2011年5月8日   
  聖  書  ルカによる福音書24章13〜35節 
  説教者  山岡 創

「御言葉によって心が燃える」

 N市のK学園高校に入学した長男が、ゴールデン・ウィークの間、帰って来ていました。日曜日の夕方に高速バスで帰って来て、5日(木)のお昼前に戻って行きましたので、ごく1部の方にしか会うことはできませんでしたが、K学園での生活は楽しそうで、しかもとても大きな影響、良い出会いがあるようです。
 色んなことを話してくれましたが、ある日、寮のホールに3年生の先輩たちが集まって、何やら真剣に話し合っていた、と言います。何を話し合っているのだろうと思っていたら、後で、同じ部屋の3年生がこんなことを話してくれたそうです。
 寮で生活している3年生の一人がある事件を起こした。そのことを巡って、皆で話し合っていた。寮には色んな奴がいる。変な奴もいるし、自分と合わない奴もいる。でも、そういう相手を避けて逃げるのではなく、向かい合って、受け入れていかなければならない。もしだれかが、悪の道に進みそうになったら、殴ってでも止めなければならない。寮っていうのは、皆一つの“家族”なんだから。自分たち3年も、まだまだ完全じゃないけれど、でも、そういう関係を目指して努力している‥‥‥。
 大体こんな話だったと思いますが、消灯した部屋のベッドの上で、先輩からこの話を聞かされた時、思わず涙が出たそうです。“おれ、こんなに感動したの、生まれて初めてかも”と言っていました。それは、まさに心を燃やされる生きた言葉、生きた体験だったのでしょう。
 感動は人の心を燃やします。何かとても大切なものと出会わせます。それが、その人の人生の柱、土台となることも少なくありません。そして、その人の生き方を変えて行きます。

 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。
 今日読んだ聖書箇所にも、心を燃やされる感動を味わった二人の人が出て来ます。主イエスの二人の弟子です。そのうちの一人はクレオパと言いました。二人とも、私たちがよく知っている12弟子ではなかったようです。
 二人は、エルサレムから11キロほど離れたエマオという村へ向かっていました。そして、歩きながら「この一切の出来事」(14節)について話し合っていたと言います。その出来事とは、19節以下でクレオパが語っているように、イスラエルを解放してくださる預言者として望みをかけていたナザレのイエスが、祭司長や議員たちが十字架に架けて殺してしまったことでした。また、その主イエスの遺体が三日目にして墓から消えうせた、ということでした。「暗い顔をして」(17節)いたというのですから、二人は主イエスの死に絶望していたでしょう。そして、主イエスの遺体がなく、空(から)の墓を見た婦人たちが「イエスは生きておられる」(23節)との天使の言葉を告げたことに驚かされてもいました。二人は絶望と驚きの入り混じった気持で、「一切の出来事」を話し合い論じ合っていました。けれども、主イエスの言葉を聞くまでは、暗いネガティブな議論にしかならなかったことでしょう。主イエスの運動も、自分たち弟子団ももう終わりだ、とか、墓が空だったのはだれかが主イエスの遺体を運び出したからではないか、とか、そんな話にしかならなかったと思われます。
 その二人のところに主イエスが現れ、一緒に歩いてくださいました。しかし、二人の目が遮(さえぎ)られていて、心の目がネガティブな考えと気持に遮られていて、それが主イエスだとは分かりませんでした。
 だれかは分からない道連れの旅人に問われて、二人は「一切の出来事」を話し始めました。自分たちの絶望と驚きを語りました。
 二人の話の方が主イエスの話より詳しくて、長い。そのことを私は不思議に思います。どうして作者は、主イエスの言葉の方を、詳しく長く記さなかったのだろうか?
そこでこんなことを考えました。主イエスも話の途中で遮(さえぎ)ろうとしたかも知れない。自分の言葉を語り始めようとしたかも知れない。けれども、最後まで辛抱して二人の話を聞いてくださったということではないだろうか。自分たちの話と気持をすべて、最後まで聞いてもらえたからこそ、その後で語られる主イエスの言葉を、二人は素直に聞くことができたのかも知れない。そんなことを考えました。

 二人の言葉と気持を受け止めて、主イエスが語り始めます。「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(27節)のです。メシア(救い主)であるご自分が苦しみを受けて、栄光に入ることをお話になったのです。
主イエスが死んだ。そして墓は空だった。その出来事は、二人は、その当座の、自分の視点で見ているだけでした。けれども、主イエスは、聖書全体から、つまり神の救いの歴史、神の救いのご計画という視点から見て、語ってくださいました。主イエスの死と空の墓という出来事を、苦しみの後の栄光、復活という慰めと希望として語ってくださったのです。その時、二人の心は燃えました。感動しました。絶望と驚きとしか見えていなかった出来事の中に、慰めと希望の光を見出したからです。
 「モーセとすべての預言者から始めて」とありますが、それは旧約聖書の中の律法と預言書とを表しています。律法と呼ばれる書物の最初に何があるかと言えば、それは創世記です。創世記の初めには天地創造物語が描かれています。きっと主イエスは、この神の天地創造から語り始められたに違いありません。
 先日の聖書と祈りの会で、『信徒の友』4月号の〈祝福された旅路を目指して〉というシリーズの第1回目を読みました。創世記1〜11章の説教です。その1回目で創世記1章1〜3節の御言葉が語られました。
「初めに、神は天地を創造された。地は渾沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』。こうして光があった」。
 私は、この御言葉の恵みと改めて、新たに出会わせていただき、プチ感動を味わいました。神さまが、天地創造の初日に、「光あれ」と言われてお造りになった光とは、太陽だとお考えになるかも知れません。けれども、太陽は4日目に造られているのです。では、この光は一体何か。闇の中に輝く“希望の光”なのです。
 この時、イスラエルの人々は、バビロニアという大国に国を滅ぼされ、すべてを奪われ、捕虜として連れて行かれ、バビロニアの地で奴隷のような生活を強いられていました。まさに、混沌(こんとん)と闇のような現実、人生でした。そのような絶望と悲しみ、苦しみの中で必要だったのは、神の言葉が、神の救いのご計画が働いているという希望でした。だからこそ、神は最初に、闇の中に輝く希望の光を造ってくださったのです。この世の現実は、自分の人生は、混沌と闇のようであっても、神の霊が動いている。混沌と闇を造り変えるべく、神の霊が着実に働いているのです。
 この御言葉を信じて受け止めたら、私たちも、渾沌と闇の中でも、きっと生きていける。混沌と闇の中に絶望ではなく、希望と慰めを見出して、勇気を持って生きていける。被災の苦しみの中でも諦めずに、病気の不安の中でも、家庭の痛みの中でも、仕事の悩みの中でも、生きていけると信じます。クレオパたち二人の弟子も、主イエスがお語りになる壮大な聖書の御言葉によって、慰めと希望を見いだし、心が燃やされたのだと思います。

 二人は更に主イエスに求めました。もっと御言葉を聞きたいと思ったのです。その二人に、主イエスはパンを裂いて、お与えくださいました。これは、聖餐の象徴だと言ってよいでしょう。聖餐は“口で味わう御言葉”とも言われます。
 何を味わうのでしょう? 主イエスの命と愛です。主イエスが弟子たちを愛してくださった。現代の弟子である私たちをも愛してくださった。命を懸けて、混沌と闇の中から救い出してくださった。そのために主イエスは十字架の上でご自分の命を犠牲にし、死んでくださった。その命と愛が聖餐には込められています。
 混沌と闇の現実、自分の人生の中で、御言葉によって自分を救う慰めと希望に出会う。聖餐によって自分を救う命と愛に出会う。自分の生き方を変える感動に、新しい視点に、新しい価値に出会う。それが、復活した主イエスに出会うということでしょう。目には見えないけれど、主イエスに出会うということでしょう。
 混沌と闇の中で、気がつけば、主イエスはきっと、私たちの隣を歩いてくださっています。十字架を背負って、私たちの人生を共に歩いてくださっています。苦しみ、悲しみ、倒れてしまうような私たちを支えて、背負って、歩いてくださっています。




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