2011年1月30日 大人と子供の礼拝 主の祈り5
  聖  書  マタイによる福音書18章21〜35節
  説教者  山岡 創

「罪をお赦しください」

 私たちが礼拝しているこの会堂は、今から6年前、2005年に建築しました。その時、かかった費用は、ここの土地を買ったお金と合わせて、約7,860万円でした。そのうち、教会債と言って、借りたお金が2,450万円ありました。そのお金を6年間で段々、借りた人に返して行きました。今、残りいくらか知っていますか?‥‥‥あと210万円です。最初に借りたお金の10分の1ぐらいになりました。皆が祈って、献金してくれたお陰です。神さまが私たちを導いてくださったお陰です。

 ところで、これ、いくらか分かる?(と言って、金額を書いた紙を見せる)。‥‥‥(一、十、百、千、万‥)そう、6,000億円。日本で働いている人が一生働いてかせぐお金は、たぶん2億円とか3億円ぐらい、大リーガーのイチロー選手が、1年で10億円ぐらいかせぐのかな、それでも10年活躍して100億円。もしも20年で200億円。そう考えると、6,000億円って、とんでもない莫大な金額です。
 6,000億円借金している人がいました。ある王様の家来です。なんでそんなに借りたんだろ? いったい何につかったんでしょう? 分からないけれども、ともかく6,000億円、王さまからお金を借りた家来がいた。
 やがて、お金を返すと決めた日が来ました。でも、この家来は借りたお金を返すことができません。王様は、この家来に、自分の家も、持ち物を売って、また自分も自分の家族も(奴隷に)売って、借金を少しでも返すように命じました。
 けれども、家来は土下座をして王様に願いました。「どうか待ってください。きっと全部お返しします」(26節)。
 王様は、家来のこの姿を見て、憐れに思いました。憐れに思う、って、自分のはらわた(胃腸)がちぎれるぐらい、かわいそうだと感じる、ってことだよ。そう思った王様はなんと! この家来を赦して、借金をなしにしてくれたのです。当然この家来は、涙を流して喜び、王様に感謝したことでしょうね。
 家来は浮き浮き気分で、城を出て行きました。すると、町で一人の仲間に出会いました。“そう言えば、おれ、あいつに金、貸してたなあ”。そこで、この家来は仲間に近づいて行って、「借金を返せ」(28節)と言って首を絞めたんですって。いくら貸してたと思う?‥‥‥100万円。
 その仲間は土下座して、「どうか待ってくれ。返すから」(29節)と頼みました。けれども、この家来は赦しませんでした。そして、貸した金を返すまで入っていろ!と、その仲間を牢屋に入れてしまいました。
 みんな、どう思う?‥‥‥ひどい奴だ!と思うでしょう? そりゃ、借りたお金は返すのが当たり前。だから、この家来が借金を返せ、と言うのはおかしくありません。だけど、自分はさっき王様から6,000億円の借金を赦してもらったじゃないか。それなのに、どうして仲間を赦してやらないんだ! って話だよね。
 ちなみに100万円と6,000億円を比べてみると(両方を書いた紙を見せる)、‥‥‥(一、十、百、千、万‥)100万円は6,000億円の60万分の1!だよ。自分が王様から赦してもらった金額の、ほんの、ほんの、ほんの僅(わず)かだよ。人でなし、だね。
 実は、お城の他の家来たちもそう思ったんだ。この家来が仲間を赦してやらなかったのを見て、他の家来たちはとても心を痛め、そのことを王様に報告しました。そうしたら、王さまは怒ってねー。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。そう言って、この家来が自分の仲間にしたのと同じように、王さまもこの家来を牢屋に入れたんだって。

 さて、この話、だれのことだと思う? 下手をすれば、“あなたも”こうなるかも知れませんよ。いや、既にこうなっているのかも知れませんよ、っていう話なんです。
 この話の中に出て来た王様とは、神さまのことです。そして、王さまに借金している家来というのは、私たち一人一人のこと。借金とは、神さまに対する“罪”のことだと、この話をしたイエスさまは言っているのです。
 けれども、私たちは、神さまに莫大な借金、大きな罪を赦していただいた。だから、あなたも人のことを赦しましょうね、というイエスさまのメッセージです。
 でも、人を赦すって、難しいことですね。小さなことなら赦せるかも知れないけれど、なかなか赦せないことも少なからずあるでしょう。
 あの家来は、仲間に100万円貸していました。100万円あったら、何が買えるかな?
100万円って、決して小さい金額ではありません。簡単に“返さないでいいよ”って言える金額ではありません。だから、だれかが自分に犯した罪も、そう簡単に赦せなかったりするんだ。100万円分の罪だと思ったら、赦せなかったりする。腹が立ったり、悔しかったりするん。それが、私たちの“生(なま)の心”です。
 でもね、“絶対に赦さない!”“赦さなくて当然だ”と思わないこと、そう考え続けないことが大切じゃないかなと思うのです。なぜなら、私たちは6,000億円分の罪を、神さまに赦していただいているからです。60万倍の罪を赦してもらっているからです。
 でも、私たちはすぐに、そのことを忘れてしまう。自分が6,000億円分の罪を赦していただいていることを忘れるから、人が自分に犯した100万円分の罪を“絶対に赦すもんか”“赦さなくて当然だ”と思ってしまう。いや、忘れるどころか、最初から、自分は6,000億円分の罪を神さまに赦されたと思っていないのかも知れない。信じていないのかも知れない。頭では分かっていても、心に感じていないのかも知れません。

 津田綾子さんという方がいました。夫を亡くし、母一人、子一人の家族でした。ところが、その一人息子の太郎さんが強盗殺人で殺されてしまったのです。津田さんは、やるせなく、悲しく、ただただ怒りがこみ上げて来るのでした。
 そんな津田さんにとって、教会へ行くことが唯一の慰めでした。ところが、ある時から教会へ行くことがとても辛くなってしまいました。〈主の祈り〉が心に刺(さ)さるようになったのです。
 ある日、津田さんは牧師に相談しました。“先生、わたしは主の祈りがどうしてもできません”。主の祈りの中で、“わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるしください”と祈ります。私は、自分の息子を殺した犯人をとてもゆるすことなどできません、と自分の胸の内を語りました。
 その話を聞いた牧師は、もちろん“それではいけません。ゆるしましょう”なんて、言えませんよね。じっと話を聞いていた牧師は、“そうじゃろうな、辛いじゃろうな‥‥たぶん神さまもとても辛かったろうな。自分のただ一人の息子のイエスさまが、みんなの手にかかって十字架につけられて殺されてしまったんじゃからなあ”と一言、ぽつりと言ったといいます。
 しかし、その一言に津田綾子さんは、ハッと心を打たれたのです。神さまが、罪を赦し、人間を救うために、ただ一人の息子イエスさまを十字架の上で犠牲にした、その神さまの痛みが分かった気がしたのです。理屈では分かっていた、けれども、自分の罪を赦すために神さまがイエスさまの命を犠牲したことが心に深く分かったとき、津田さんは、次第に変えられていきました。そして、自分の息子を殺した犯人を赦したのです。
(飯清著『「NO」から「イエス」へ』より)
 こんな赦しって、そう簡単にはあり得ません。奇跡だと思います。心の奇跡です。けれども、神さまが、一人息子のイエスさまを、“わたし”の罪を赦すために、“わたし”を救うために、十字架の上で犠牲にしてくださったという“愛”が、自分の心にしみ通るとき、こんな赦しも起こることがあるのです。
 6,000億円。それは、私たち一人一人の罪の重さであると同時に、イエスさまの命の重さです。いや、一人が6,000億円なのですから、みんなの分を合わせたら、一体どれほどになるか想像もつきません。
 〈主の祈り〉の中で、私たちは、わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるしください、と祈ります。なかなか人を赦せない私たちかも知れません。そんな私たちが、既に自分の罪は赦されている。イエスさまの命によって赦されている。その恵みを信じて、“赦せますように助けてください”という心で、祈っていきましょう。




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