2010年12月12日アドヴェント第3主日礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書2章1〜7節
  説教者  山岡 創

「神が泊まる場所」

 昨日、〈マリア〉というDVDを見ました。その内容は、聖書の中のクリスマス物語を映画化したものです。マタイによる福音書、ルカによる福音書に記されている、救い主イエスの誕生にまつわる物語をかなり忠実に描いたものでした。
 その中に登場するマリアは、おそらく私たちが想像しているマリアよりも、ずっと若い。当時ユダヤでは、女性は12歳になると結婚適齢期だと考えられていたと、聖書の注解書で読んだことがありますが、DVDに登場したマリアも、15歳ぐらいではないかと思われる少女でした。そのマリアが、親の取り決めで、やはり若いヨセフ(いくらか年上の感じ)と結婚します。当時の結婚は、取り決めの後、女性は1年ほど実家で暮らし、その後、夫と所帯を共にするということになっていたようです。たぶん、その間に夫が住む家を建てるようになっていたのでしょう。そのように1年間は別々に暮らすのですが、しかし既に夫婦であると認められていました。
 だから、別れて暮らしているとは言え、ローマ皇帝アウグストゥスから、全領土の住民に戸籍登録の勅令(ちょくれい)が出された時に、ヨセフは、妻のマリアを連れて、ベツレヘムへと出かけて行ったのです。
 聖書には、「ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムへ上って行った」(4節)と一言で書かれていますが、それは、200キロを超える過酷な旅であったようです。2千年前ですから乗り物などない。ロバを一頭だけ連れて、それに臨月間近のマリアを乗せて、山あり谷あり、荒れ野あり、食料も途中でなくなるような厳しい旅として描かれています。そんな旅の中で、二人は互いの絆を深めていったのでしょう。
 やがて二人はベツレヘムに着きます。その時、にわかにマリアが産気づきます。必死で泊まれる場所を探すヨセフ。しかし、なかなか扉を開けてくれる家、泊めてくれる家はありません。同じく住民登録に旅して来た人々で宿屋はいっぱいだったからでしょう。必死で探し当てた家畜小屋で、その夜、マリアは出産します。その場所を、天に輝く星が、一筋の光をもって照らしていました。

 聖書は、この、救い主イエス・キリストの誕生シーンを次のように描いています。
「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(6〜7節) ちゃんとした部屋ではなく、おそらく助けてくれる人とておらず、初めての出産を経験する二人は、どんなに不安で心細かったかと思います。
 けれども、場所がなかったことも、初めての出産の不安も、幼子イエスが生まれた時、二人の脳裏から吹きとんだに違いありません。ヨセフとマリアは喜びで満たされたからです。そして、この喜びはやがて、すべての人を救う喜びへと大きくなっていくのです。

 ところで、救いの喜びということを考える時、今日の聖書の御言葉から、「場所」ということの意味を黙想します。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。ヨセフとマリアには泊まる「場所」がなかった。救い主イエス・キリストには、お生まれになる「場所」がなかったのです。
 そして、この御言葉は、クリスマスを迎えようとする私たちに、“あなたのもとには、救い主イエスがお生まれになる「場所」はあるか? 救い主をお迎えする「場所」はあるか?”と問いかけて来ます。もちろん、2千年前にユダヤで起こったクリスマスと今日のクリスマスとでは全く事情が違います。神の子である救い主イエス・キリストが、人間となって、赤子として生まれてくるわけではない。そのための空間的な「場所」が必要なわけではありません。私たちは、2千年前の救い主イエスの誕生を記念して、喜び祝う祭り(礼拝)を行うだけです。
 けれども、そうだとすれば、私たちは、救い主イエスによって与えられる救いの喜びを、神さまから受け取る「場所」を、心の中に用意する必要があるのではないでしょうか。表面的に、形式的に、クリスマスを祝う催しをするのではなく、私たちの心の中に、救い主イエスを、救いの喜びを迎える「場所」を備えることが大切なのではないでしょうか。その「場所」を、私たちはどのようにしたら用意することができるでしょうか。
 私は、今日の御言葉を黙想しながら、ふと、生まれた時、「泊まる場所」のなかった主イエスが、大人になって、伝道活動を始められてから、お泊りになった場所があっただろうかと思い巡らしました。もちろん、主イエスが町から村へと各地を巡って伝道した時、主イエスを家に泊める支援者はいたと思われます。ベタニアのマルタとマリアという姉妹は、その代表的な人物です。
 けれども、主イエスが“泊まった”という言葉が使われている聖書箇所は、主イエスが聖書の中で「泊まりたい」と言われた人物は、ただ一人です。それは、エリコの徴税人ザアカイです。
 ザアカイと主イエスの出会いの物語は、同じルカによる福音書19章に出て来ます。徴税人というのは、先にもお話ししましたローマ帝国の狗(いぬ)になって、同じユダヤ人でありながら同胞のユダヤ人から税金を搾り取る仕事をしていましたから、嫌われていました。しかも、帝国には一定の額を納めれば、残りは自分のものにして良いことになっていましたから、徴税人はあこぎに税を徴収して私腹を肥やしました。だから、十戒の“貪(むさぼ)るな”という掟を破る者として軽蔑されていました。人々から「罪深い男」(19章7節)として非難されていました。
 そんなザアカイが、自分の住む町にやって来た噂の主イエスに興味を持って、いちじく桑の木の上から、主イエスを見物しようとしていた時、主イエスから思いがけない声をかけられたのです。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)。
そう言われて、主イエスを自分の家に招き、食事を共にした時、ザアカイは全く変えられました。彼は立ち上がって、主イエスにこう言ったのです。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。
 そのようにしたら、ザアカイが今まで汗水たらしてせっせと蓄えてきた財産は、ほとんどなくなってしまっただろうなあ、と私は思うのです。けれども、そうなっても惜しくない救いを、財産以上の喜びを、ザアカイは主イエスとの出会いにおいて得たのです。そのように宣言したザアカイに、主イエスは言われました。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うために来たのである」(10節)。
 ザアカイは、主イエスに「泊まる場所」を用意しました。けれども、家とか部屋とか、そういった空間的な場所よりも、ザアカイの心の中に、主イエスの「泊まる場所」があったのです。泊まりたい場所があったのです。だからこそ、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。
 主イエスが、ぜひ泊まりたいと言われたザアカイの心の場所、それはザアカイの孤独でした。徴税人ゆえに嫌われ、非難され、だれからも認められず、その悔しさ、さびしさから、せっせと財産をため続け、頼れるものは金だけだと考えたでしょうが、それでも心の空しさ、ぽっかりと心に空いた孤独の穴は埋まらなかったでしょう。
 その孤独に苦しみ悩むザアカイの心を、主イエスが満たしてくださったのです。ザアカイを、一人の人として認め、愛されたのです。その愛に、主イエスとの関係に、ザアカイの心は満たされました。その意味では、ザアカイは、今まで望んでも得られなかった「場所」を、平安という心の居場所を、逆に主イエスから与えられたのです。主イエスがぜひ泊まりたいと言われたザアカイの心の「場所」は、主イエスが泊まってくださったことによって、主イエスの愛によって満たされ、ザアカイの平安な居場所に変わったのです。それが、救いが訪れたということです。
 主イエスをお迎えする「場所」、主イエスを泊める「場所」をどうしたら用意できるか、ということを考えて来ました。それは、私たちがザアカイのように、主イエスがぜひ泊まりたいと思う「場所」を、自分の心の内に持っていることです。それは、清い心でも、正しい心でもありません。孤独に打ちひしがれた心です。自分の人生に苦しみ悩み、迷う心です。その苦しみ、悩み、迷いのために、自分の力ではどうすることもできないと行き詰まり、打ちひしがれ、不安と恐れを抱えた心なのです。
 私たちは、自分の力で正しく生きられる、清く生きられる、うまく生きられると思っている時は、神の力を、神の助けを、神の御言葉を必要としていない。私たちは、人生が順調に行っていると、ともすれば、知らず知らずのうちに“自分の力で生きられる”という思いに、驕(おご)りに陥ります。そこには、主イエスが「泊まる場所」はない、泊まりたいと言われる「場所」はないのです。
 主イエスは、自分に行き詰まって、神の救いを必要とする者の心に来てくださいます。その心の「泊まる場所」を、愛によって平安の場所に変えてくださいます。
 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5章32節)。と主イエスが語られた言葉は、そのことを表しています。自分に行き詰まって、苦しみ悩む者の心に主イエスは泊まって健やかにしてくださいます。愛と平安に満たしてくださいます。

  渡辺和子さんというカトリックのシスターがおられますが、この方が、『愛することは赦されること』という著書の中で、〈聖所を持って生きる〉という文章を書いておられます。渡辺さんは、ノートルダム清新女子大学の学長という管理職を30年余り務められました。決して望んだ職ではなかった。シスターであるが故に任命され、余儀なく引き受けた道でした。しかし、その務めのために、嫉妬されたこと、恨まれたこと、誤解されたこと、非難されたことが数限りなくあったと言います。その痛み、苦しみ悩みを癒される“心の場所”を、渡辺和子さんは“聖所”と呼んでいるのです。
 イエスがかつて経験なさったように、私たちもまた、時に喧噪(けんそう)の最中に置かれることがありますし、群衆に石で追われる立場に置かれることもあります。いくら話しても分かってもらえない不毛の会話、話せば話すほど募る誤解、不信感。このような“出口なし”の状態で、傷だらけの自分が、無防備のまま逃げ込める場、いったん、そこに退いて祈り、心癒され立ち直る砦としての聖所を、私は大切にして生きてきましたし、これからもたいせつにして生きたいと思っています。‥‥‥私たちの聖所の中にイエスさまが、包帯と薬を用意して待っていてくださって、「よく戦ったね。今は、少し休みなさい」と言って手当てしてくださらないとも限らないのです。(前掲書194頁)
 渡辺和子さんの傷ついた心の「場所」に、主イエスは泊まってくださり、共にいてくださり、彼女の痛みを受け止めて、癒し続けてくださった。私たちにも、一人一人、そういう心の「場所」があるに違いありません。打ちひしがれ、苦しみ悩み、傷ついた場所があるに違いありません。その「場所」に、救い主イエス・キリストをお迎えし、“平安と癒しの場所”へと変えていただきましょう。




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