2010年12月19日待降節第4主日・クリスマス礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書2章8〜20節
  説教者  山岡 創

「救いを見よう」

 ベツレヘムの郊外の野原。そこで野宿していた羊飼いたちに、天使は告げました。
 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(11節)。
そのお告げを聞いて、羊飼いたちは出かけて行き、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当て」(16節)ます。そして、羊飼いたちは「神をあがめ、賛美」(20節)するのです。
 羊飼いたちは、何を見たのでしょう? 「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(12節)です。
 では、それから2千年後のクリスマスに、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を、私たちも探し当て、見ることができるのでしょうか? もちろん、できません。それは、2千年前のクリスマスの出来事です。2度とない出来事です。
 ならば、私たちにとって「救い主がお生まれに」なるとは、どういうことでしょうか?救い主を探し当て、見るとは、何を意味するのでしょうか?
 天使からお告げを受けた後、羊飼いたちが何と言っているか、注意して読んでみましょう。
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(15節)
そして、彼らは、「見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)のです。
 つまり、羊飼いたちは、「主が知らせてくださったその出来事」を見たのです。主なる神さまが、天使を通して知らせてくださったことは、その通りだったという現実を見たのです。ただ単に、布にくるまれ飼い葉桶の中に寝ているイエス・キリストを見たのではなく、主の御言葉通りに、布にくるまれ飼い葉桶の中に寝ているイエス・キリストを見たのです。すなわち、主の御言葉が、その通りに実現するという出来事、現実を見たのです。だから、羊飼いたちは神をあがめ、賛美したのです。
 実は、ルカによる福音書のクリスマス物語は、主の御言葉が実現するという信仰で彩(いろど)られています。天使ガブリエルのお告げ、マリアの応答、エリサベトの言葉、羊飼いたちの行動、そしてシメオンの告白と、すべてが主の言葉は実現するということを証ししています。
 このことから言えば、私たちが救い主を見るということ、2千年前のクリスマス物語のシーンを思い浮かべて、ロマンティックな気分に浸ることではありません。私たちがクリスマスを迎えるということは、自分の人生において、自分に語りかけられた神の御言葉が、その通りに実現するという出来事、現実を経験することなのです。“神の言葉はその通りになった”と実感し、感謝して、神さまを賛美することなのです。

 2千年前のクリスマスに、神さまは天使を通して、救い主の誕生を羊飼いたちに語りかけました。今日、目に見える天使が、白い衣に白い羽、頭には光のリングとイメージするようなビジュアルな(目にみえる)天使が、私たちに神の御言葉を語りかけるわけではありません。
 けれども、神は“何か”を通して私たちにも語りかけています。その最たるものが“聖書”です。

 今日も神さまは、聖書を通して私たちに語りかけてくださいました。あなたにも救い主が生まれる。あなたも救いを探し当てる。あなたも救いを見る、と。それが、聖書を通して私たちに与えられた神の約束です。
 この神の約束が、その言葉通りに実現するのを私たちが見るとき、実感するとき、私たちは神さまをあがめ、賛美するでしょう。
 では、私たちは、約束の救いをどこで見るのでしょうか? おそらく私たちは意外なところで救いを見ることになるでしょう。自分が思っていたところではなく、自分が願っていたとおりでもなく、自分が思いもしなかったところに、自分が願いもしなかった現実の中に、救いが実現していることを見ることになるでしょう。
 羊飼いたちもそうだったのです。天使によって、ユダヤの民が皆、待望していた救い主がお生まれになったことが告げられた。さぞ栄光に包まれた場所で生まれただろうと思いきや、何と救い主は「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている」と言うのです。つまり、救い主は家畜小屋のような場所で生まれたと言うのです。意外と言って、これほど意外なことはありません。しかも、それが「あなたがたへのしるしである」(12節)と言うのです。
 「しるし」というのは、確かな証拠ということです。生まれた乳飲み子が救い主であるという確かな証拠です。これが、王さまの子どもとして王宮に生まれたとか、大祭司の子どもとして神殿に生まれた、とか言うならば、それは救い主である確かな証拠としてうなずけるものであったかも知れません。けれども、飼い葉桶の中です。よりによって家畜の糞尿の臭いにおいが立ち込める家畜小屋です。いったい何が「しるし」なのか。普通に考えたら、それが救い主だなどとは到底考えられないのです。
 けれども、その、到底考えられない、意外なところに救いはあるのだと、神の言葉は私たちに示しているのです。
 私たちは、自分の思った通りのところに、願ったとおりに救いが実現してほしいと思います。そして、その通りになれば“ああー、救われた”と喜ぶでしょう。人生、それに越したことはありません。
 けれども、私たちの人生は、そのようにはならないことがしばしばではないでしょうか。良かった、救われたと喜び、感謝するよりも、ため息をつき、嘆き、涙することがどれだけ多いでしょうか。ままならないのが私たちの人生です。それでも、私たちは生きていかなければなりません。
 けれども、そのような人生に救い主は生まれます。私たちは、そのような人生のただ中に救いを探し当て、見ることができるのです。
 イエス・キリストは神の子でありながら、神の子に全くふさわしくないところにお生まれになりました。王宮どころか、並みの家でさえなく、最も貧しく、汚い、みすぼらしい家畜小屋という場所でお生まれになりました。ままならない誕生だと言って良いでしょう。けれども、それは、ままならない人生を神の子が味わい、ままならない苦悩の人生を歩む私たちに、“私もよく分かるよ”と神の子が伴い、寄り添ってくださるためだったでしょう。だからこそ、イエス・キリストはインマヌエルの神だと、共にいてくださる神だと言われるのです。

 先ほど、讃美歌261番〈もろびとこぞりて〉を歌いました。この讃美歌を作ったのはフィリップ・ドッドリッジというイギリス人です。この讃美歌が作られたエピソードが『信徒の友』12月号の特集に記されていました。
 1702年にロンドンで生まれたドッドリッジは、生来病弱で、子どもの頃、孤児になってしまいました。孤独と苦労を重ねましたが、27歳で牧師となり、神学校をつくって牧師となる者を育て、また讃美歌作家として約400もの讃美歌を作ったといいます。
 その中の1つが〈もろびとこぞりて〉ですが、旧讃美歌では、しぼめる心の花を咲かせ、めぐみの露おく、という歌詞があります。残念ながら讃美歌21では、なぜかその歌詞が省かれてしまっているのですが、元々の英文を直訳すると、主は、破れた心(ブロークン・ハート)に包帯をし、血を流している魂を癒されます、という歌詞なのだそうです。
 ドッドリッジ自身が、心の破れを、痛み、悲しみ、傷を味わい、苦悩したに違いありません。けれども、主イエス・キリストによって、その破れた心に包帯をしてもらったかのような、痛みを癒される経験をしたことから、この讃美歌が生まれたのでしょう。主イエス・キリストご自身、誕生から十字架に至るまで、ままならない人生、破れた心の連続だったのです。けれども、だからこそ、私たちの人生、その破れた心に寄り添い、支え、癒し、罪を背負い、赦してくださるのです。
思うようにならない私たちの人生にも、神の言葉は深い意味で、きっと実現します。ただ、私たちの信仰は鈍いので、そのことに後になってから気づくことが多いかも知れません。それでもいい。それでも、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら」歩む人生を、破れた心が癒され、喜びに変えられる人生を歩みたいと願います。




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