを信じる信仰も同じです。私たちが生きている自分の人生は、ある意味、テストです。試合です。本番です。大きな大会だってあります。人生に成功してうまく行っている時、反対に苦しみや悲しみに遭い、落ち込む時、神さまの御言葉を聞き、御心を行うことができるかどうかが試されます。そんなに大きな“大会”でなくとも、普段の友だちとの関係や家族との関係、ちょっとした生活の中で、人を愛して生きているか、平和を造り出そうとしているか、御言葉を聞いて聞き流すか、それとも行おうとするかで大きく変わって来るのです。

 イエスさまは、そして聖書は、みこころを行う人になりなさい、と言われます。
 ところで、私たちは“みこころが天で行われるように地上でも行われますように”と祈りますね。“行われますように”という祈りは、だれかに期待しているような祈りですね。みんなは、だれが行ってくれると期待していますか? 神さまが行ってくれる。イエスさまが行ってくれる。お父さんやお母さんや兄弟が行ってくれる。友だちが行ってくれる。教会の大人が行ってくれる。だれかが行ってくれる。何か大事な人が抜けていますね? 神さまのみこころを行うのは、他(ほか)のだれでもない、あなたです。
 イソップ童話でしたか、こんな話がありました。ある家にねずみがたくさん住んでいた。でも、その家ではネコを飼っていて、ねずみの仲間が被害に遭う。どうしたらいいだろう? そうだ、ネコの首輪に鈴をつければいい。そうすれば、ネコが近づいて来たら鈴が鳴って分かるから逃げられる。それは良い考えだ、と話がまとまりました。では、だれがそれを行うか。だれがネコの首に鈴を付けるか。あなたがやってよ。いえ、あなたがやってよ。わたしは嫌よ‥‥‥ということになって、良い考えだけど、結局だれも行わなかった、というお話がありましたね。
 神さまのみこころも、だれかが行ってくれるだろうと思っていたら、いつまで経っても、地上に愛と平和は実現しないでしょう。みこころを行うのは、まず“わたしから”。そう心に決めて、祈り始めると、わたし(自分)の周りに小さな愛と平和の世界が生まれて来ます。わたしの家庭が、わたしのクラスが、わたしの職場が、小さな愛と平和の世界になり始めます。そこから愛と平和の世界が少しずつ広がっていきます。
 イエスさまは、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである」と教えられました。それは、神の御心を、他のだれかではなく、まずあなたが行う人になってほしいと願って言われたに違いありません。
“みこころが天で行われるように地上でも行われますように”
 こう祈るとき、“地上でも、みこころを、わたしが行うことができますように”という志(こころざし)を持って祈りましょう。





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