2010年11月14日 日本基督教団信仰告白10
  聖  書  コリントの信徒への手紙(一)11章23〜27節

  説教者  山岡 創

「 主イエスを記念する教会 」

 ちょっとだけ難しい話をします。
 今、私たちの教会では日本基督教団信仰告白の内容について、聖書に基づいて説き明かす礼拝説教を続けています。日本基督教団信仰告白は大きく分けると、聖書についての告白、神についての告白、そして教会についての告白に分かれています。この教会についての告白の中で、私たちは、“教会は‥‥バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い‥”と言い表します。
 聖礼典というのは、この信仰告白以外では、まず聞かない言葉です。聖書の中にも出て来ません。
 “聖礼典”と訳された元々の言葉は、ラテン語でサクラメントと言います。これは本来、軍隊において兵士が軍に従うことを誓う誓約を意味したそうです。それが、主イエス・キリストに従う誓約の意味になり、やがてキリストと結びつき一つになる神秘(奥義=おうぎ)を表すようになりました。
 宗教改革から始まるプロテスタント教会では、聖礼典はバプテスマと主の晩餐、すなわち洗礼と聖餐の2つと定められています。けれども、元々カトリック教会では、聖礼典(秘蹟と言う)は7つありました。それを、マルチン・ルターら宗教改革者たちが聖書の中にあるものだけ、洗礼と聖餐だけにしぼったのです。
 そのようにして、聖礼典は、教会が確かに教会であることの“目印”となりました。宗教改革者の一人であるカルヴァンは、“教会が確かに教会であることの目印は、説教が聖書に基づいてきちんと語られ、また聞かれていること。もう一つは、聖礼典がキリストの制定の言葉に従って行われていることだ”と、簡単に言えばそのように語っています。この教会に対する理解、聖書に基づいた教会に対する信仰を、私たち日本基督教団の教会も受け継いでいます。“教会は‥‥バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い‥”と言い表すことで、聖礼典は、説教と並んで、教会が本当にキリストの教会であることの大切なしるしだと宣言しているのです。なぜなら、洗礼と聖餐こそ、私たち一人一人がキリストに結びつき、教会に結びつき、信仰による集まりを形作ることだからです。

 さて、そのような聖礼典の一つである洗礼ですが、今、私たちの教会では、TさんとWさんがクリスマスに洗礼を受けることを志しておられます。既にお二人と受洗準備会を始めました。その学びの中で、まずお話ししたことは、洗礼とはゴールではない。信仰生活の“スタート”である。神さまに心を向けて生きる人生のスタートであるということです。
 私も16歳、高校に入学したばかりのイースター礼拝で洗礼を受けました。川越の初雁教会で、父が牧師でしたから、父から洗礼を受けました。
 思い返してみると、ちゃんとした洗礼準備会はなかったように思います。“親父のやつ、いい加減だなあ、自分の息子だと思って手を抜いたな”と思いますが、そんなことを言うと、父から“何を言うんだ。ちゃんとやったぞ!”と怒られそうです。あるいは、1度ぐらいしたのかも知れません。けれども、そのことすら覚えていないほどに、洗礼に対する私の意識、理解が低かったのでしょう。
 当時の私は、洗礼を受けることは“神さまへの恩返し”のつもりでした。高校受験を終えて、ようやくプレッシャーと緊張から解放され、希望していた高校にも合格することができた。これは自分の力ではなく、神さまのお陰だ。自分は神さまに救われた。そう感謝して、ここは一丁、こっちも一肌脱いで神さまの喜ぶことをしてやろう。そう思って、洗礼を受けました。
 子どもなりに真剣に考えて受けた洗礼でしたが、しかし今、考えてみると、アホだなあ、と思います。肝心の洗礼とは何なのか、神さまに救われるとはどういうことなのか。何も分かっていませんでした。
 そういう洗礼でしたから、案の定、1ヶ月余りが過ぎて高校生活が本格化してくると、“しまった! 受けるんじゃなかった”と思うようになりました。日曜日も部活(サッカー)をしたい私は、洗礼によって太い鎖で縛られて、自由を奪われたかのように感じたのです。全く身勝手な受洗でした。
 そんな私が来年のイースターで、洗礼を受けてからの信仰生活30年を迎えます。何だかんだと言いながら、教会から離れることなく信仰生活を続けて来ました。しかもどう転んだのか牧師にさえなっている。それこそ自分の力ではない。自分の計画ではない。神さまの恵みです。私(たち)の人生に神さまがなさることは不思議です。
 決してほめられた洗礼ではありませんでした。けれども、私はそこから曲がりなりにも信仰生活のスタートを切ったのです。

 洗礼によって信仰生活をスタートする。そこには、神さまによって救われたいとの願い、また自分はキリストによって愛され、赦され、救われているという思いがある程度、おありだと思います。
 けれども、そこから私たちの信仰の成長が始まります。信仰の実りへの歩みが始まります。礼拝を共に守り、御言葉に聴き、祈りながら生活することで、主イエス・キリストによって救われるとはどのようなことか、キリストの後に従い、キリストと結びついて一つにされるとはどういうことかが、次第に実感として分かって来ます。やってみて初めて分かる恵みがあります。
 私はサッカー少年でした。そして、本能でプレイするタイプよりも理論派でした。中学生、高校生の頃、サッカーの本や雑誌を買って来て、プロの試合のビデオも繰り返し見て、技術を学び、作戦や戦術を考えて、自分でノートを作っていました。
 けれども、それでサッカーが分かった、サッカーをやったことにはならない。実際にグラウンドに出て、プレーして初めて、“やった”と言える。実際にプレーすることで、実感として分かること、試行錯誤し、磨かれることがたくさんあるのです。
 小学生の頃、一時、釣りに凝ったことがありました。熱心に本を読んで、仕掛けを考え、準備し、いざ入間川へ出陣! 1匹も釣れませんでした。もう2度とやるもんか!と、それ以来、釣りはやめてしまいました。頭で学び、考えることと、実際にやってみて体験し、実感することとは大違いです。
 信仰生活も同じです。実際に信仰に基づいて生活してみることで、御言葉に聴いて従い、祈りながら生きることで、洗礼を受けているとはどういうことかを実感するのです。自分が信仰によって導かれ、支えられている平安を、主イエス・キリストが十字架の上で私たちのためにその命を犠牲にし、それによって自分の罪が赦された恵みを、キリストのように、自分も新しい人生へと復活し、天国を目指して歩むことができる希望を、神さまによって愛され、生かされてある喜びを、信仰に基づいて日常生活を生きることで味わうのです。苦しみや悲しみ、困難を抱えて生きている自分の心に、御言葉が響いてくる時に実感するのです。

 聖餐は、そのように信仰生活を歩む私たちに、自分がキリストの十字架の恵みによって罪を赦され、愛され、またキリストの命と結びついて、新しい命、復活の命を生きていることを繰り返し味わう機会となります。
 主イエス・キリストは、ご自分が敵に捕らえられ、十字架に架けられる時が間近に迫っていることを感じながら、エルサレムで弟子たちと、ユダヤ人の救いを記念する過ぎ越しの祭りの食事をされました。その食事の席で、主は、パンを裂き、ぶどう酒の杯を渡して、弟子たちに遺言を残すかのように、こう言われました。
「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(24節)、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(25節)。
 主イエスは、「わたしの記念」だと2度繰り返して言われました。この食事を、今後はご自分の「記念」として行うようにと弟子たちに命じられたのです。ご自分が、その命をかけて弟子たちを愛し、その罪を贖うためにお命を犠牲にされた十字架の出来事を記念して、この食事を行いなさい。また、この救いの契約を確かなものとするために、サインし、判を押すかのように、ご自分の血でサインし、判を押してくださった十字架の出来事を記念して、この食事を行いなさい、と言われたのです。簡単に言えば、この食事をする時に、パンをキリストの体と思い、杯をキリストの血だと思い、キリストの命によって自分が赦され、救われ、生かされてあることを思い出しなさい、と言われたのです。
 けれども、「記念」とは、単に思い出すだけの意味ではありません。記念として行うとは、2千年前に主イエスが弟子たちとなさった主の晩餐の時と、今、私たちが共に与(あずか)る聖餐の時を重なり合わせることをも意味するのです。つまり、主イエス御自身が執り行ってくださる主の晩餐に、私たちが今、その席に連なるのです。もちろん、主イエスは2千年前のように人の姿で、ここにおられるわけではありません。けれども、目には見えないけれど、主イエスは聖霊となってここにおられ、私たちに、“これはわたしの体” “これはわたしの血”だ、救いのしるしだと言って、パンと杯を分け与えてくださる。その心で、そのように信じて、今、主の聖餐を受けることに大きな意味があります。
 私は、聖餐式において、“取って食べよ。これはわたしの体である”と主イエスの言葉を真似し、その場でパンを裂いて分けます。他の多くの教会では、パンは最初から切り分けられて準備されているでしょう。それが悪いわけではない、良い悪いの問題ではありません。この教会でも、もっと礼拝出席者が増えて倍ぐらいになったら、その場で裂いて分ける時間はなくなるかも知れません。けれども、できる限り、この場でパンを裂いて分けたいのです。もし時間が赦されるのなら、ぶどうジュースも一つの入れ物から杯に分けてお渡ししたいぐらいです。
 それは、そうすることで、主イエス・キリストが、今ここに、時代を超えて、聖霊として、目には見えないけれども、共にいてくださる。そして、今ここで、私たちのためにご自分の体を裂き、血を流して、私たちにその命を分け与えてくださることを感じていただきたいからです。この罪深い私たちが、主の命がけのお赦しをいただいている。この弱い私たちが、主の命がけの愛によって支えられ、生かされている。そのことを、今、信じて味わってほしいからです。それが、記念するということです。

「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(27節)。
 主の死を告げ知らせるとは、主が“私(たち)”の救いのために死んでくださった、と告白し、伝えることです。聖餐を受ける度に、この信仰を新たにし、この救いの恵みを宣(の)べ伝えていきましょう。




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