2011年4月3日 受難説レント第4主日 
  聖  書  ルカによる福音書9章28〜36節 
  説教者  山岡 創

「栄光を見るためには」

 先週の日曜日の礼拝では、今日読んだ聖書の直前の箇所、ルカによる福音書9章18〜27節を読みました。そこでは、主イエスが“何者か”ということが問題になっていました。(イエス様とは何者なのでしょう?)
 実は、弟子のペトロが答える前に、群衆の答えが問われています。群衆、つまり当時のユダヤの人々は、主イエスのことを「洗礼者ヨハネだ」と言ったり、「エリヤだ」と言ったり、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」(19節)と言っていました。
 簡単に言うと、昔の偉大な人物が生き返って、もう一度やって来たのだ、と人々は思っていたということです。
それに対して、弟子たちの答えはどうだったでしょう。ペトロがみんなを代表するように答えました。「神からのメシアです」(20節)。先週の礼拝でもお話ししましたが、これは、神さまのもとから送られて来た救い主という意味です。
そこで、今日の聖書箇所ですが、この前の聖書箇所からの“続き”のようになっています。どういうことかと言えば、主イエスは何者かという問いかけがあって、群衆の答えがありました。弟子たちの答えがありました。そして、今日読んだ箇所には、もう一つの答えがあります。神さまの答え、父なる神ご自身の答えです。35節がそれです。
「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」(35節)。
群衆や弟子たちの答えに対して、神さまご自身が“正解はこれだ”と示してくださったのです。群衆や弟子たちの答えが正解からズレている。ちょっと違っている。“18+7は?”と聞かれて、群衆は“55”と大きくズレている。弟子たちはちょっとましで“30”と答えているようなものです。それに対して、神さまが“答えは25だ”と教えてくださった。そんな感じです。
“これは、わたしの子だ。神の子だ。わたしが選んだ者だ。だから、これの語る言葉
はわたしの言葉そのものだ。これの言葉に聴き従いなさい”
 神さまは、そのように答えを示してくださったのです。そして、主イエスが選ばれた“神の子”であるしるし(証拠)も見せてくれました。32節にあるように、「栄光に輝くイエス」の姿です。普段は、ごく普通の人と同じような姿に見えたでしょう。いや、普通の人よりもみすぼらしい身なりだったかも知れません。それが、この時だけは「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)というのです。“神の子”としての本当の姿が見えたのです。

 その時、主イエスは祈っておられました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、山に登り、祈っておられました。主イエスは、祈りを教えたとき、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れたところで、神さまに祈りなさい、とお教えになりました。つまり、人に自分の信仰を見せるために祈るのではなく、神さまとマン・ツー・マンで、1対1になって祈りなさい、ということです。主イエスは、町から町、村から村へと、神の救いを宣(の)べ伝える伝道旅行をされていましたから、いつも部屋があったわけではありません。野宿することも少なくなかったでしょう。そういうとき、主イエスは山に登り、人から離れ、独りになって、父なる神さまに祈っておられたのです。独りで祈り、父なる神が“自分に”何をせよとお示しになるかを心の耳で聴きとっておられたのです。ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れていますが、これは4人で一緒に祈るためではなく、祈りとはこうするものだと3人の弟子たちに身をもって教えるためだったと思われます。
 そのように主イエスが祈っていると、その「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」というのです。そのように変わったのは、そこに、栄光に包まれた「モーセとエリヤ」(30節)が現れたからです。
 モーセはその昔、エジプトで奴隷にされていたイスラエル民族を救い出し、また神の掟である十戒、律法を人々に伝えた人物でした。またエリヤは、イスラエル王国の中にバアルの神を信じる信仰がはびこった時に、本当の神を、主なる神を信じる信仰を取り戻そうと戦った預言者でした。
 余談ですが、私は、この聖書箇所の場面を思い浮かべると、不思議に思い、おかしく感じることがあります。それは、モーセとエリヤが現れたとき、どうしてイエスさまは、その二人がモーセとエリヤだと分かったのだろうか、ということです。イエスさまは、モーセとエリヤの顔を知らなかったはずです。顔写真などあるわけがありませんし、二人が“わたしはモーセだ”“わたしはエリヤだ”と名乗ったのだろうか? それとも、胸に大きく“モーセ”“エリヤ”と書かれた名札を付けていたのだろうか? そんなバカなことを想像しては、ちょっと聖書を楽しんだりします。
 もちろん、今、私が想像したようなことは、どうでもいい、楽しい空想です。モーセとエリヤが現れたということ、それは実際に起こったことと言うよりは、そこで主イエスに“神の御言葉”が示されたということを意味しているのです。
 モーセは、旧約聖書の律法を象徴する人物です。また、エリヤは旧約聖書の預言書を象徴する人物です。律法と預言書、それが主イエスの当時の聖書であり、神の御言葉です。だから、祈りの中でモーセとエリヤが現れたというのは、祈りの中で神の御言葉が主イエスに語りかけられた、神の御心が示されたということを表しているわけです。
 私たちが、普段の信仰生活の中で祈るとき、聖書を読むこととセットにして祈ることの大切さが、ここでも教えられています。もちろん、祈るときはいつも聖書を開かなければならない、というわけではありません。一々そうしていたら面倒で、その場でちょっと祈る、一言祈るといったことができなくなります。けれども、一日に一度、聖書を読んで祈る時間があってほしい。5分でいい。座って5分も難しいなら、家を出る時に1節聖書を読んで、一言祈るだけでもいい。朝でも、昼でも、夜でもいい。その積み重ねが、私たちを内側から変えていくのです。神さまが自分に何を望んでいるかを、自分で聴き取り、従う、自立した信仰へと変えていくのです。“これが神さまの御心だ”と信じられたら、生活に1本、芯が通る。人生に芯が通る。神さまと共に歩んでいるという自信と平安の芯が通るのです。
 別の言い方をすれば、それによって、神の「栄光」を見る心の目、信仰の目が与えられるのです。

 主イエスの「栄光」とは何でしょうか? 31節に、モーセとエリヤが「栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂(と)げようとしておられる最期(さいご)について話していた」と記されています。主イエスがエルサレムで遂げる最期、それは十字架に架けられて殺されるということです。主イエスご自身が、22節で「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥(はいせき)されて殺される」と語っておられたことです。そういう「最期」が、「栄光」の中で語られていたのです。主イエスが、神の国を建て、王座に就き、名誉と力を得る、というような栄光が語られていたのではないのです。
 これは、私たちが普通に考える栄光とは全く違うものです。昇進して高い地位を得たとか、学校で優秀な成績を収めたとか、何か善い行い、善い功績を残して表彰されたとか、そういったこの世の栄光とは全く違うものです。排斥されて、十字架に架けられ、殺されるのですから、むしろ正反対だと言ってよいでしょう。そのような人生に、一体どんな「栄光」があると言うのでしょう?
 モーセとエリヤが現れ、主イエスの「最期」について、主イエスと話し合っていた、と言います。それはつまり、聖書、神の御言葉によって、主イエスの「最期」の意味が示された、ということでしょう。主イエスの「最期」。それは単なる処刑ではない。犬死(いぬじに)でもない。多くの人々の罪を背負って、愛する弟子たちの罪を背負って、身代わりとなって罪を贖い、命を救う“偉大なる死”だと、“愛による死”だということが示されたに違いありません。そして、それが父なる神の、私たち罪深い人間を救うご計画なのだ、ということも。
 だから、一見すると、栄光のかけらもないように見える主イエスの死、十字架の死にも、大きな意味があるのです。人のために生き、人のために死ぬ。自分を犠牲にした愛に生き、愛に殉(じゅん)じる。それによって人を生かす。それが、「自分を捨て、自分の十字架を背負う」(23節)ことでもあります。そのような生き方に、栄光を見つけることのできる目、命の輝きを見ることができる目、それが信仰です。聖書から、主イエスから教えられた私たちの信仰です。
 人を愛して生きる。それは、人のために自分の時間を使うことです。自分の命を使うことです。ある意味で自分を捨てることです。それは、決して華々しいことではありません。普段の生活の中で、だれかを愛することは、だれかに認められ、ほめられるようなことではないでしょう。地味な、小さな、隠れた行い、ちょっとした言葉です。けれども、神さまはそれを見ていて、喜んでくださいます。そういう神さまの喜びに「栄光」を感じて、喜んで生きられる私たちでありたいと願います。




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