2010年9月26日 大人と子どもが共に守る礼拝(主の祈り4)
  聖  書  ルカによる福音書9章10〜17節

  説教者  山岡 創

「 この日の糧(かて)を 」

 わたしたちに今日もこの日のかてをお与えください。
 口語訳の主の祈りでは、この部分を“我らの日用の糧を、今日も与えたまえ”と祈っていました。まだ、口語訳の主の祈りを祈っている教会が多いので、子どもたちも、合同キャンプやCSせいと大会で、聞いた覚えがあるでしょう。
 “にちようのかて”って何だろう? 私は小学生の頃、ふと疑問に思ったことがありました。自分が知っている言葉を当てはめて、“にちようのかて”というのは“日曜日の家庭”だと思っていました。‥‥全然違う。“にちよう(日用)”というのは、毎日使う、とか、毎日必要な、ということで、“かて(糧)”というのは、食べ物、食事の意味です。
 我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。この祈りは、“私たちに必要な食べ物を、今日も与えてください”という意味でした。

 坂戸いずみ教会では今、現代文(NCC統一訳)の主の祈りを祈っていますので、“わたしたちに今日もこの日のかてをお与えください”と祈ります。
 主の祈りは、この祈りからガラリと内容が変わります。今までの、最初の3つの祈りは、どちらかと言うと、神さまに関わる祈りでした。神さまの名前、神さまの御国、神さまの御心のための祈りでした。
 しかし、この祈りから、私たちの生活に関わる祈りに変わります。食べ物のこと、人間関係のこと、苦しみのこと。その最初に、食べ物を求める祈りが祈られます。イエスさまは、私たちの生活のことで、まず食べ物のことを心配してくださっているのです。
 けれども、わたしたちに今日もこの日のかてをお与えください、という祈りは、子どもたちや若い世代の人たちには、一生懸命の(切実な)祈りにはなりにくいかも知れません。なぜなら、食べ物のことでほとんど苦労したことがないからです。
 みんな、お家や学校の給食も含めて1日3回、ごはんを食べると思いますが、そのごはんがなかった、食べられなかったということがありますか?・・たぶん、ないですよね。ごはんはあるのが当たり前、食べられるのが当たり前、だから、ごはんが食べられないなんて考えたこともない。食べられなくて困ったとか、苦しんだことがない。だから、食べ物を求める祈りはピンッと来ないのではないかと思います。
 昔は日本にも食べ物のない、乏しい時代がありました。この前、8月の平和聖日礼拝で、加藤静江さんが、65年前の戦争を体験したことをお話ししてくださって、子どもたちの中にも、それを聞いた人がいますね。戦争中、また戦争が終わった後しばらくは、食べ物があまりありませんでした。だから、その時代に生きたお歳(とし)の方々は皆、食べることに苦労されたと思います。私のお父さんも、食べ物がなくて、山の畑にジャガイモを植えて、じゃがいもばかり食べていたといいます。毎日毎日、じゃがいもで、すっかりじゃがいもが嫌いになってしまったそうです。
 イエスさまの時代のユダヤの人たちも、貧しくて、その日の食べ物に困る人がたくさんいました。だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩む人がいっぱいいたのです。そういう人々に、イエスさまは、“この日のかてをお与えください”と祈る祈りを教えてくださいました。
 この祈りの大切なところは、神さまを信頼することです。食べ物がない日もあるかも知れません。それでも、神さまは明日、必要なものを与えてくださると信じる信頼の心。その信仰を、イエスさまは人々の心に取り戻そうとなさったのです。
 私たちも、毎日ごはんが食べられる、ということは、決して当たり前ではありません。今日食べられたから、明日も必ず食べられるとは限らないのです。世界に異常が起こるかも知れませんし、仕事を失い、食べ物を買うお金がなくなるかも知れないのです。でも、今、こうして食べられる。生きられる。
 私たちが食べられるように、働いてくれるお父さんやお母さんに感謝して、食べ物を作ってくれている人々に感謝して、そして、太陽を昇らせ、雨を降らせ、生き物を育(はぐく)み、私たちに命と食べ物を与えてくださる神さまに感謝する。その感謝と信頼を込めて、これからも、わたしたちに今日も、この日のかてをお与えください、と祈り続けていきましょう。

 もう一つ、この祈りを祈る時に考えたいのは、“わたしたちに”という言葉です。“わたしたち”とはだれでしょう? もちろん、“私自身”、自分が入っています。私と家族だと考えて良いでしょう。友だちや仲間たちのことも考えられます。
 けれども、もっと広く考えて、世界中の人々を“わたしたち”と考えたいのです。そうだとすれば、この祈りは、“世界中の人々に”この日のかてをお与えください、という祈りになります。
 『世界がもし100人の村だったら』という本がありました。その本によれば、世界では100人のうち50人に食べ物が足りなくて栄養失調だそうです。そして、100人に一人は食べ物がなく死にそうな状態です。
 そして、このように書かれています。
もし、あなたが今朝、目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることができたなら・・あなたは今生き残ることのできないであろう100万人の人達より恵まれています。
もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も体験したことがないのなら・・・あなたは世界の5億人の人達より恵まれています。
もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問(ごうもん)または死の恐怖を感じることもなしに教会のミサに行くことができるなら・・・あなたは世界の30億人の人達より恵まれています。
もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのなら・・・あなたは世界の75%の人達より裕福で恵まれています。
もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら・・あなたはこの世界の中でもっとも裕福な上位8%のうちの一人です。 
 私たちは、この裕福な上位8%のうちに、100人のうちのたった8人に入っているのではないでしょうか。そのことを知った上で、私たちがなお“世界中の人々のために今日も、この日のかてをお与えください”と祈るとすれば、それは私たちが神さまから自分に与えられたものを独り占めしようとせず、与える心、分け合う心と行動を持つことにつながると思います。
 私たちは、大きなことはできないかも知れません。わずかしか分けることができないかも知れません。けれども、神さまはきっと、私たちが分けるものを大きく生かしてくださいます。わずか5つのパンと2匹の魚を、5千人もの人々に分け与え、満腹させることができる力をお持ちの神さまは、私たちが献げ、分かち合うものできっと、この世界で飢えている人たちを一人でも、二人でも助けてくださるでしょう。

 わたしたちに今日もこの日のかてをお与えください。
 この祈りに、感謝と分かち合う心を込めて、祈り続けていきましょう。





   ウィンドウを閉じる