2011年4月10日 受難説レント第5主日 
  聖  書  ルカによる福音書20章9〜19節 
  説教者  山岡 創

「捨てられた礎」

 イスラエルには当時、「ぶどう園」がたくさんあったようです。けれども、その多くはイスラエルの人々のものではありませんでした。
 当時イスラエルはローマ帝国に支配されていました。そのため、ぶどう園の多くはローマ帝国の貴族が所有するものになっていました。とは言え、それらの貴族がイスラエルに住んでいるわけではありません。彼らは都ローマをはじめ、そのほとんどが大都会に住んでいました。いわゆる不在地主というやつです。
 彼らは、イスラエルの人々に土地を提供し、貸し与えました。イスラエルの人々は小作人となって働きました。そのようにして、収穫の半分は地主が、半分は小作人が取るのが当時の分け方でした。
 収穫の時期になると、遠くに住んでいる地主は、収穫の取り分を得るために、自分の僕(しもべ)を送りました。けれども、イスラエルの人々は苦しみを積み重ねながら屈辱に燃えていました。神の民として選ばれた自分たちイスラエルが、なぜ神の民ではない異邦人、ローマ人に支配されなければならないのか。そういう誇りと悔しさを常に抱いていました。いつかは土地を自分たちの手に取り戻し、独立国家を復興しようと願っていました。だから、そういう気持が時には、地主の送る僕たちとの間で、小競り合いとなって現われたことでしょう。時には反乱が起こることもありました。反乱が功を奏して、一時、イスラエル王国が復興した時代もあったのです。
 だから、主イエスがなさった「ぶどう園」のたとえ話は、イスラエルの民衆にとって、自分たちの現実と重ね合わせ、相当にリアル(現実的)な話として聞くことができたでしょう。

 旧約聖書の中では、イスラエルの民がしばしば「ぶどう園」にたとえられています。今日の主イエスのたとえ話においても同様に、「ぶどう園」はイスラエルの民を指しています。今、国はないのでイスラエルの人々の社会、生活共同体、宗教共同体を指しています。
 では、「ぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」(9節)不在地主、「主人」(13節)とはだれのことでしょうか? それは、主なる神、父なる神のことです。神さまは天地を造り、人に命をお与えになりました。そして、その世界からアブラハムの子孫、イスラエルの人々を、ご自分の愛する神の民として選んだのです。すべての国民にとって「祝福の源となるように」(創世記12章2節)と、祝福のモデルとなるようにと選び出したのです。そして、ご自分の御心に従う民とするために、モーセを通して律法をお授(さず)けになりました。その意味でイスラエルとは、神のものなのです。
 ところが、イスラエルの人々はしばしば、律法に示された神さまの思いに従わず、反抗しました。異教の神を拝んで偶像礼拝を行ったり、商人が不正を行って搾取(さくしゅ)したり、孤児ややもめといった社会的に弱い人々をないがしろにしたりしました。そのようなイスラエルの人々の有様が、反抗する「農夫たち」としてたとえられています。
 そのようなイスラエルの人々のもとに、神さまが送られた「僕」が預言者たちです。預言者たちは、偶像礼拝をやめよ、不正を行うな、血を流すな、孤児ややもめを大切にせよ、と神の言葉をイスラエルの人々に語りました。けれども、人々、特にその時代時代の権力者たちは、預言者たちの言葉を煙たがり、迫害しました。たとえ話の中で、僕たちは袋叩きにされ、傷つけられたと言われている通りです。
 そこで、最後に主人の「愛する息子」(13節)が送られます。「この子ならたぶん敬(うやま)ってくれるだろう」(13節)と期待を込めて送ったのです。もうお分かりでしょう。この、主人の「愛する息子」とは、このたとえ話を語っている主イエス・キリストご自身です。
 けれども、農夫たちは、この「跡取り」(14節)を殺してしまえば、主人はやがて老いて死に、ぶどう園は自分たちのものになると考えて、主人の息子を殺してしまいます。殺伐(さつばつ)とした話になって来ましたが、これはイスラエルの人々、特に「律法学者たちや祭司長たち」(19節)といった指導者たちが、主イエスを否定し、十字架に架けて処刑するであろうことを示しているのです。
 そうなったら、ぶどう園の主人はどうするか。「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない」(16節)と、主イエスはこのたとえ話を結んでいます。
 その結末を聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」(16節)と答えました。主イエスのこの話が何を譬(たと)えているかに気づかず、現実と重ねて受け取って、不在地主であるローマ貴族、神の民ではないローマ人が、神の約束の土地を取り戻そうと反抗する自分たちイスラエル人を滅ぼすようなことがあってはならない、神さまはそのようなことをお許しにはならないと考えて、民衆はこう答えたのでしょう。
 けれども、律法学者と祭司長たちは、この話が何をたとえ、だれに当てて言われているのかに気づきました。イスラエルの主である神の意に背き、その愛する息子・イエスを殺して、その結果、神に滅ぼされる「農夫たち」に譬えられているのは自分たちだ、「イエスは自分たちに当てつけてこのたとえを話された」(19節)のだと気づいたのです。だから、腹を立て、その場でイエスに手を下そうとしましたが、民衆が主イエスを尊敬していたので、その手前、それができなかったのです。

 彼らに、自分たちが当てつけられていると気づかせた一言、それは17節の言葉でした。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(17節)。
 これは旧約聖書・詩編118編22節を主イエスが引用したものです。
 当時イスラエルの家は石造りでした。石を組み上げて建てていく。その建築の要(かなめ)となるのが「隅の親石」でした。その石を基にして石が組み上げられていくのです。あるいは、石を組み上げていった最後に、アーチの頂上にはめる石だという説もあります。いずれにしても、家を建てる上で最も重要な部分です。
 家を建てる職人は、慎重に「隅の親石」を選んだことでしょう。礎(もと)となるその石に、建築の良し悪しがかかっているからです。これは親石には使えない。職人がそう判断して捨てられた石が、「隅の親石」となる。そんな不思議な出来事を、17節の御言葉は語っています。
 捨てられた石とは何のことでしょう? それは、律法学者や祭司長らイスラエルの指導者たちが、この男は神の民イスラエルに不要だと捨てた主イエス、十字架に架けて処刑しようとしている主イエスのことです。けれども、彼らが十字架に架けて捨てる主イエスこそが、本当の意味で神さまに従う神の民を造り上げていく基(もと)になる、信仰の土台となる、ということです。

 私たちの信仰の土台、そして教会という信仰による交わりの礎は、言うまでもなく、主イエス・キリストです。十字架に架けられたキリストの恵みです。キリストが十字架に架かり、私たちの罪の犠牲となって身代りに死んでくださった。それによって私たちの罪が、私たちの内側に根深く絡(から)みついている罪が赦され、生かされた。キリストの十字架によって表わされた父なる神の、無償の愛によって私たちは愛され、生かされている。それが、私たちの信仰の「親石」、教会の「親石」、そして生きていく上での人生の「親石」なのです。その「親石」に支えられ、生かされて私たちは生きている。毎日の生活の中で、その恵みに、信仰によって気づかせていただきたいのです。実感し、感謝して歩みたいのです。
 話が変わりますが、私の長男の大地が新潟市にあるミッション・スクール、敬和学園高校に入学しました。何の巡り合わせか、いや、神さまのお導きか、そんなことは当初、夢にも考えていませんでした。今日、新潟市内のどこか、教会の礼拝にちゃんと出席したか、私はそのことが心配で祈っています。
 それはさて置き、敬和学園は一言で言えば、生徒一人一人を大切にし、愛してくれる学校だなあと感じています。愛の風が吹いています。そのような環境で育てられた生徒たちは幸せでしょう。
 先日いただいた学校報〈敬和〉3月号に、この前、卒業した生徒たちの卒業文が載っていました。その中の一人(女の子)は、中学時代、学校どころか人も嫌いで、すべての人に対してとても反抗的で、いつも自分の殻(から)に閉じこもっていた自分を、敬和学園は変えてくれたと言います。そして、こう書いています。
  日々の学校生活を共に過ごし、たくさん笑い合って励まし合って、時にはすれ違ってぶつかり合っても、ずっと私を支えてくれた友だち。時には厳しく、時には優しく、いつも熱いハートでぶつかってくれた先生方。いつも側で支えてくれた大切な家族。そして、この18年間ずっと私を育ててくれた大切な両親。素直になれない私はその温かい手を振り払って反抗してばかりだったけど、本当はすごく嬉しかった。こんな私をここまで愛してくれるんだって実感できたから。
  両親は私に惜しげもない無償の愛をたくさんくれました。でも私は何もあげることができなかった。だから今ここで、「ありがとう」を伝えたいと思います。18年間、私を育ててくれてありがとう。私はその支えがあって、ここまで来れたんだと思います。
 友だちの支え、先生の支え、家族・両親の支え、その支えがあって、自分はここまで来れたのだと、彼女は敬和学園で学ぶ中で気づいたのです。その支えの要、「隅の親石」となっているものは、愛です。たくさんの愛に支えられて、彼女は生きて来た。そして、そのようなたくさんの愛の基にある「隅の親石」は、“神の愛”です。人は、神に無償で愛されて、生かされてある存在だということです。(人の支えに気づいた彼女だから、いつか神の恵みにも気づく時が来るでしょう)
 私たちの信仰、教会、そして人生の「親石」、土台。それは、多くの人に愛され、支えられているということではないでしょうか。そして、その大元(おおもと)として、根源的に、神さまに愛されて、支えられているという恵みではないでしょうか。私たちは自分の力だけで生きているのではなく、人の愛に支えられ、神の愛に支えられて生きているのです。
 その恵みに気づいて、何もお返しすることはできないかも知れないけれど、彼女のように“ありがとう”と、人に感謝し、神に感謝して生きる。それが、主イエス・キリストを「隅の親石」として生きることではないかと思うのです。
 愛は、何かを捨てるところに成り立ちます。十字架の上で、ご自分の命を捨ててまで私たちを愛してくださったキリストの愛、キリストによって表わされた神の愛に包まれて、支えられて私たちが生きる。そこに、捨てられた石が隅の親石となるという聖書の御言葉が実現します。




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