2011年3月27日 受難説レント第3主日 大人と子供の礼拝
  聖  書  ルカによる福音書9章18〜27節 
  説教者  山岡 創

「自分の十字架を背負って」

 ペトロさんをはじめ、お弟子さんたちは、いつもイエス様と一緒にいました。一緒に旅をしました。いつもイエス様の話す言葉、教える教えを聞いていました。イエス様が病人や障がいを持った人を癒(いや)し治すのを、いつも見ていました。今日読んだ聖書の最初の12節にも、「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」と書かれています。イエス様が毎日祈っている姿を、弟子たちはいつも見て、その祈りを聴いていたのです。
 そのように、いつもイエスさまと一緒にいたお弟子さんたちは、イエス様がどんな人なのか、段々と分かって来たことでしょう。
 ある日、イエス様は、お弟子さんたちに、こう聞かれました。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)。
 みんなは、イエス様のことをどんな人だと思いますか? ただの人? 歴史上の有名な人物? スーパーマン? 神さま?‥‥‥。そのとき、お弟子のペトロさんがこう答えました。
「神からのメシアです」(20節)。
 メシアって何だろう? ある人がね、その人はまだ子どもだったのだと思うけど、メシアのことを“飯屋”だと思って、イエス様って、ご飯を食べさせてくれる人なのか、と勘違いした、という話を聞いたことがあります。でも、まるっきり間違いではないかもね。イエス様は、5千人の人々にパンとお魚を分け与えて、満腹させてくださったことがあったからね。
 メシアっていうのは、“救い主”という意味の聖書の言葉です。だから、ペトロさんが答えた「神からのメシアです」というのは、“イエス様は、神さまから送られてきた救い主です、私たちを救ってくださる方です”と言ったということですね。
 今度、4月のイースター礼拝で、加藤静江さん(中田一也くん、光也くんのおばあちゃん)と山岡愛ちゃんが洗礼を受けることになっています。洗礼ってね、神さまのお水で心を洗われて、新しく生まれ変わることなんだ。そのとき、“わたしはイエス様を、神さまから送られた救い主と信じます。生涯、信じて生きていきます”と、神さまに誓うんだ(神さまとの約束)。

 でもね、“イエス様は、神さまからの救い主です”と口で言うだけなら簡単。だれでも言える。大切なのは、心から信じてイエスさまについて行くことです。
 イエスさまは、ある時、こんな話をされました。私のことを“あなたは救い主です”と口で言う人が天国に入れるわけではないよ。神さまの教えを聞いて、それを行う人が天国に入るのですよ。だから、イエスさまは、お弟子さんたちに、そして私たちに、“イエス様は、神さまからの救い主と信じます”と言うことは、どのように生きることかを教えてくださいました。それは、イエスさまに従って生活することです。しかも、ただ従うのではない。自分の十字架を背負って従うことだよ、と言うのです。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)。
 十字架。この礼拝堂にもあります。この教会の屋根の上にも掲げられています。十字架のペンダントやネックレスを持っている人もいるかも知れません。十字架って何だか知っていますか? 十字架は元々、人を磔(はりつけ)にして処刑する道具でした。木でできていて、もっと大きくて重い。イエス様は、祭司長や律法学者、ファリサイ派の人たちのねたみといじめの罪のために、またお弟子さんたちの裏切りの罪のために、十字架に架けられて処刑されました。でも、イエス様の十字架は、たくさんの人の罪を、私たちの罪を、代わりに背負って犠牲となり、赦してくださるための出来事でした。
 十字架に架けられる人は、自分が磔にされる十字架を背負って、処刑場まで歩きます。イエス様も十字架を背負ってゴルゴタの丘まで歩きました。でも、十字架はとても重く、イエス様は徹夜(てつや)でいじめられていたので、疲れ果てて最後まで背負うことができません。途中からシモンさんという人が、イエス様の十字架を代わりに背負って、イエス様の後から処刑場までついて行きました。そういう姿から、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という教えが生まれたのだと思います。
 生きることは、十字架を背負って歩くようなものだ、重い荷物を背負って歩くようなものだよ、とイエス様から教えられているようです。嬉しいことや楽しいことばかりじゃない。自分の思ったとおりにいくことばかりじゃない。苦しみの十字架、悲しみの十字架があるよ。うまくいかないつらさや悩みの十字架もあるよ。そして、その十字架から逃げようとすると、もっともっと重くなってしまうよ。
 でも、イエス様は私たちにこう言ってくれます。“わたしがあなたの十字架を一緒に背負おうよ”。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)。だから、イエス様のことを救い主「メシア」と信じることは、イエス様が私の十字架を一緒に背負ってくれる、半分背負ってくれる、だから自分の十字架を背負って行けると信じることなのです。

 「自分の十字架を背負って」には、もう一つの意味があります。それは、イエス様が「隣人を自分のように愛しなさい」と教えたように、人を愛することです。自分のことばかり考えていたら、人を愛することはできません。23節に「自分を捨て」という言葉がありましたが、自分のことばかり考えることを捨てなければ、人を愛することはできないのです。
 最近テレビで、“心は見えませんが、心遣いは見えます。思いは目に見えませんが、思いやりは見えます”という公共広告機構のコマーシャルを、よく見ます。電車の中で、おなかに赤ちゃんのいる女の人を前にして、席を譲ろうかと迷っている高校生の男の子が出て来ます。迷っていたら、別の女子高生がその人に席を譲ります。その男の子が、今度は、勇気を出して、歩道橋の階段を上っているおばあさんを支えます。そういう心遣い、そういう思いやりも、人を愛するということです。自分がシートに座って楽(らく)したいという気持を捨てなければ、面倒くさい、時間がない、そういう自分の都合を捨てなければ、できないことです。もっと大きな愛のためには、もっと大きなものを捨てることも必要です。イエス様は十字架の上で、私たちを愛して赦すために自分の命を捨てました。私たちも命がけにならなければならない時もあります。
 人を愛するために、自分の何かを捨てる。捨てる痛み、捨てる忍耐を背負う。それが、自分の十字架を背負うということの、もう一つの意味だと思います。

 イエス様は、「わたしについて来たい者は‥‥」と言われました。“ついて来たいか、どうか?”と聞かれれば、“大変そうだから、ついて行きたくないなあ。もっと楽して過ごしたいなあ”と思う気持があります。でも、十字架に架かったイエス様の姿が、そんな私(たち)の心に、“それでいいのか?”と問いかけて来ます。そして、励まします。自分の十字架は重いかも知れないけれど、天国ではきっと、すばらしい栄光が待っています。それを目指して、自分の十字架を背負い、人を愛して歩んでいきましょう。




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