2010年10月3日 日本基督教団信仰告白7
  聖  書  ガラテヤの信徒への手紙5章16〜26節

  説教者  山岡 創

「 聖霊の結ぶ実 」

 10月を迎えました。今年の夏は特に厳しい暑さでしたが、それも終わり、ようやく過ごしやすくなってきました。9月も半ば頃から雨も降り、畑をしている人にとっては、やっと秋冬物の種をまいたり、苗を植えたりすることができるようになって来ました。
 私も夏の野菜の後片付けを少しずつしていますが、まだ秋冬物に手が付いていません。早くしないと、と思いながら、9月はなかなかまとまった時間を作って畑に行けない日が続きました。
 そんな中で、夏物のナスが未だにがんばっています。“秋ナスは嫁に食わすな”などという諺がありますが、本当によく取れます(私は秋ナスの味はよく分かりませんが)。昨日も夕方にちょっとだけ言って、10本余り取って来ました。(今日は後で読書会の味噌汁に御馳走したいと思います)何が良かったのか、やっぱり土が良かったのかと思いますが、驚くほど、食べきれないほど、よく取れました。
 野菜が実を結ぶということは、それだけの理由、要素があると思います。土の中に必要な、十分な養分がある。陽の光をよく浴びて、また水やりも適度にできている。害虫がまめに取り除かれている。そういう条件が揃うと、それだけよく実を結ぶのだと思います。

 今日の説教も、実を結ぶという話です。私たちの心の内にある“信仰”も実を結びます。ある栄養分があれば、しっかりと実を結びます。その栄養分とは“聖霊”です。神さまの霊という栄養、目には見えない神さまのお働きです。
 私たちが、神さまから聖霊をいただいて、しっかりと吸収すれば、私たちの信仰は豊かな実を結びます。そのことを、私たちは信仰告白で次のように言い表します。
  この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の実を結ばしめ、その御業を成就したまふ。
 聖霊は、私たちの心の内に植えられ、育った信仰という名の木(野菜)に、実を結ばせる栄養であり、力であり、働きなのです。
 今日、御言葉を聴いたガラテヤの信徒への手紙5章には、聖霊が私たちにどのような実を結ばせるかということが22節に記されていました。
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(22〜23節)。
 私たちの心に信仰があって、そこに聖霊という栄養分が注がれると、私たちは、「愛」をはじめ、こんなにすばらしい実を結ぶのです。私たち、自分の心の内に、22節に書かれている「霊の結ぶ実」の中で、どれが実っているでしょうか? 主イエスを信じる者として、どれか一つでも、たとえ小さくても、聖霊の実を結びたいと思います。そのためには、聖書を読み、祈る生活を心がけることで、神さまから聖霊を注いでいただく以外にありません。

 けれども、聖霊という栄養分が足りず、逆に、悪条件の方が強くなると、私たちは実を結びません。それどころか、結んではならない悪い実を結んでしまうのです。どんなものが悪い実なのか、19節以下に記されています。
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(19〜21節)。
 この中で、自分にも心当たりのあるものが幾つかあるのではないでしょうか。もしかしたら私たちの中で、これらの悪い実の方が、聖霊の結ぶ良い実よりも多い、大きいかも知れないのです。
 聖書の中で思い起こす話をしましょう。イスラエルにダビデ王という王様がいました。旧約聖書のサムエル記に出て来ます。神さまの御心に従う、立派な王さまでした。
 けれども、ある日の夕方、ダビデはお城の屋上から、一人の女性が裸で水浴びをしているのを見て、いやらしい気持を起しました。そして、その女性は結婚していて夫のいる女性でしたが、家来に命じてその女性をお城に連れて来させ、浮気、不倫をしました。今日読んだ聖書の言葉で言えば、「姦淫、わいせつ、好色」の罪を犯したのです。
 それだけで終わりません。この女性のおなかに赤ちゃんができてしまいました。この女性の夫は長い間、戦場で戦っていて家に帰っていません。だから、夫がいないのに、どうして赤ちゃんができたのだろう?これは不倫、姦淫だということがばれてしまいます。そこでダビデは自分の姦淫の罪を隠そうとします。そして遂には、この女性の夫を戦場でわざと殺し、自分がこの女性と結婚して妻にしてしまうのです。恐ろしいほどの「利己心」です。
 けれども、このダビデ王の犯した罪は、“私には関係がない”他人事だと、私たちは言えないのです。私たちも同じような罪を犯すかも知れない。これほどでなくても小さな罪を犯しているかも知れない。なぜなら、私たちの心の中にも、「肉の欲望」(16節)があるからです。
 ガラテヤ教会の信徒たちは明らかに、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりする」(25節)罪を犯していたと思われます。だれの霊の賜物、能力が優れているかと比べ合っていたのかも知れません。そこには、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」があったでしょう。そのような「肉の業」が自分には全くないと、だれが言えるでしょうか。

 今日読んだ聖書の御言葉の中に、何度も「肉」という言葉が出て来ました。私たちの心が「肉」に食われてしまうと、こうなります。
 今日、礼拝に出席している子どもたちは、「肉」とは何のことか分かりますか? 「肉」に食べられるって変だ、肉は食べるものじゃないか、と思うかも知れません。でも、この「肉」は、豚肉や牛肉や鶏肉のように、食べる肉のことではありません。この「肉」は、さっきからお話ししている「霊」と反対のもの、聖霊に逆らい、対立するものです。「霊」は、神さまの願いは何だろうと私たちに考えさせますが、「肉」は、自分の願いばかり考えさせ、私たちを自己中心にするものです。だから、「霊」が私たちの心の中に住んで、働いている時は良いのですが、「肉」が私たちの心をペロリと食べてしまうと、私たちは欲望に負けて悪い実を結ぶのです。
 今日の御言葉の17節に、「肉と霊が対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」と書かれていました。私たちの心の中は、「肉の欲望」だけではありません。かと言って、「霊」だけでもありません。「肉の欲望」と「霊」の思いの両方があって、心の中で対立し、私たちの心を自分の方に引き込もうとして“引っ張りっこ”をしているようなものです。
 主イエスが荒れ野で悪魔と対決した話を思い起こします。悪魔は、主イエスに、石をパンに変えよ、神殿の屋根から飛び降りてみよ、自分を拝めばこの世のすべてをやろう、と3度、主イエスの心を誘惑しようとしました。この悪魔とは、今日の聖書の言葉で言えば、「肉」です。「肉の欲望」です。
 その時、主イエスはどのようにして悪魔に、「肉の欲望」に打ち克(か)ったのか。聖書の御言葉によって、です。聖書の御言葉を思い起こし、御言葉に従うことによって、悪魔の誘い、「肉の欲望」に打ち克ったのです。
 私たちの心の内にも、「霊」と「肉」の両方があり、対決しています。その二つに挟まれて、私たちの心は、どうしようかと悩み、葛藤します。その時、「霊」に勝っていただくためには、私たちが聖書を読み、神の御言葉に聴く以外にないのです。
御言葉を思い出し、神さまが自分に何を語っているか、何を求めているかを、よく考える。そして、“弱い私を助けてください”と真剣に、聖霊の助けを祈るのです。御言葉と祈りのあるところに、必ず聖霊は働きます。聖霊が実を結ばせてくださいます。もしも実を結べない時があっても、聖霊が働いていれば、きっと心からの悔い改めに導かれます。心からの悔い改めは、きっと良い実を結ぶことにつながります。

 聖霊が働く時、私たちは良い実を結びます。神を愛し、人を愛する“愛の実”を結びます。神さまの恵みによって無償で救われた喜びにあふれ、人に対して寛容に、誠実に、柔和に接し、善意を抱き、親切にして、人間関係に平和を生み出します。自分の怒りや妬(ねた)みをコントロールしようと節制します。聖霊は、主イエス・キリストの愛と犠牲によって救われたと信じる者に、主イエスのように生きようとする新たな志を与えるのです。

 一つだけ気をつけて、誤解しないでいただきたいことがあります。私たちは、聖書によって教えられている救いの真理をよく知らないと、救いを誤解することがあります。つまり、自分が良い実を結んで、良い心になって、善い行いをしたから、だから神さまが救ってくださると誤解するのです。そして、良い実を結ばず、善い行いができないと、こんな自分は神さまに救われないと落ち込み、あんな人は神さまに救われないと非難するのです。けれども、その考えは、聖書的に言って間違いです。誤解です。
私たちは、この変わらざる恵みのうちに、と告白します。神さまは、主イエス・キリストがご自分の命を十字架に捨てた、その愛と犠牲によって私たちの罪を赦し、受け入れ、生かしてくださいます。この恵みは変わることがないのです。私たちが善い行いをしようとしまいと、良い実を結ぼうと結ぶまいと、変わらないのです。
だから、私たちは救われるために、良い実を結び、善い行いをするのではありません。良い実を結び、善い行いをしたから救われるのではありません。順序が反対です。無償で、無条件で、私たちは救われたのです。その喜びと感謝があるからこそ、私たちは、救いの恵みに応えようとして、神の愛に応えようとして、キリストに倣(なら)い、聖霊の実を結びたいと志すのです。
 神の救い、神の恵みは、私たちがどんな人間、どんな状態であっても変わりません。神さまは“私”を愛されます。それを知っている者が、心に霊の実を結びながら歩むのです。





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