2010年12月5日アドヴェント第2主日礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書1章26〜38節
  説教者  山岡 創

「御言葉を受け入れる 」

 バザーが終わり、待降節アドヴェントが始まって、子どもチャペルのクリスマス劇の練習も本格化して来ました。先週の土曜日、昨日の土曜日と続けて練習をして、子どもたちもほぼ、全体の流れと各自の動きをつかんで来ました。今週の土曜日には、衣装を付けて、舞台をセットして、リハーサルをします。そして、来週の日曜日、午後に行われる子どもチャペルのクリスマス祝会で、本番を演じます。今年の劇は〈羊飼いのクリスマス〉です。3年ぶりにキリストの降誕劇を演じます。今回、私はヘロデ王の座をNくんに譲って裏方をします。あの悪役を演じられないのはちょっと残念ですが、皆さんもぜひご参加くださり、“子どもたちの名演”をご覧ください。

 キリストの降誕劇と言えば、様々な名場面を思い浮かべますが、印象的なシーンの1つは、天使ガブリエルがマリアにイエス・キリストを身ごもることを告げる受胎告知のシーンでしょう。劇の中でも二人の女の子がほほえましく演じてくれます。
 けれども、2千年前、現実に、このお告げを受けたマリアは、ほほえましいどころではなかったでしょう。いきなり「おめでとう」(28節)と言われ、何のことかと戸惑っていると、「あなたは身ごもって男の子を産む」(31節)と天使に告げられたのです。マリアにとっては、“えーっ!?”と、びっくり仰天<青天(せいてん)の霹靂(へきれき)>の出来事だったでしょう。
 これが、マリアが既に結婚していて、子どもを授けられたいと願っていたなら、まさしく「おめでとう」「あなたは神から恵みをいただいた」(30節)ということになるでしょう。けれども、マリアはまだ結婚をしていないのです。ヨセフという婚約者はいましたが、まだ結婚はしていないのです。まだマリアは男の人を知らないのです。あり得ない! 子どもを授かる喜びよりも、そんなことは信じられないとの混乱(困惑)と疑い。それが、天使のお告げを聞いた時、マリアの胸に浮かんだ思いでした。
 だから、マリアは叫びます。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)
 マリアは天使のお告げを否定しました。神の御(み)言葉を、1度は拒絶したのです。無理もありません。当然と言えば当然でしょう。人間の経験、常識から言って、あり得ないことです。
 私たちは、心のどこかで、当時の人々は現代の私たちよりも信仰深いと思っているところがないでしょうか。けれども、そうでもないのです。先週の礼拝で、直前の箇所、1章5節以下のザカリアの姿を学びました。神殿でお香を焚いていたザカリアの前に天使ガブリエルが現れた時、彼は「恐怖の念に襲われた」(12節)と記されています。天使出たーッ!? はいっ、何のご用でしょう?というわけではないのです。当たり前ではなかったのです。当時の人にとっても、天使が現れるなんて、普通では考えられない、信じられない、恐ろしい出来事だったのです。
 そして、ザカリアは自分たち老夫婦が子供を授かると告げられても、年寄りの妻が身ごもるなんて信じられなかったのです。信じられないから、“もし本当なら証拠をくれ!”と、まるで現代人の御利益信仰のようなことを言い出したのです。
 マリアもまた、天使が告げた神の言葉を否定しました。“まだ男の人を知らない私が、子どもを身ごもるなんて、あり得ません!”と。カトリックでは“聖母”とさえ呼ばれるマリアでも、何の疑いも抵抗もなく、神の言葉を受け入れたわけではなかったのです。
 そのような人々の姿は、聖書の中で幾つも見つけることができます。
 だから、聖書の時代の人々が私たちよりも特別に信仰深かったわけではないのです。極めて、当時の経験と常識に立って生きているのです。その意味では私たちと同じです。そのように、自分の経験と常識と価値観に立って生きている人間に、神の言葉が語りかけられているのです。そして、自分の判断を脇に置いて、(捨てるのではありません、脇に置いて)神の言葉を受け入れる時、私たちの生き方は変わります。慰めと希望、平安に満ちたものに変えられるのです。

 ここまでは私たち人間の“当たり前”。さあ、ここからが信仰の大切なところです。マリアは、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と、天使が告げる神の言葉を否定しました。けれども、天使はそれを怒りません。不信仰だと責めたりはしないのです。それは、神さまの赦(ゆる)される許容範囲なのでしょう。天使はマリアの言葉を受け止めて、再び、懇(ねんごろ)に語りかけます。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)。
そして、マリアの親類、ザカリアの妻であるエリサベトも、年老いているのに神の力により子どもを授かっているという事例を挙げ、「神にできないことは何一つない」(37節)と結んでいます。
 「神にできないことは何一つない」。これが、今日のキー・ワードです。神さまを信じるとはどういうことでしょう? 神にできないことは何一つない、と信じることです。そこが信仰の始まりであり、すべての信仰を支える基礎、土台になります。
 キリスト教最古の信仰告白である使徒信条においても、いちばん最初に、わたしは天地の造り主、全能の父である神を信じます、と告白しています。神さまは、何もないところから天地を造り、命を造り、この世界を治められるほどに全能である、何でもできると私たちは信じるのです。
 それが、神さまにもできないことはある、と考えて、これはできるけど、あれはできないなどと自分の考えで勝手に疑い出すと、それは信仰にはなりません。単に、自分にとって都合のよい、自己中心な考え方、生き方になるだけです。「神にできないことは何一つない」。それが、いちばん大切な信仰の根本です。
 けれども、神さまにもできないことがあるじゃないか、と言う人もいるかも知れません。どんなに願っても、この世に戦争をなくすことはできないではないか。どんなに信じて祈っても、その通りにならないこともあるではないか。確かに、その通りです。私たちは、この世の戦争や災害等の悲惨に心を痛め、解決されない困難や癒(いや)されない病に悩み苦しみます。そのために、神さまなんて信じないという思いになることもあるでしょう。
 けれども、現実は確かにそうだけれど、それとは違う別の考え方、別の信じ方もあります。それは、「神にできないことは何一つない」のだけれど、神さまは、できてもなさらないことがある、ということです。神さまには、私たちの考えとは違った神さまご自身の考えが、御(み)心があるのです。ご自分の御心によって、なさった方が良いと思われることはなさるし、しない方が良いとお考えになることはなさらないのです。
 では、なぜこの世から戦争をなくさないのか。確かに、そう思います。けれども、その御心は分かりません。きっと私たちには分からない、深い意味があるに違いない、救いにつながる目的があるに違いない。そう信じるほかありません。
 この世には、そして私たちの人生には、私たちには訳のわからない悲惨や不条理な出来事がたくさんあります。それでも、「神にできないことは何一つない」という神さまの全能と共に、神さまが最善にしてくださる、“私”にとって必ず意味のある、救いにつながるように一番良くしてくださると信じて生きていく。そこに慰めと希望が生れ、絶望と恐れの闇の中にも平安が与えられるのです。

 ここで、今日の聖書の御言葉の中で、もう一つのキー・ワード。それは、「主があなたと共におられる」(28節)と告げられた言葉です。
 神さまは、まだ結婚していない、男の人を知らないマリアが、男の子を、イエスを身ごもり、産むという出来事をなさいます。それは、マリアにとって、あり得べからざる、受け入れ難い出来事であると共に、何も知らない周りの人々が見れば、どのように見られるか、何と噂されるか分からない、苦しい、過酷な出来事です。
 けれども、神さまは、マリアをそのような苦しみ悩みの渦中に放り込んで、ご自分は離れたところから傍観して、関わろうとしない、という方ではないのです。苦しみ悩むマリアのそばに寄り添って、共にいてくださる方なのです。神さまがお考えになる最善は、私たちには分らないことがしばしばあります。その最善が私たちに伝わらないことを、理解できないことを、神さまももどかしくお感じなることがあるかも知れません。けれども、だからこそ神さまは、その最善が分からずに苦しみ悩む私たちのそばに共にいて、私たちの心の支えになってくださるのです。俗に“親の心、子知らず”と言いますけれども、あたかも親心が子に伝わらないまま、しかし親は子どもに寄り添い、共にいて、祈りながら見守っているかのように、神さまもマリアのそばに寄り添って、私たちのそばにも寄り添って、目には見えないけれど共にいて、私たちのことを思いやりながら見守り、支えてくださるのです。
 マリアは最初、天使が告げた神の言葉を否定しました。けれども、思い直して、「神にできないことは何一つない」こと、「主があなたと共におられる」ことを信じて、神の言葉を受け入れたのです。その信仰が、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)との応答の言葉に込められています。
 神の全能と愛を信じて、神の御心に自分を委(ゆだ)ねたのです。神がなさることに自分を任せたのです。そこに、信仰の新たな心が、人生の平安の境地が拓けたのです。

 ところで、1960年代に世界の人々を沸かせたビートルズという4人組のポップ・グループがありました。私はその世代ではありませんが、中学高校生の頃、好んで聴いていました。そのビートルズの2つのベスト・アルバム、赤版と青版の復刻版が先日、発売されました。
 その際に、どこかの番組が、どの曲がいちばん好きかという街頭アンケートをしたところ、第1位は〈レット・イット・ビー〉というビートルズ最後の曲でした。これは、ビートルズ解散の危機に苦しみ悩んだポール・マッカートニーが、一つのひらめきを与えられて作った曲だと言われています。

   苦しみ悩んでいる時は  聖母マリアが現れて
   尊い言葉をかけてくださる  なすがままに(レット・イット・ビー)

 このレット・イット・ビーという歌詞、“なすがままに”というフレーズは、まさしく「お言葉どおり、この身に成りますように」とのマリアの告白、マリアの信仰から生まれたものです。神が最善にしてくださる。その神の言葉を信じて、神のなさることにすべてを任せなさい。苦しみ悩みをゆだねなさい。
 この信仰を心に宿すこと、それがクリスマスを迎えるということだと思うのです。



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