2010年12月26日 日本基督教団信仰告白 12
  聖  書  マタイによる福音書25章1〜13節
  説教者  山岡 創

「主を待ち望む教会」

 一昨日24日(金)のキャンドル・サービスをもって、今年のクリスマスの、すべての礼拝、行事が無事に終わりました。神さまから多くの祝福をいただいたことを、特に、田川さん、鷲田さん、お二人の方が洗礼を受け、神さまの救いに入れられ、また私たちの教会を共に形作る会員に加えられたことを喜び、感謝します。
 とは言え、欧米の慣習では、まだクリスマス・シーズンが続きます。教会の暦では1月6日が公現日と呼ばれ、その日に、東方の占星術の学者たちが救い主イエス・キリストを探し当て、礼拝し、宝を献げたと言われています。
 ところで、クリスマスを待ち望む期間のことを〈待降節アドヴェント〉と言いました。今年は11月28日からアドヴェントに入りましたが、その間の日曜日、私たちは讃美歌21・242番で“主を待ち望むアドヴェント‥”と歌いました。アドヴェントの語源はラテン語で“到来”“接近”“出現”といった意味があります。救い主イエス・キリストの到来、接近、出現を待ち望むのです。
 私たちは通常、このことをイエス・キリストの“誕生”を待ち望むことだと受け取っています。クリスマスはイエス・キリストの誕生祭だからです。
 けれども、実はアドヴェントにはもう一つの意味があります。私も今年のアドヴェントの間にOさんから教えられたのですが、アドヴェントには本来、イエス・キリストの誕生を待ち望むと同時に、もう一つ待ち望むものがあるのです。それは、イエス・キリストの再臨です。復活され、天に昇られた主イエス・キリストが再びこの世に、私たちのもとにおいでになることを待ち望むのです。
 だから、主イエス・キリストが到来するとは、この世にお生まれになることと、再びやって来ることの二つを意味しています。誕生は第一の到来、そして再臨は第二の到来です。そしてアドヴェントとは、この二つ、キリストの誕生と再臨とを重ね合わせて待ち望むことだったのです。
 それで、なるほどと思ったことが一つあります。私たちが使っている讃美歌21の228〜244番がアドヴェントの歌ということになっています。しかし、そこに“待降”と一緒に“再臨”ということが記されていて、つまり、どちらの意味でも歌えるということを不思議に思っていました。その謎が一つ解けました。

 教会の営み、またクリスチャンの信仰生活とは、主イエス・キリストの第一の到来をお迎えして、そこから第二の到来へと向かう歩みだと言うことができます。だから、私たちは日本基督教団信仰告白において、教会は‥‥主の再び来りたまふを待ち望む、と言い表すのです。
なぜ主イエス・キリストの第二の到来、再臨を待ち望むのか? 主が、もう一度やって来ると約束してくださったからです。
 新訳聖書・使徒言行録1章に、復活したイエス・キリストが弟子たちに現れ、彼らに「神の国について」(3節)教えられた後、天に昇っていく場面が描かれています。その時、天に昇っていく主を見つめていた弟子たちに、白い服を着た二人の人(天使)がこう告げるのです。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(11節)。
 この約束が弟子たちの希望となりました。主がもう一度来てくださる。そして、この世に神の国を実現し、自分たちを迎え入れてくださる。その希望を胸に、彼らは主の十字架、復活、そして再臨を証しし、宣(の)べ伝えたのです。信じる者に洗礼を授け、教会の交わりを生み出したのです。ユダヤ人からユダヤ教の異端として迫害を受け、ローマ帝国からは皇帝を礼拝しない者として捕らえられ、処刑されても、忍耐して信仰を守り、キリストの再臨を待ち望んだのです。それが当初の教会を支える希望でした。
 ところが、すぐにもおいでになると期待していた主イエスは、なかなかおいでにならない。待てど暮らせど来ない。そうこうするうちに、教会の中に疑いと不安が広がりました。主はもうおいでにならないのではないか? あの約束は間違っていたのではないか? この疑いと不安によって希望と忍耐を失い、信仰を棄て、教会から離れるクリスチャンが少なからずいました。信仰生活など無意味だと投げやりになり、勝手気ままな生活をする者もいました。信仰にとどまった信徒たちも動揺しました。
 そのような信徒たちの疑いと不安に、新約聖書の多くの書物が答えています。希望を失うな、と励ましています。今日読んだマタイによる福音書25章にある〈十人のおとめのたとえ〉もその一つです。
 このたとえに登場する「花婿」は、再臨する主イエス・キリストを、また花婿を待つ「おとめたち」は、キリストの再臨を待ち望む信徒の姿を現わしています。
 5節に「ところが、花婿の来るのが遅れた‥」とありますが、この一言が、主が再臨しないことに焦(じ)れて、失望する当時の教会、信徒たちに対する答えなのです。主イエスは来ないのではない。遅れているだけだ。遅れているが、必ずおいでになるのだ。そう語って信徒たちを励まし、用意をしていなさいと言って、信仰から離れたり、投げやりな生活になることを戒(いまし)めているのです。
 2種類のおとめたちが出て来ました。「愚かなおとめたち」と「賢いおとめたち」です。その違いは何なのか。知識や教養の有る無しではありません。リーダーシップがあるとか、判断力・決断力に優れているか否か、といったことでもありません。それは、「油の用意」(3節)をしていたかどうかの違いです。

 当時のユダヤの結婚式は夜に行われました。まず、花嫁と婚宴に出席する人々は、花嫁の家で花婿の到着を待ちます。その際、ともし火を灯(とも)して花婿を迎える役のおとめたちがいました。彼女たちは場を明るくして花婿を迎えると共に、今度は花婿が花嫁を伴って花婿の家に移動する時、その行列を明るくしたのです。
 ところが、花婿の到着が遅れたため、皆眠り込んでしまいます。そして、真夜中になって「花婿だ。迎えに出なさい」(6節)と告げられます。おとめたちは、あたふたと迎えに出ますが、長い時間が過ぎていたので、生憎(あいにく)、ともし火が消えかかっていました。そこで、予備の油を用意していた5人は、ともし火をもう1度整えて花婿を迎えることが出来ましたが、用意のなかったおとめたちは、店に油を買いに行っている途中で花婿が到着してしまい、戻って来ても婚宴の会場に入れてもらえなかった、と言うのです。
 眠ってしまったという点では、どちらのおとめたちも同じです。だから、眠ってしまったことが婚宴の会場に、すなわち神の国に入れてもらえなかった理由ではないのです。両者に共通する、眠ってしまったという状態。それは、当時の信徒たちが、主の再臨の遅れに対して、疑いと不安を抱き、動揺したということを意味しているのではないかと私は思います。個人差はあれ、そのような気持を味わわなかったクリスチャンは当時、一人もいなかったのではないでしょうか。その信仰の動揺を、主は責めないのです。
 だから、このたとえの最後にある「目を覚ましていなさい」(13節)との注意は、話をややこしくします。これは24章からの続きで、たぶん42節に引っ張られて、こう書いてしまったのであって、むしろ44節にあるように「あなたがたも用意をしていなさい」と言った方がふさわしかったでしょう。
 分かれ目は「油の用意」にありました。ともし火が消える。それは、信仰の灯が心の内から消えることだったでしょう。信仰の灯をともし続けるには油が要る。燃料が要る。疑いと不安の中で、なお信仰生活を続けるためには、必要なものがあったのです。それは何か? 私は、“希望”と“忍耐”ではなかったかと思います。迫害と困難の時代の中で、簡単なことではなかったでしょう。けれども、希望を失わず、忍耐した者は、信仰の灯をともし続けることが出来ました。しかし、希望と忍耐を失った者は教会を離れました。その姿が、婚宴の会場を離れるおとめたちの姿に現われています。
 そうならないように、主が再臨した時に、主を迎え、神の国に入れていただけるように、希望を失わず、忍耐して、信仰の灯をともし続けようというのが、今日の聖書の箇所のメッセージです。

 さて、その時代からおよそ2千年後の現代を生きている私たちは、当時の信徒たちのような、主イエス・キリストの再臨を待ち望む切迫(せっぱく)した信仰を失いました。2千年を経てなお、当時の人々が信じて期待したような主の再臨と、それによってこの世が神の国に造り換えられるというリアルな出来事が起こらなかったからです。カルト宗教等が、この世の終末を語って人を脅したりしますけれども、たとえこの先、地殻変動や地球温暖化による災害や核戦争等が起こったとしても、それ自体がキリストの再臨とこの世の造り換えではないと聖書ははっきりと告げています。
 私たちには、主イエス・キリストの再臨が歴史上に起こることを信じることは難しいかも知れません。けれども、主イエスが何らかの形で再びおいでになることを待ち望む信仰の希望と、そこから生まれる忍耐とキリストへの誠実さ(忠実さ)を失ってはならないでしょう。
 私たちの人生は、信仰を失わせ、教会から離れさせる苦しみや悲しみ、困難に満ちています。“なぜ”“どうして”という疑いや怒りの思いを1度も抱いたことがないという人はいないでしょう。“神を信じているのに、なぜ?!” クリスチャンがどこかで1度は通る道、不信仰の谷かも知れません。ともすれば虚無に心を支配され、投げやりになりますし、信仰から離れてしまうかも知れません。
 それに耐えるには、希望を失わないこと、それ以外にないのです。主イエス・キリストがもう1度おいでになることを信じる信仰。それは、苦しみ、悲しみに見舞われている自分の人生にも、必ず救いが訪れることを信じる信仰です。どんな形で主がおいでになるか、救いが訪れるか、それはその人によって違うでしょう。ともかく、自分の人生の救いを信じる。弱い私たちですから、主の助けを祈り、聖霊のお支えによって信じる。それが、私たちの心に信仰の灯をともし続ける油になるでしょう。
 もう一つ、今日の聖書の御言葉をあれこれと黙想しながら、私がハッとさせられたことがあります。それは、私たちが、主の再臨を、救いの訪れを待ち望んでいる以上に、主イエス・キリストが、父なる神さまが、私たちが悔い改め、主のもとに立ち帰ることを待ち望んでくださっている、ということです。
 主は、私たちが眠ったような信仰生活をしていても、決して責めないのです。主を疑い、動揺している時も、主に怒りをぶつけているような時も、時には信仰から、教会から離れてしまうような時も、主は私たちを見捨てず、忍耐して、豊かな愛の心で待ち続けてくださっているのです。
 ペトロの手紙(二)3章9節に、こう記されています。
「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」
 主が私たちを最後まで待っていてくださる。どんな時にも待ち望んでくださっている。その主の御心を受け取って信仰の道を歩む。立ち止まり、後退し、逸(そ)れることがあっても立ち戻って歩む。それが、現代において主の再臨を待ち望む信仰なのかも知れません。





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