2011年3月6日 日本基督教団信仰告白18
  聖  書  ルカによる福音書10章25〜37節 
  説教者  山岡 創

「生死をつなぐもの〜永遠の命」

 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)。
 律法の専門家が主イエスに尋ねました。律法とは、モーセを通して与えられた神の掟であり、特に旧約聖書の前半部分に当たります。
「永遠の命を受け継ぐ」という言い方は、ちょっと変わっていると感じた方もおられるでしょう。ユダヤ人は、律法を守り行うことによって、先祖が神さまから与えられた土地を受け継ぐことができると考えていました。けれども、歴史の中で何度も大国に国を滅ぼされ土地を奪われました。主イエスが生きておられた約2千年前の当時も、やはりローマ帝国に支配され、領土を奪われていました。だから、そのような現実の影響で、現世で土地を受け継ぐという信仰が、来世で永遠の命を受け継ぐという信仰に変わっていったのだと考えられます。

 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。
 私たちも、キリスト教最古の信条である使徒信条において、‥‥永遠の命を信じます、と信仰を言い表します。永遠の命とは何でしょうか。そう言われて、パッと思いつくのは、この世で永久に生きる、という考えかも知れません。そのように考えると、“そんなことはあり得ない”ということになり、“だから、キリスト教はだめなんだ、信じられない”という批判になりかねません。
 けれども、それはキリスト教信仰に対する誤解です。聖書は「永遠の命」を、そのようなものとして教えてはいません。人が、この世で永久に生きるなどということはあり得ない。聖書もそのように考えています。
 では、「永遠の命」とは何でしょうか。主イエスの当時のユダヤ人の多くは、死後の世界を信じ、死後、新しい命に生きることを期待していました。神さまが直接支配する世界で永遠に生きる。それが永遠の命でした。それを、別の言葉で“復活”と言いました。だから、人の死は命の終わり、滅びではなく、新しい命の“始まり”でした。そういう意味で、律法の専門家は「永遠の命」という言葉を口にしたのです。
 主イエスもまた、そのような意味での「永遠の命」を否定してはいません。けれども、主イエスが示す「永遠の命」は少しだけ違います。と言うのは、律法の専門家が「永遠の命」を死後の事柄と考えているのに対して、主イエスは、既にこの世で生きている時から「永遠の命」は始まる、と考えておられるからです。主イエスが、律法の専門家に「そうすれば命が得られる」(28節)と言ったのは、死後の約束ではなく、“今”その命が得られる、と教えているのだと思われます。
 だから、私たちクリスチャンにとって「永遠の命」とは、生と死を超えるもの、生と死をつなぐ“架け橋”のようなものだと言っても良いでしょう。この世を生きている今、どのように生きるかという生き方において、質的に「永遠の命」を生き始めるのです。そして死後、神が支配する世界において、完全な形で「永遠の命」を受け継ぐのです。それが、永遠の命を信じます、と私たちが告白する信仰です。

 では、どのように生きることで「永遠の命」が始まるのでしょうか。主イエスは、“愛する”ことによって「永遠の命」が始まると教えています。
 律法の専門家の問いかけに応えて、逆に問いかけることで、主イエスは、この専門家自身から、その答えを引き出しています。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(27節)。
それが「永遠の命」を受け継ぐ“鍵”でした。
 問題は、それを知っているかどうか、ではなく、実行しているかどうか、にありました。主イエスが、律法の専門家に「正しい答えだ。それを実行しなさい」(28節)と言われたのは、暗に“あなたは答えは知っていても、愛の実行が伴っていないよ”と彼を批判したということです。
 律法の専門家も、その批判に気づきました。だから、「自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』」(29節)と言ったのです。つまり、隣人を愛することを実行していないと批判する主イエスに対して、“そんなことはない、私は隣人を愛している”と自己正当化しようとしたということです。その正当化の心が、“私が隣人を愛していないと言うなら、だれを愛していないか言ってみなさい。私の愛すべき隣人とはだれなのか示して御覧なさい”という言葉となって現われているのです。
 時に私たちも“愛している”と思い上がっていることがあるのではないでしょうか。私は妻を愛している。夫を愛している。子どもを愛している。親を愛している。そういった家族愛から、友人を愛している、部下を愛している、生徒を愛している、といった社会的関係、更には世界の裏側に住んでいるような人々のために祈っている、献金している、といったグローバルな意識、関心まで含めて、私たちは“自分は隣人を愛している”と思い、(無意識のうちに)自分を正当化しているところがないでしょうか。
 主イエスは、そのような私たちの正当化を打ち砕きます。私たちは、自分の考えで、自分の都合で、自己中心に愛しているに過ぎない。自分を捨てて愛していない。良かれと思ってしていることが、相手にとっては、嫌なことだったり、負担だったり、ストレスだったりするかも知れない。でも、私たちは自己中心にできているから、それを見落とすのです。そして、これでいいのだと自分を正当化する。主イエスは、そのような自己中心さを打ち砕きます。実は私も、そういう正当化で何度か(も)失敗しています。主イエスに打ち砕かれています。
 自分を正当化する律法の専門家に、主イエスは〈善いサマリア人〉のたとえを話されました。追いはぎに襲われ、半殺しにされて倒れている人のそばを通った時、祭司もレビ人も、「道の向こう側を通って行った」(31、32節)と言います。関わり合いたくない、という気持の現れです。面倒だからかも知れません。あるいは、何か用事があったのかも知れません。律法には、血に触れると汚れるという規定があり、その汚れが清められるまでの一定期間、社会的な生活ができなくなります。祭司もレビ人も神殿で、礼拝を司る職務を持っていましたから、その職務に支障が出ないようにするために、関わらなかったのかも知れません。それが神さまのためだ、神を愛することだとさえ、自分を正当化することもできたかも知れません。倒れていた人も祭司もレビ人も、同じユダヤ人です。同じユダヤ人同士でありながら、倒れていた人は愛すべき隣人ではないと言うのでしょうか。主イエスはここで、祭司もレビ人も、自己中心に振る舞っていることを鋭く指摘しているのです。
 ところが、最後に通りかかったサマリア人は、「その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(33〜34節)と言うのです。しかも、宿代まで出して、主人に以後の介抱まで頼んだと言います。見ず知らずの相手に、そこまでする義理はなかったでしょう。それどころか、当時ユダヤ人とサマリア人は人種的に“犬猿の仲”でしたから、大嫌いなユダヤ人が倒れているのを見て“ざまあ見ろ”と思ったとしても不思議ではないのです。
 けれども、サマリア人は倒れていたユダヤ人を助けました。彼は、自分の感情や都合を、自分の価値観や思想を優先しませんでした。そこに倒れている相手の必要は何か、相手にとって大切なことは何か、それを考えて行動したのです。いや、「憐れに思い」という心の動きは、もっとナチュラル(自然)なものだったかも知れません。
 主イエスは最後に、「‥‥だれが‥‥隣人になったと思うか」(36節)と問いかけました。「わたしの隣人とはだれですか」と自分中心に相手を選び、自分中心に愛を考えるのではなく、相手にとって隣人になったのはだれかと、愛を相手中心の視点に切り替えて見せたのです。“これが愛だ、あなたが隣人になりなさい”と教えたのです。そして、それこそが「永遠の命」なのだ、と。
 律法の専門家はどのように受け取ったでしょうか。このたとえは、私たちにも絶えず悔い改めを迫ります。愛のない自分に気づかされます。どうせ無理だと居直るのではなく、謙遜に、1歩ずつ、行きつ戻りつしながらでも、主イエスの教えを辿(たど)りたいと考えさせられます。

 ところで、愛を実行する上で、たいへん重要な要因の一つは、自分が愛されたという実感であり、経験ではないでしょうか。愛された者は愛することを覚えます。きっと、あの倒れていたユダヤ人も、サマリア人に愛され、助けられた経験から、その時の感謝、喜び、反省からその人自身も隣人を愛する人へと変えられたのではないかと思うのです。
 そういう意味で、このたとえ話には“裏”があります。それは、この話の中で倒れているユダヤ人にたとえられるのはだれか、また、サマリア人に譬(たと)えられるのはだれか、を考えるということです。そして、このサマリア人は主イエス・キリストのことを、倒れていた人とは“私(たち)”自身を指していると受け止めるのが、この話の裏側のもう一つの内容です。
 主イエスは、ご自分の気持や都合、考えを捨てて、命まで捨てて、私たちを愛し、救ってくださいました。十字架の上で、ご自分の命を犠牲にして、私たちの罪を負い、償ってくださいました。つまり、私たちは今、主イエス・キリストを通して、神さまに愛され、生かされているということです。この神の愛を信じ、信仰生活の中で少しずつ実感し、自分のものにしていくと、私たちは変えられます。神の愛を信じる信仰を基に、人を愛するように変えられるのです。
 既に天に召されたキリスト教作家・三浦綾子さんの小説『塩雁峠』に描かれた永野氏の愛、あれは実話だと言います。峠から逆走し、脱線の危険のあった車両を永野氏が命を捨てて止めた愛によって、そこで助けられた人々の生き方はきっと変わったに違いありません。『氷点』に描かれた洞爺丸事件。嵐の海で沈む舟の中で、二人の宣教師が日本人の若者二人に、自分の救命胴衣を渡して、死んでいった出来事。その愛に触れて、二人の若者の生き方はきっと変わったに違いありません。人を愛する生き方へと変えられたに違いありません。
 神の愛に触れて、実感した者は、きっと変えられます。愛する者へと変えられます。そこから、天へと続く「永遠の命」は始まるのです。




   ウィンドウを閉じる