2011年2月6日 日本基督教団信仰告白16
  聖  書  使徒言行録7章54〜60節 
  説教者  山岡 創

「天におられるキリストを見る」

 使徒言行録1章によれば、主イエス・キリストは、十字架に架けられた後、復活され、「ご自分が生きていることを数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(1章3節)と記されています。そして、使徒たち(弟子たち)が見ている前で、オリーブ山から天に上げられました。そのとき、天を見上げている使徒たちに、天使が現れ、主イエスは再び、天からこの地上においでになると約束の言葉を告げました。
 では、主イエスはどこに行ったのでしょう?。再び地上においでになるまで、どこにおられるのでしょう? 天に上げられたと言うのですから、“天”におられるのでしょうが、何か漠然(ばくぜん)とした感じがします。主イエスは、天のどこにおられるのでしょうか?
 実は、マルコによる福音書の末尾の部分が、そのことを明確に記しています。マルコによる福音書16章は、主イエスの復活を語り、主が弟子たちに現れたこと、弟子たちを宣教に派遣されたことを記した後で、次にように書いています。
「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」(19節)。
 聖書は、天に上げられた主イエスは、「神の右の座」に着かれたとはっきり語っています。そこから、使徒信条の一節、そして全能の父である神の右に座しておられます、との信仰告白が生まれたと言って良いでしょう。
 新約聖書のいちばん最後にあるヨハネの黙示録を読みますと、当時のキリスト者は、天には神の玉座(ぎょくざ)がある、と考えていたことが分かります。言わば、天には天の城があって、その広間の王座(おうざ)に父なる神さまが座しているという光景です。そして、その周りで天使たちが神をたたえて礼拝しているのです。
 だから、神の右の座というのは、父なる神の栄光の玉座の右の座ということになります。つまり、父なる神は主イエス・キリストを、ご自分よりも下座に座らせたのではなく、ご自分と同格の者として、ご自分の隣に座をお与えになったということです。ご自分の栄光、ご自分の全能に並ぶ者として迎えたということです。
 だから、私たちが、主イエス・キリストは全能の父である神の右に座しておられます、と告白するということは、主イエス・キリストが、父なる神と等しい全能の力を持って、そこから地上の私たちを見守っていてくださる、と信じることを表しているのです。ただ主イエスが神の右に座しておられると言うのではありません。そこから、私たちのことを、力を持って、愛を持って、“見守っていてくださる”というところが大事です。

 その見守りを信じる信仰から、宣教の力が生まれます。先ほど引用したマルコによる福音書16章19節の御言葉の後には、次のように続きます。
「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(20節)。
 主イエス・キリストが天に上り、神の右の座に着いた後、弟子たちは至るところで宣教したのです。主イエスから教えられた「神の国」について語ったのです。主イエスこそ、その神の国に自分たちを迎え入れる救い主であることを宣(の)べ伝えたのです。
 どうして弟子たちはそれができたのでしょう。主イエスが捕らえられ、十字架に架けられた時には、恐れて、逃げ去った弟子たちです。そのような彼らが、もう1度、福音を宣教することができたのは、“もう恐れるものはない”と分かったからです。自分たちの後ろには、全能の神の力を帯びて、無条件の愛を帯びて、主イエス・キリストが付いていてくださることを悟ったからです。神の右の座から、主が自分たちを見守っていてくださる、見守るだけでなく自分たちと共に働いてくださると信じたからです。たとえ、そのために死んでも、主が天にある神の国へ迎え入れてくださると信じたからです。

 そのように信じて生きた弟子の一人、キリスト者の一人が、今日の聖書箇所に出て来たステファノです。
 使徒言行録6章の始めから読むと、ステファノの人となり、また処刑に至る経緯が分かりますが、弟子たちの宣教によってエルサレム教会が生まれました。何千人もの人が主イエスを信じて洗礼を受け、仲間に加わったと書かれています。
 そのエルサレム教会で、食事の分配の問題が起こったと6章の始めに記されています。教会では、やもめ等、経済的な生活の成り立たない人々に食事が分配されていました。現代で言う生活保護制度のようなものだと考えれば良いかも知れません。その分配において差別があったようです。そこで、その問題を解決し、公平な分配が行われるように、その働きを担った7人のうちの一人がステファノでした。
 ステファノには、そのようなリーダーシップの他に、福音宣教の賜物があったようです。彼は、「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行い」(6章8節)、主イエスによる救いを宣べ伝えていました。
 そこで、ステファノとユダヤ人たちとの間に、信仰上の議論が起こりました。おそらく、イエスが神の遣(つか)わされた救い主かどうかという議論だったでしょう。けれども、ユダヤ人たちは、ステファノの語る力強い説教に歯が立ちませんでした。
 そのため、彼らは、ステファノが神の掟と神を冒涜(ぼうとく)する言葉を言った、と偽証して、彼を捕らえ、宗教裁判の席に引っ張って行きました。何としてでも自分の主張を通したい、自分が正しいと認めさせたいというエゴイズムの現れです。
 しかし、その裁判の席で、ステファノは堂々と説教をしました。ユダヤ人たちの信仰上の間違いを証言しました。その説教がユダヤ人たちの癇(かん)に障り、激怒させました。その憎悪のまなざしを浴びる中で、ステファノは、天において、主イエスが神の右に立っておられるのを見ます。信仰の目で見たのです。そして、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(56節)と語りました。
 この一言が、ユダヤ人たちの激怒に更に火をつけました。と言うのは、かつて主イエスが捕らえられ、大祭司や長老、律法学者たちに裁かれたことがありました。その時、主イエスが、「あなたたちは、人の子は全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ14章62節)と証言しました。その言葉に、彼らは、主イエスが自分を神と等しい者として神を冒涜したと言って、主イエスを十字架刑に処したのです。
 それと同じことをステファノが言ったわけですから、そこに居合わせたユダヤ人たちも、ステファノは神を冒涜したと感じたのです。そのため切れたユダヤ人たちが、ステファノをエルサレムの城壁の外に引きずり出して、石打ちの刑にして殺してしまうのです。
 しかし、石打ちにされている時でさえも、ステファノは信仰を失いませんでした。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)と、自分の命を主イエスにゆだね、また、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)と赦しを祈ったのです。
 その信仰の支えはどこにあったのか。主イエスが神の右に座しておられるということです。父なる神と等しい方として、天と地の一切の権能を握っておられるということです。その力、その愛を持って、ステファノを見守り、御言葉によって導き、聖霊の助けを送ってくださる恵み。それが、迫害の中にあっても、死の淵においても、ステファノを支え、励ましたのです。

 主イエス・キリストが、全能の父である神の右に座しておられます、との信仰告白。それは、弟子たちのように、ステファノのように、私(たち)もまた、どんな時でも主イエス・キリストの愛と力に慰められ、励まされ、支えられています、との信仰を言い表すものです。そして、その信仰は、私たちが「至るところで」福音を宣べ伝え、主イエスの救いを証しする原動力となります。
 私は、「至るところで」と言うのは、自分が置かれている人生の場所、生活の場所とその人間関係だと思っていますが、そこで主イエスが共に働いて、私たちの信仰と証しが真実であることを「しるし」によって示してくださると、マルコ16章20節にありました。
「しるし」とは何でしょうか。私は、いわゆる奇跡であるとか、御利益であるとか、そういう類(たぐい)のものではないと思っています。ステファノが石に打たれた時、石を投げつける者を憎み、呪いの言葉を吐いたとしても不思議ではありません。けれども、彼はその時、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と憐れみと赦しの祈りをささげていました。それは、ステファノの信仰が真実であることの生きた「しるし」だと思うのです。ある意味、奇跡だと言っても良い。
先週の説教で、津田綾子さんという方のことを語りました。母一人、子一人の自分の息子を強盗殺人で殺されてしまった。憎しみ、悲しみが募り、わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから‥‥とは到底祈れない。それが普通でしょう。
けれども、信仰を通して、父なる神が一人息子のイエス・キリストを十字架の上で人々に殺された痛み悲しみと赦しが、ある時、胸にジーンと響いて来て、遂にはその犯人を赦すのです。これもまた、信仰が真実であることの生きた「しるし」です。そして、人の心の奇跡です。
 でも、「しるし」とは、そんなにすごいことばかりではありません。要するに、信仰がその人の中で“生きて働いている”という事実です。人が生きている中で、確かにその人が信仰によって慰められている、励まされている、支えられている、考えている、反省している、喜んでいる、感謝している、そういう事実です。
 ある信徒の方が、たくさんの苦しみや悲しみ、病を与えられて、でも、その人は、神さまを信じて、いつも前向きに生きている。その姿を見て、その人のご兄弟が、なぜそんな状態で前向きに生きられるのかと不思議に思い、信仰に関心を寄せ、聖書を読み始めたという話を聞いたことがあります。それは、その信徒の方の姿に、信仰が生きて働いている、キリストが生きてい働いている「しるし」を見たからに違いありません。その人が決して強かったわけではないと思います。悲しむことも、苦しみ悩むこともあったでしょう。けれども、絶望しない。神を信じて、前向きに生きている。その姿に、生きた信仰を見たのです。
 主イエス・キリストが神の右に座しておられると信じる信仰。それは、私たちに生き生きとした信仰生活を歩ませる大きな力なのです。



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