2010年9月12日 日本基督教団信仰告白6
  聖  書  ヨハネによる福音書15章11〜17節

  説教者  山岡 創

「 神に選ばれている 」

 坂戸いずみ教会の教会員に、Eさんという方がいらっしゃいます。皆さんの中にはお会いになったことがない方もおいででしょう。現在85歳におなりですが、3年半ほど前に倒れて入院されました。その後、回復されたのですが、以前のように一人暮らしをすることは難しいということで、そのまま長期療養型の病院に入院なさって今日に至っています。どうぞ心に留めてお祈りください。
 このEさんが、祈られるたびに口にされる御言葉が、ヨハネによる福音書15章16節でした。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)。
そして、“わたしのような者を、罪深い者を、あなたが選び、救ってくださり、ありがとうございます”と、いつも感謝の祈りをなさいました。もちろん今も、その祈りは変わらないでしょう。折々にお訪ねする時、いつも感じるのは、長い入院生活をなさりながら、Eさんは本当に感謝にあふれているということです。不思議なほどにそうです。その根本には、自分のような者が神さまに選ばれている、という謙遜な信仰と感謝があるのだと思います。

 神は恵みをもて我らを選び‥
 私たちは、日本基督教団信仰告白の中で、このように告白します。神さまは恵みによって私たちを選んでくださった、と。今日は、この“選びの信仰”について、聖書の御言葉から聴きたいと思います。
 聖書において、最初に神さまから選ばれたのは、アブラハムという人物でした。旧約聖書・創世記12章のはじめに、アブラハムの選びのことが記されています。この時はまだ、アブラムという名前でした。神はアブラハムに、このように言われたのです。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。‥‥‥地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(12章1〜3節)
 神がお造りになった世界で、人はアダムとエヴァ以来、罪と悪を犯し続け、祝福をいただくことができなくなってしまいました。その祝福を再び取り戻す者として、すべての人に神の祝福を回復する者として、アブラハムが選ばれたのです。
 その後(数百年後)、アブラハムの子孫たちはエジプトで奴隷となりました。祝福どころではありません。けれども、モーセが現れ、アブラハムの子孫であるイスラエルの民を導き、エジプトから脱出させました。
 エジプトを脱出したイスラエルの民は、神さまがかつてアブラハムに行けと言われた「わたしが示す地」に向かって旅をします。約束の地カナンです。そして、約束の地の一歩手前で、モーセが神さまの御心、戒めとして民に話しました。その言葉が記録されているのが申命記という書ですが、その中でモーセは、こう語っています。
「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は‥‥‥救い出されたのである」(申命記7章6〜8節)。
 モーセは、イスラエルの人々を、驕り高ぶらないように戒めたのです。あなたたちは、確かに神さまに選ばれている。けれども、それは、あなたがたが他の民族と比べて優れていたからではない。数が多かったからではない。むしろ、比べれば、あなたたちはどの民族よりも貧弱だった。しかし、その弱いあなたを神は愛されたのだ。そして、誓いの約束を守って、あなたがたをご自分の“宝物”となさったのだ。
 つまりモーセは、誇り高ぶることなく、“自分のような者を選んでいただいた”と謙遜な信仰と感謝の思いを持ちなさい、と教えているのです。
 この世の中の選びの意識と、聖書における“選びの信仰”が大きく違うところは、この点です。普通、選ばれるということは、自分の優れた力が認められるということです。例えば、会社の特別なプロジェクトの一員として抜擢されたり、スポーツ等でチームのレギュラーに選ばれたり、あるいは自分の作品や作文が学校の代表に選ばれたりします。それは、他の人に比べて、その人の何かが優れていると評価され、必要と認められて、選ばれたということです。努力をし、自分を磨き鍛えることは尊いことですし、その結果として選ばれる栄誉を得たとすれば、それは素直に喜んで良いことでしょう。それが、“この世の選び”ということです。
 けれども、そのように自分が選ばれたことを、ともすれば誇り高ぶり、エリート意識を持つようになる場合があります。それは、心の醜い姿であり、周りの人を不愉快にするので、良くありません。
 聖書における選びの信仰は、私たちが他の人よりも優れているから選ばれたということではないのです。だから、誇り高ぶるのはおかしいですし、エリート意識を持つとすれば、それは間違っています。むしろ、イスラエルのように、弱い者、劣った者が選ばれているのです。愛のゆえに、誓いの約束に対する誠実さのゆえに選ばれたのです。
 神さまの選びとは、“結婚”と似たところがあるかも知れません。そう言えば、神さまを信じて洗礼を受け、クリスチャンになることを、キリストの“花嫁”となると譬えられることがありますが、私たちが結婚する時も、多くの人を比較して、この人がいちばん優れているからという理由で結婚するのではないと思います。私たちは出会った人と、その中で愛した人と結婚します。愛には比較という視点はありません。そして、もっと優れた相手が現れたからと言って、そちらを愛するといったことはありません。愛の誓い、愛の約束に誠実に、自分の伴侶と結婚関係を続けます。
 神さまもまた、私たちと出会い、愛をもって私たちを選び、愛のゆえに私たちを捨てず、誠実に選び続けてくださるのです。

 そして、この信仰は、新約聖書にも受け継がれて行きます。パウロは、コリントの信徒への手紙(一)1章26節以下で、コリント教会の信徒たちにこう語っています。
「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」
 神の前に自分を誇った人々がいました。律法学者たちとファリサイ派の人々です。彼らは、自分たちが神の掟である律法を守って行うから、神さまに認められ、選ばれているのだと自負していました。そして、知恵もなく、能力もなく、家柄もなく、律法をも守れない人々を見下していました。
 けれども、主イエスは、そのようなファリサイ派の人々の考えを斥(しりぞ)けられました。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20章16節)と。
 そして、主イエスがお選びになったのは、ガリラヤの漁師や徴税人でした。「今から後、あなたは人間を取る漁師になる」(ルカ5章10節)と言って、アンデレを選び、ペトロを選び、ヤコブとヨハネを選び、「わたしに従いなさい」(マタイ9章9節)とマタイをお選びになりました。他の弟子たちも同じように召され、選ばれたのでしょう。
 その主イエスが、最後の晩餐の席上で、弟子たちを諭(さと)して言われたのが、16節の御言葉です。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。
 直前の箇所、15章前半で、主イエスは〈ぶどうの木とその枝〉の譬(たと)えを話しながら、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(9節)と語っておられます。主イエスもまた、弟子たちの知恵や能力や家柄が優れていたから選ばれたのではなく、愛によってお選びになったのです。それが、信仰告白の中で言われている、“恵みによって”選ばれたということです。私たちの知恵や能力が高かったり、良い結果を出したり、良い行いを積んだから、その力や功績によって選ばれたのではないのです。それで選ばれたと考えるなら、神の前で誇っています。傲慢になっています。選ばれる功績も資格もない、むしろふさわしくない者、弱く、罪深い者が選ばれている。それが、神の恵みです。

 ところで、弟子たちは、体験的に考えても、自分が主イエスに選ばれたとリアルに実感することができたでしょう。さて、私たちはどうでしょうか?
 主イエス・キリストが、私たちを選んでくださっている。もしかしたら、弟子たちのようにはピンッと来ないことかも知れません。私たちの中には、生まれた時から教会に来ているというのでもなければ、人生のどこか途中で、キリスト教を選び、教会を選んで、自ら信仰の道に入ったという方がほとんどでしょう。そして、信仰生活を始めれば、日曜日の生活をどうするか迫られます。休養を取ったり、人づきあい、レジャーなど色々な選択肢の中で、礼拝を選び、日曜日は教会に来る、という方もいらっしゃるかも知れません。そういう意味で、私たちがイエス・キリストを選んだ、キリスト教の神さまを選んだと言っても、決して間違いではないと思います。そうだとすれば、イエス・キリストが私たちを選んだ、という信仰の意味はいったい何でしょうか。
 12節に、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とあります。また、先ほど挙げた9節にも、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」とありました。これらの御言葉が表わしていることは、主イエスの愛が先行している、ということです。弟子たちが主イエスを愛する前に、主イエスが弟子たちを愛してきた。そして、その御言葉は、現代のクリスチャンである私たちも、そのように受け取るべき、信じるべきものです。この御言葉によって、キリストが、父なる神さまが先に、私たちを愛してくださっていたと信じるのです。
 私たちがキリスト教を選び、日曜日に礼拝を守るのは、神さまに対する私たちの愛でしょう。けれども、私たちが神を愛する前から、神は私たちを愛していてくださった。愛をもって“私”をお造りになり、命を与え、養い、育み、導き、支えてくださっている。それは言い換えれば、私たちが自分の力で生きているのではなく、生かされて、こうしてあるということを信じる信仰でもあります。そのことを信じるのが、選びの信仰です。選ばれているということは、愛されていることであり、生かされていることなのです。
 信仰生活を始めて、最初のうちは、分かりにくいことかも知れません。けれども、信仰の歩みを続けていくうちに、いつか、選ばれ、愛され、生かされてあることが、理屈を抜きにして、命の実感として納得される時がきっと来ます。神は恵みをもて我らを選び、と心から告白できるように変えられます。





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