2011年4月17日 受難説レント第6主日 
  聖  書  ルカによる福音書22章39〜53節 
  説教者  山岡 創

「今はあなたたちの時」

 ユダヤ教には、大きなお祭りが3つあります。その一つは「過越祭」(22章1節)という祭りでした。過越祭の期間になると、エルサレムに住む人々だけではなく、地方や海外に住むユダヤ人が巡礼者としてエルサレムを訪れました。
 今日読んだ聖書箇所は、過越祭の期間中の出来事です。主イエスと弟子たちもこの時、エルサレム神殿を訪れていました。そして、夜になると、「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った」(39節)とあるように、主イエスはいつも、エルサレムのすぐそばにあるオリーブ山に行かれたようです。それは、祈るためでした。
 39〜40節に、「いつも」という言葉が2回出て来ます。主イエスはいつも祈っておられました。そして、弟子たちにも祈ることをお勧めになりました。
「誘惑に陥らないように祈りなさい」(40節)。

 「誘惑」とは何でしょう? だれが、どのように弟子たちを誘惑するのでしょうか。私は、2年ほど前に、仙台青葉荘教会(震災後、避難所になった)の牧師である島隆三先生が、月刊誌『信徒の友』の特集の中で、“サタンは私たちを、祈らせまい、祈らせまいとする”と書かれていたことを、とても印象深く覚えています。本当にそうだと思いました。私の心の中に、疲れた、忙しい、時間がない、だから聖書が読めない、祈れないとつぶやく“言い訳サタン”がいるのです。そのことにハッとした時から、私はこう祈り求め始めました。“神さま、聖書を読めるようにしてください。祈れるようにしてください”と。聖書を読ませまい、祈らせまいとするサタンの誘惑に陥らないように祈り始めたのです。
 弟子たちはこの時、眠ってしまって祈ることができなかったわけですから、ここで言われている「誘惑」とは、主イエスの言葉に従うことができず、祈らない状態だと言うことができるでしょう。
 更に突っ込んで「誘惑」について考えてみたいと思いますが、直前の箇所、31〜34節に〈ペトロの離反(りはん)を予告する〉というところがあります。過越祭の食事、“最後の晩餐”と呼ばれる食事の席上で、主イエスはペトロ(シモン)に、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞きいれられた」(31節)と語っておられます。ふるいにかけられた小麦が、殻が残り、粉はふるい落とされていくように、弟子たちもサタンの誘惑によって信仰からふるい落とされる、と言うのです。
 ペトロは、主イエスに向かって、「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(33節)と意気込んで答えますが、主イエスはこの後で起こるペトロの現実をズバリと予言されます。
「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(34節)。
 この御言葉から考えると、主イエスを知らないと言うことが、誘惑に落ちることです。つまり、主イエスと無関係になることです。実際、ペトロは後で3度、主イエスを知らないと人々の前で言ってしまうのです。
 私たちにとって、主イエスと無関係になるとはどういうことでしょうか? それは信仰を無くす(32節)ということですが、具体的に言えば、教会に来なくなる、礼拝に出席しなくなる、ということでしょう。いや、気持はあっても来られない時もありますので、もう少し丁寧に言えば、教会、礼拝に来る気持を失っているということでしょう。
 けれども、教会、礼拝に出席しているから、主イエスと無関係にはなっていないと言い切れるだろうかと思います。例えば、先ほどお話しした“祈り”の問題。主イエスは、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。けれども、私たちが祈りを怠っていたら、そんな主イエスの教えは“知らん!”と言っていることにならないでしょうか。つまり、主イエスと無関係になっていないでしょうか。
 あるいは、僕(しもべ)のように仕えなさい、と教えられて、教会では謙遜にへりくだっているのに、会社に行ったら威張り散らしているとしたら、互いに愛し合いなさいと教えられたのに、家に帰ったら、夫が妻を顧みなかったり、妻が夫をバカにしていたりしたら、それは主イエスなど“知らん!”、主イエスの教えなど“知らん!”と無関係になっていることにならないでしょうか。日曜日は主イエスの教えを聞いて、聖書の御言葉を聞いて、でも、平日はこの世の価値観で、自分の考え方で生きているとしたら、それは主イエスを知らないと言っている、主イエスとは無関係に生きていることになるのではないかと思うのです。

 主イエスと無関係に生きる「誘惑」、主イエスから離れて生きる「誘惑」は、聖書において更にエスカレートしていきます。12弟子の一人ユダ。彼は、22章の初めのところで、「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた」(3〜4節)と記されています。そしてユダは、夜、人気(ひとけ)のないオリーブ山へ、主イエスを捕らえようとする「祭司長、神殿守衛長、長老たち」(52節)を手引きしてやって来るのです。弟子であったユダが、なぜそのようなことをしたのか、理由は定かには分かりません。けれども、ここでは明らかに、主イエスに背いています。裏切っています。
 そして、祭司長、神殿守衛長、長老たちに至っては、主イエスに敵対しています。受難節レントが始まってから、礼拝で、ルカによる福音書の御言葉と説教によって、彼らと主イエスとの対立を見て来ました。民衆に神の愛を語り、実践する主イエス。そして、神の掟である律法の真髄(しんずい)は、神を愛し、人を愛することにあると単純化して教える主イエス。そのような主イエスの信仰、教え、行動に、祭司長、神殿守衛長、長老たち、またファリサイ派の人々や律法学者たちは苛立ちました。彼らは、主イエスを非難し、神の掟を破り、神を冒瀆(ぼうとく)しているとして、殺意すら抱いて主イエスを除こうとしました。そして、遂にユダの手引きにより機会を得、主イエスに手を下し、捕らえたのです。この後、彼らは主イエスを裁き、十字架に架けて殺します。
 彼らのその様を、主イエスはこう言われました。
「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(53節)。
 人の心の「闇」が主イエスを十字架に追いやります。「闇」とは、祭司長、神殿守衛長、長老たちの姿が示しているように、自分の信仰、自分の考え、自分の行動こそが正しいとする独善であり、相手を認め、受け入れようとする愛が無いことです。独善と愛の欠如という人の心の「闇」が、私たちの大切な何かを破壊します。主イエスを十字架刑に架けて命を奪います。「今はあなたたちの時」、それは、“あなたが主役だ”ということです。けれどもこの場合、決してほめ言葉ではありません。自分の人生から、神さまを押しのけ、主イエスを取り除き、自己中心に振る舞っている。しかも、そのことに気づかず、悔い改めない。それが、「あなたたちの時」です。恐ろしいことです。

 そのような「闇」の中で、主イエスは独り、祈られました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(32節)と、ペトロのため、弟子たちのため、私たちのために祈ってくださいました。そして、オリーブ山で独り、
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)。
 主イエスは目前に迫るご自分の逮捕、一方的な裁判、そして十字架刑を予感しながら、このように祈られたのです。「この杯」とは、そのような苦難を意味しています。その苦難を、なぜ自分が被(かぶ)らなければならないのか、何のために受けなければならないのか、その理由が主イエスにも分らなかったのです。いや、それが父なる神の「御心」、人の罪を贖(あがな)い、人の心の闇に光を届ける神のご計画だとは分かっていても、それを受け止め切れなかったのではないでしょうか。だから、主イエスでさえも、この苦難を取りのけてくださいと願っているのです。それは、苦しみ悩む人々の心を代弁するかのような祈りではないでしょうか。
 3月11日、未曾有の東日本大震災と津波が起こりました。被害の状況は私が言うまでもなく、皆さん、ご存知でしょう。この苦難に遭って、家族を失い、家を失い、仕事を失い、悲しみ、苦しみ、疲れ果てている人々が、一体どれほどおられるでしょうか。ずっと報道番組を見続けていますが、先日、私と同じ年の男性で、津波で妻を失い、長男を失い、今も小学生の次男の遺体が見つからず、最期にいたであろう小学校に探しに行く姿を見た時には、思わず胸が締め付けられ、涙がこぼれました。そんな辛さを抱えている人が、どれだけいるのでしょうか。主イエスを力づけた「天使」のように、私たちも小さな天使となって、祈りと愛を届け、被災された人々をほんの少しでも力づけられればと願います。
 被災された人々の多くが、“なぜこの苦難が起こったのか?”“なぜ自分に起こったのか?”という問いを、納得のできない不条理な苦難に向かって問いかけていることでしょう。ホワイ・クエスチョンと言われる、この不条理な苦難への問いかけは、外へぶつければ怒りとなり、自分自身にぶつければ自分を責める罪責(ざいせき)感になると言います。けれども、その問いかけに納得のいく答えなどないのです。不条理なのです。だから、苦しく、辛いのです。
 そのような苦難に遭った方々の気持を考えずに、今回の震災を、天罰だ、神罰だ、などと言う人がいます。決して言ってはなりません。思いやりのない、愛のない言葉です。
 災害や苦難に、何か宗教的な理由付けをしようとするのは、古今東西を問わず、因果応報的な思想があるからです。しかし、そこに宗教的な理由や原因を付けようとする考え方は安易です。原因理由を付けても、苦難に遭っている人々は救われません。
 ヨハネによる福音書9章で、生まれながらに目が見えないという苦難に遭っている人を前にして、弟子たちが、その原因理由は、本人か、それとも両親が罪を犯したための罰ですか?と尋ねた時、主イエスは、理由付けをしませんでした。
 ただ、主イエスはこう言われました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである」(ヨハネ9章3節)。
 罪を犯したのが本人でも両親でもないなら、原因は何なのか? 分からないのです。何もないのです。不条理です。けれども、主イエスは「神の業がこの人に現われるため」だと言いました。
 今は何も分からない。ただ、悲しく、苦しい。出口のない、絶望的なトンネルの中にいるようなものかも知れません。けれども、それが全く無意味で、無駄なことではなく、いつか、“ここにつながっていた。このためだったのだ”と思える日が来るかも知れません。そのような慰めの日が来るようにと、私たちは祈るのみです。
 主イエスもまた、絶望的な苦難を味わいました。十字架に架けられ、処刑されました。けれども、父なる神は主イエスを復活させたと聖書は語ります。苦難と絶望の先に、御心によって、愛によって、希望の光を照らしてくださったのです。
 信仰による希望、勇気がここにあります。私たちは、信仰があるからこそ、互いに愛し助け合い、明日を信じて生きていけるのです。




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