2010年10月24日 日本基督教団信仰告白9
  聖  書  使徒言行録2章42〜47節

  説教者  山岡 創

「 神を賛美する集まり 」

  “教会って何ですか? どんなところですか?” もし、教会のことを何も知らない友人から、このように聞かれたら、皆さんなら何と答えますか? ダラダラと、的を得ない話をしても、尋ねた相手はかえって混乱します。ズバリと短く答えるとしたら、何とお答えになりますか?
 教会で、当たり前のように教会生活をしていると、ふと、その答えを見失うことがあるように思います。
 私も、父と母が牧師でしたから、教会の中で当たり前のように育って、教会ってこういうものなのだろうと感覚的に受け止めて来ました。教会とは何か、ということを改めて考えてみたことはなかったように思います。
 牧師になって、教会を指導する立場に立って初めて、教会とは何か、ということを真剣に考えるようになりました。私には、川越の初雁教会での経験しかありませんでしたが、周りに色んなタイプの教会があります。また、1992年にこの教会が始まった時、私よりも信仰生活が長く、それぞれの教会で教会生活を経験なさって来たが方が少なからず、転入会して教会員となられました。色んな意見がありました。そして、その後の教会での出来事や経験を通して、色んなことを考えさせられました。
 色んな教会があり、色んな意見や考えのある中で、どの教会にも共通のものがあります。あるはずです。
 私は、迷った時はこういうふうに考えて、整理したら良いと思っています。教会にしかできないことは何だろう?
 教会でなくてもできることを、教会がわざわざしなくても良いのではないか。例えば、教会はコミュニティー・センターではありません。人間的な社交の場ではありません。親しい交わりがあった方が良いと思います。けれども、それがメインではありません。教会は単に、“仲良しクラブ”ではないのです。
また教会は、社会活動や政治運動をする団体でもありません。もちろん、教会にはキリストの愛をもってこの世に関わり、この世に仕えるという面があります。けれども、その前にすべきこと、教会でないとできないことがあります。教会は単に、善いことをするための“慈善団体”ではないのです。
そのように絞って来ると、教会とは何かということが見えて来ます。教会にしかできないことは何か。それは、神を礼拝することです。礼拝を共にすることです。
だから、私は、“教会とは何ですか?”と聞かれたら、こう答えます。教会は、礼拝を共にするところです。礼拝共同体です、と。それが、教会の第一義です。

 実は、私たちが言い表している日本基督教団信仰告白の中に、既にそのことがはっきりと記されています。“教会は公の礼拝を守り”と。公の礼拝を守るところ、それが教会だと私たちは告白しているのです。
 ところで、“公の礼拝”とは何でしょうか? “公”というのは、共有する、共にする、という意味です。礼拝にも個人的な礼拝というものもあると思います。家庭礼拝とか、独りで聖書を読み、祈ることも、ある意味で礼拝、個人的な礼拝だと言ってよいでしょう。けれども、教会とは礼拝を共に守る交わりなのです。
 今日の聖書の御言葉にも、ペトロら弟子たちの言葉を受け入れて洗礼を受け、イエス・キリストを救い主と信じた人々が、礼拝を共にしている様子が描かれています。
「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」(47節)。
 今日の聖書箇所の直後の3章1節に「ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行った」とあるように、ユダヤ人には1日の中で祈りの時間が定められていました。弟子たちやキリストを信じた人々は、その後の3章11節にあるように、神殿の「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所で、祈りを共にしていたのではないかと思われます。そこでは、2章42節にあるように、「使徒の教え」、すなわちイエス・キリストによる救いが、今日の説教のように語られていたでしょう。
 そして、神殿に参って祈ると共に、家ごとに集まってパンを裂き、一緒に食事をし、神を賛美していたとあります。
 共にパンを裂くことは、主イエス・キリストが最後の晩餐の際に、“これはわたしの体、これはわたしの血”と言って、ユダヤ人の伝統である“過ぎ越しの食事”の儀式を行う際にパンを裂いて渡し、ぶどう酒の杯を分かち合ってくださったことが元になっています。過ぎ越しの食事というのは、ユダヤ人の先祖が、いにしえの昔、モーセに導かれて、奴隷の国エジプトから脱出することができた救いの出来事を記念し、神さまに感謝するために行われていたものでした。あの時、人々は羊の血を自宅の入口の柱に塗りました。それが目印となってユダヤ人の先祖は救われました。それと同じように、イエス・キリストが十字架の上でささげる命と血が、信じる者の罪を赦し、命を救う。パンはキリストの命、ぶどう酒はキリストの血の象徴。そう信じて、彼らはパンを裂くことを始めたのです。それが、今日の聖餐式になりました。
 当初は、御言葉にもあるように、そのパンを裂き、分け合って、食事の交わりをしていたようです。けれども、それが礼拝の中に組み込まれていく過程で、食事という要素は薄れて、今日のような形になっていったのでしょう。
このような初代教会の姿が次第に整えられて、礼拝の形が生まれて来ました。特に、イエス・キリストを救い主と信じていた彼らは、当初は自分たちをユダヤ教とは別の宗教とは考えていませんでしたから、ユダヤ教の神殿で祈りをささげていたのです。けれども、やがて彼らはユダヤ教の異端(いたん)と見なされ、迫害され、神殿から追い出されることになります。
そうなって彼らは、「家ごと」の集まりが中心になりました。ユダヤ教が安息日とする土曜日ではなく、イエス・キリストが復活した日曜日に、信徒の家に集まり、キリストの救いのメッセージが語られ、聖餐が共に守られ、詩編が朗読され、賛美が歌われ、祈りが共になされるようになって行きました。これが“家の教会”と呼ばれ、今日の礼拝の原型になったものだと言って良いでしょう。

 このようにして教会は、当初から“公の礼拝”を守り続けて来ました。
教会が、信じる私たちが共に礼拝を守る。それは、お互いに祈り合い、励まし合い、助け合うためだと言って良いでしょう。もし私たちが、自分独りでも信仰を堅く保つことができるなら、共に集まり、公の礼拝を守る必要はないのかも知れません。
けれども、私たちは独りでは弱い者です。聖書の御言葉に、キリスト教信仰に、自分を導き、支え、救うものがあると思っていても、自分独りでは、この世の流れに飲み込まれ、この世の考えに押し包まれて、キリストを信じて従う信仰の道を歩き続けることができないのではないでしょうか。だからこそ、私たちは共に集まり、共に礼拝することで、お互いの信仰を励まし合うのです。お互いの喜びも苦しみ悲しみも分かち合いながら、信仰によって神の慰め、神の励ましを分かち合うのです。
もう一つ、信じる私たちが共に礼拝を守るのは、信仰告白にあるように、“福音を正しく宣(の)べ伝え”るためです。
 “福音”という言葉は、日常生活の中では、まず使いませんし、聞くこともないでしょう。福音とは簡単に言えば“良い知らせ”という意味です。それは、主イエス・キリストを信じることによって救われる、という知らせ、救いの知らせです。
 この良い知らせ、福音を宣べ伝えることを教会は、主イエス・キリストから使命として託されているわけですが、福音を宣べ伝えると言うと、私たちは、教会から“外に”出て行って伝えることをイメージするのではないでしょうか。例えば、教会バザーのポスターを貼ったり、ちらしを配ったり、教会案内をポストに入れたり、知り合いに聖書の話をしたり、教会に誘ったりすることをイメージするのではないでしょうか。
 もちろん、それも福音を宣べ伝えることの一つです。間違っていません。
 けれども、福音とは、まず第一に、礼拝において宣べ伝えられるべきものだというのが、私たちの信仰告白が言っていることなのです。
 教会の礼拝というのは、信徒でない一般の人々にとっては敷居が高い、参加しにくい、というイメージがあるようですが、けれども、公の礼拝としてこの礼拝はだれにでも開かれている。だれでも参加して、共に守ることができる。その礼拝においてこそ、まず福音は宣べ伝えられるのです。
 そこで大切なことは、福音は牧師一人で宣べ伝えるものではない、ということです。もちろん、信徒の皆さんに、ここで説教をせよ、というのではありません。けれども、牧師には説教(福音)を語る務めがあるように、信徒の皆さんには、説教を通して福音を“聴く務め”があるのです。祈りと聖霊に助けられて、牧師が福音を語り、信徒が心を開いて聴く。それによって初めて、説教は説教になる。福音が正しく宣べ伝えられたことになるのです。だから、もし私の語る説教の内容が聖書の御言葉と違う、間違ったものであったら、信徒の皆さんには、それを指摘し、牧師に正しく語ることを求める責任があるのです。
 説教とは牧師と信徒の共同作品です。福音とは牧師と信徒が共に伝えるものです。互いに祈り合い、信仰の恵みを分かち合い、励まし合いながら、共に礼拝を守り、福音を宣べ伝えていきましょう。





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