2011年3月20日 受難説レント第2主日
  聖  書  ルカによる福音書11章14〜26節 
  説教者  山岡 創

「あなたの内に住むのは」

 皆さん、〈エクソシスト〉という映画をご存知でしょうか? ここ1ヶ月ぐらい、テレビを見ていると、時々、この映画のコマーシャルを目にしました。第1作は30年以上も前に公開されました。今回は第4作で、タイトルは〈ザ・ライト〜エクソシストの真実〉というのだそうです。
 予定では昨日から公開だったようですが、今回の東日本(東北関東)大震災の状況を考慮して、公開延期になったようです。
 内容はホラー映画で、私は、ホラー映画は好きじゃないので(怖いのは弱い)、どの作品も見たことがありません。けれども、コマーシャルを見ていて、それが“悪魔(悪霊)祓(はら)い”をモチーフ(主題)にした映画であることを初めて知りました。そして、エクソシストという言葉の意味も‥‥。
 実は、エクソシストというのは、キリスト教と深い関係があります。カトリックで、悪魔祓いをする聖職者のことをエクソシストと呼ぶのだそうです。今でも、実際にそのような職務がカトリックにあるのかどうかは分かりません。ただ、今日の聖書の内容が、悪霊を追い出すという話だったので、ふと、この映画のことを思い出しました。

 悪霊という言葉を言われて、“ああ、悪霊ね”と当たり前のように答える人は、現代人には、まずいないでしょう。けれども、2千年前の当時、聖書の世界の人々にとっては、“ああ、悪霊ね”と言えるぐらい、当然のもの、身近な存在でした。当時、人が心身の病を患(わずら)ったり、何か障がい(障害)を負ったりするのは、悪霊の仕業だと考えられていたからです。そして、人の内から悪霊を追い出して病を癒したり、障がいを取り除いたりすることを職業とする人々がいました。今日の聖書箇所、19節で主イエスが「あなたたちの仲間」と言っている人々、当時の“エクソシスト”たちです。
 主イエスは、悪霊を追い出すことを職業としていたわけではありません。主イエスは、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)と、神の国の到来と救いを宣(の)べ伝える宣教者でした。けれども、神の国があなたたちのところに既に来ている、言い換えれば、神があなたたちと共にいてくださる、その恵みのしるしとして、悪霊を追い出し、病を癒し、障がいを取り除いておられたのです。
 群衆は、主イエスのなさる癒しの業に驚きました。たぶん、主イエスほどの癒し、悪霊祓いをする職業的エクソシストはいなかったからでしょう。
 けれども、中には主イエスの業を素直に認めようとはせず、非難する人々もいました。
「あの男は悪霊の頭(かしら)ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)。
 いくら“負け惜しみ”とは言え、ひどい中傷です。「ベルゼブル」というのは、木曜日の聖書と祈り会で旧約聖書の列王記を学ぶ中で、“バアル”という土着の異教の神が出て来ましたが、そのバアルがちょっとなまった言葉で、主イエスの当時は「悪霊の頭」、親玉と考えられていました。
 このように主イエスを非難したのは、おそらくファリサイ派の人々とその律法学者たちだったと思われます。先週の説教でもお話ししましたが、彼らは、主イエスの宣教活動に対して否定的で、敵意すら抱いていました。なぜなら、彼らが信仰的に大切に守っていた律法(神の掟)を、主イエスが破るようなことをするからです。主イエスにしてみれば、律法の枝葉末節(しようまっせつ)にはこだわらず、律法の中心(ハート)であり、神の御心である“愛”を実行しているだけなのですが、その行いが彼らには、律法をないがしろにし、神を冒瀆するものに見えたのです。
 だから、そういう主イエスが、苦しむ人から悪霊を追い出し、癒しの業を行っても、それを神の力が働いている、神の霊の力だと認めるわけにはいかないのです。それで、言うも言ったり、「悪霊の頭ベルゼブルの力」だなどと、苦し紛(まぎ)れの暴言を吐いたのです。

 それに対して、主イエスは二つの例を挙げて反論されました。一つは、内輪争いです。
「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめをすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」(17〜18節)。
 まさにその通りです。悪霊たちの繁栄は、人に取りついて、その人を乗っ取ることにあるのに、その悪霊の親玉が、他の悪霊たちを人の内から追い出すなどということは、悪霊たちの利害から考えて、あり得ないというわけです。
 もう一つは、「あなたたちの仲間」と言われているように、ファリサイ派の人々の中にも悪霊祓いをする人々がいました。その仲間たちは、「何の力」(19節)で人から悪霊を追い出すのか。まさかあなたたちは、自分の仲間に対して悪霊の力、ベルゼブルの力だとは言うまい。だとすれば、彼らの悪霊祓いと主イエスの悪霊祓いと、一体どこに違いがあるのか。同じではないか。あなたたちの仲間が神の力で悪霊を追い出すのなら、主イエスも同じように、神の力で悪霊を追い出していると言うことができる。だから、「あなたたちの仲間」である悪霊祓いたちが、主イエスの悪霊祓いが神の力であることを証明している。ベルゼブルの力だと非難するあなたたちの中傷が間違っていることを証明している、というわけです。仲間たちがファリサイ派の中傷を「裁く者」になるのです。
そのように反論して、主イエスはこう言われました。
 「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。
 主イエスはもちろん、ベルゼブルの力などではなく、「神の指で」すなわち神の力、神の霊の力、聖霊の力で悪霊を追い出しておられたのです。
 主イエスが宣べ伝える「神の国」とは、ファリサイ派も含めて当時の人々の多くが信じ、期待していた神の国とは大きく違いました。人々は、外国(当時、ローマ帝国)に支配されている自分たちイスラエル民族が解放され、再び“神の民”の独立国家を復興することだと考えていました。しかし、主イエスは、神が人と共にいてくださる恵みだと考えていました。人の心を悪霊が支配するのではなく、神が人の内に住み、悪霊から解放し、その心を健やかに、自由にしてくださることだと考えておられました。主イエスは「神の国」を、目には見えない人の内面世界のこととして考えておられたのです。
 だから、主イエスは続けて、次のように語られました。
「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(21節)。
 一度読んだだけでは分かりにくい内容ではないかと思います。これは、私たち人の内面世界、心の内のことが譬(たと)えで語られているのです。「屋敷」というのが、私たちの内面世界、心の内のことです。その屋敷を武装して守っている「強い人」というのは、悪霊のことです。つまりこれは、人の心が悪霊に支配されている状態です。そして、その「屋敷」を襲って来る「もっと強い者」というのは神です。神の霊、聖霊です。人の心を支配している悪霊を、神の霊が追い出し、神の霊がそこに住み、人の心を健やかに、自由にしてくださる。それが「神の国」だ、救いだと主イエスは語っておられるのです。

 ところで、神の指で、神の霊によって人の心から追い出された悪霊はどこに行くのでしょうか。24節には、「砂漠をうろつき、休み場所を探す」と書かれています。当時の人々は、悪霊たちの“基地”を砂漠だと考えていました。
 けれども、悪霊は休み場所が見つからないと、「出て来たわが家に戻ろう」(24節)とすると言うのです。ところが、悪霊が戻ってみると、「家は掃除をして、整えられていた」(25節)というのです。どうやら家は“空き家”のようです。それで、悪霊は喜んで、更に「自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、‥住み着き」ます。「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(26節)と主イエスは言われるのです。
 不思議なのは、その「家」が空き家だったということです。一体、家の主(あるじ)はどこに行ってしまったのでしょう。その家に住んでいた悪霊を、神の霊である聖霊が追い出し、その家の主となってくださったはずです。聖霊はどこに行ったのでしょう。
 いや、たぶん聖霊はその家にいるのではないでしょうか。その人の心の中に聖霊はいるのです。神さまが住んでくださっているのです。けれども、本人がそのことに気づいていないか、見失っているということではないでしょうか。長い信仰生活の歩みの中では、ふと、神さまは自分と一緒にいてくださらないのではないかと疑ってしまうような時もあるでしょう。
 神さまがいない。聖霊が住んでいない。そう思うと、私たちの心は空洞になります。空っぽです。空虚です。それで、何とかしなければと焦って、自分で一生懸命、掃除をして整えようとするのです。ちなみに、それが主イエスの当時のファリサイ派の人々や律法学者たちの在り様でした。彼らは、律法を守り行うことで、自分の力で自分の心を掃除し、きれいにし、整えようとしました。その志自体が悪いとは思いません。けれども、自分の力で一生懸命に努力をした結果、誇りが芽生えました。その誇りはやがて驕りに変わりました。その驕りは、自分と違う者は認めないという心の狭さを生みました。自分たちの考え、自分たちの行いが正しいという独善を生みました。その独善が、自分たちと違う者、すなわち主イエスへの非難中傷を生み、対立を生み、敵意を生み、殺意さえ生みだしました。
 現代において、私は「悪霊」というものの存在をリアル(現実)には信じていません。けれども、人の心に生れ、住み着き、支配する驕り高ぶりや狭さ、独善、非難中傷、敵意、殺意、“自分が”“自分の力で”というエゴ‥‥‥そういったものこそが、現代の悪霊だなあ、と感じます。
 主イエスの教えに触れ、その救いを信じ、聖霊と信仰をいただいたはずの人が、自分はいつも主イエスに赦されていると開き直り、思い違いをして、自分の罪を悔い改めず、かえって悪い行状を募らせるといったことがあるかも知れません。
 あるいは、主イエスを信じて救われ、聖霊と信仰をいただいたはずの者が、自分の罪を見つめて謙虚に悔い改めるのではなく、自分の独善的な考えや行いを、それが聖書の教え、神さまの御心に適っていると信仰的に自分を正当化し、他人を否定し、裁くということがあるかも知れません。
 そうなると、その人の状態は、確かに七つの悪霊に住みつかれたかのように、以前よりも悪くなるということが言えるでしょう。
 そうならないためには、絶えず自分の心の内に住まう主イエスを、聖霊を意識することです。自分の力、自分の正しさで生きているのではなく、神の恵みによって生かされてあることを感謝することです。自分の内に住まう聖霊に、常に悔い改め、その助けを祈り求めることです。隣人を裁くのではなく、愛する愛を祈り求めることです。“自分の力ではない、聖霊の恵みだ”と絶えず自分に言い聞かせることです。
 教会のトイレの前の廊下の奥に、子どもチャペルの子どもたちが作った、とてもすばらしい作品が貼ってあります。聖霊の結ぶ実が成っている木の絵です。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」
(ガラテヤ5章22〜23節)
 私たちキリスト者の内には、聖霊が住んでくださっている。その聖霊の力に頼み、自分をゆだね、豊かな心の実りを祈り求めていきましょう。




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