2011年6月5日   
  聖  書  使徒言行録1章12〜26節 
  説教者  山岡 創

「祈りという備え」

 “人事を尽くして、天命を待つ”という言葉があります。自分にできる限りの努力をしたら、その結果や、その後のことは、神さまにお任せする、という意味です。
 インターネットで、この言葉を調べていましたら、おもしろい文章を見つけました。そこには、次のようなことが載っていました。
物事を成し遂げるには、人事と天事が必要です。
人事とは、人が行う努力です。
天事とは、天が行う現実化です。
人間の努力には限界があります。
人間ですので、どうしても限界があります。
でも、一生懸命、全力を尽くす必要があります。
精一杯、努力をしたなら、やれることは全てやり尽くしたなら、あとは、天に任せるしかありません。
現象を実際に動かしていくのは、天であり、大自然だからです。
やれるだけの努力、人事を尽くせば、あとは、天の実現力、天命を待つしかありません。
天がノーと言えば、物事はなりません。
天がイエスと言えば、物事が成就(じょうじゅ)します。
人間にできることには、限界があるのです。
人事を尽くしたなら、あとは全てを天に捧げ、天命に任せてしまいましょう。
 “うーん、なるほど、確かに”と思いました。私たち自身の知恵と力には限界があります。そのことを謙虚にわきまえて、自分にできることをしたら、後は祈って神さまにおゆだねする。そこに心の平安が生まれて来ます。たとえ結果が自分の望んだようにならなくとも、(もちろん悔しさや残念さが全くないわけではないでしょうが)、神さまが御心を実現してくださったと納得できるようになります。だから、“人事を尽くして、天命を待つ”とは、まさにクリスチャンが信仰をもって生きる生き方だと言うことができます。

 さて、使徒言行録1章の前半には、主イエスが復活され、弟子たちに現れ、教え諭(さと)された後、天に昇られたことが記されています。主イエスが天に昇られた後、弟子たちがしたことは、まさに“人事を尽くして、天命を待つ”歩みであったと言ってよいでしょう。主イエスが約束してくださった聖霊が降(くだ)り、神の力が与えられる時が来る。ペンテコステの日が来る。その時まで、弟子たちは人事を尽くしたのです。
 では、弟子たちがつくした人事とは何だったのでしょうか。それは、祈りと御言葉に聞き従うことでした。
 主イエスが天に昇られた後、「使徒たち」(12節)はエルサレムの泊まっている家に戻って来ました。ちなみに「使徒」とは、“神に遣(つか)わされた者”という意味で、キリストに遣わされ、キリストによる救いを伝える者ということです。今まで、彼らは“弟子”でした。けれども、キリストに遣わされ、聖霊を受け、救いを宣(の)べ伝えるようになってからは「使徒」と呼ばれるようになります。
 使徒たちは、戻って来ると、主イエスに従って来た婦人たちや主イエスの家族と熱心に祈り始めました。それは、1章8節で主イエスが約束してくださった聖霊を、神の力、神ご自身のお働きを求める祈りだったと思われます。
 祈るということは、先ほどの“人事を尽くして、天命を待つ”の話の中にあったように、人間の力には限界がある、自分の努力には限界があることを認める謙虚さが、形となって現われたものだと言ってよいでしょう。自分の知恵と力には限界があることを知っているからこそ、私たちは、神さまに祈るのです。神さまにゆだねるのです。その祈りをせずに、自分の力ですべてを何とかしようとしてあくせくすることは徒労に終わるでしょうし、ある意味で、傲慢(ごうまん)ですらあります。
 次週のペンテコステ礼拝での洗礼式に備えて、お二人の方と受洗準備会を行い、備えて来ました。その中で、次のことをお話ししました。
  よく、正しく、立派に生きているのでなければ、洗礼を受ける資格がないとか、クリスチャンである値打ちがないとか、神さまから認められないとか、考えている人がいます。けれども、それは大きな誤解です。確かに、正しく、立派に生きられればそれに越したことはないかも知れません。けれども、自分の力でそのように生きることができるなら、私たちは主イエス・キリスト(神)を必要としないのではないでしょうか。主イエスも次のように言っておられます。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2章17節)
 自分の力で正しく、立派に生きられると思っているときは、実は神さまを必要とはしていないのです。私たちが、本当に神の救いを必要とするのは、自分の醜(みにく)さ、弱さを知ったとき、自分の力に行き詰まったとき、挫折したとき、自分の存在価値を見失ったとき、自己嫌悪を感じるとき、つまり自分の力では、自信をもって、正しく、立派に生きられなくなり、生きることに不安を感じた時なのです。
 自分の限界に気づいた時初めて、人は本当に神を必要とし、求め始めるのです。謙虚に祈り始めるのです。使徒たちも、自分たちの限界を知り、弱さを知ったからこそ、熱心に祈り始めたのです。

 祈りに加え、使徒たちがもう一つしたことは、御言葉に聞き従うことでした。
 ところで、使徒たちの目的とは何だったのでしょう。それは、主イエスが示しておられます。1章8節で主イエスはこう言われました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
主イエスの証人となること、それが弟子たちの目的でした。つまり、主イエスが神の国の恵みを教え、十字架に架かり、復活されたことを目撃し、その救いの恵みを味わった者として、その恵みを宣べ伝えることが弟子たちの目的でした。そしてそれは、私たちの教会の目的でもあるのです。
 2年前に教会研修会の講演で、N牧師が〈教会の体質改善〉と題してお話しくださった時、最初に次の御言葉が示されました。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授(さず)け、あなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章19〜20節)
 ここに教会の目的があります。主イエス・キリストの恵みを伝え、その恵みを信じて救われる者を生み出しなさい、ということです。そのために私たちは礼拝を共に守ります。礼拝に集まった皆さんに救いの恵みが伝えられるためです。そのために伝道します。この教会から、救いの恵みをこの世に伝えるためです。奉仕も教育も、救いの恵みを伝えるためになされます。N先生は、そのような教会の目的をはっきりとお話ししてくださいました。
 使徒たちの目的もただ一つ、主の証人となって、救いの恵みを宣べ伝えることでした。その目的のために尽くせる人事は何か。弟子たちはその時、主イエスの12弟子の中からイスカリオテのユダが欠けたために、その任務に空きがあることに気づきました。主イエスが最も信任していた12弟子、それが、これからは12使徒となって救いの恵みを宣べ伝えていこうとしている時に、その務めが一人欠けているのでは、伝道の任務を十分に果たすことができないと考えたのです。それで、彼らは最終的に神の選びを問うためにくじを引き、マティアという人が12使徒に加わることになるのですが、大切なことは、彼らが、このことを、聖書の御言葉に聞き従うことで、示されているということです。
 ペトロが、ユダの任務をだれかに継(つ)がせることを提案する際に、聖書の御言葉を2ヶ所示しています。当時、聖書といえば、まだ新約聖書はありませんから旧約聖書のことですが、引用されている20節の御言葉のうち、前者は詩編69編26節であり、後者は同じく詩編109編8節です。
 この二つの御言葉は、聖書学的に言えば実は、イスカリオテのユダのことを予言しているのではありませんし、12使徒の任務について語っているのでもありません。これらの詩編の作者の置かれていた状況や抱えていた問題が独自にあります。
 けれども、ペトロはこれらの御言葉を、自分自身の状況、自分たちの問題という文脈の中で読んで、神の御心が何であるかを受け取っているのです。つまり、キリストの証人として救いを宣べ伝えるという目的がありながら、12使徒が一人欠けている。そういう状況、問題の中で、神さまはイスカリオテのユダに代わって、その任務をだれかに引き継がせるように、御言葉を通して命じておられると、ペトロは受け取ったのです。
 聖書を読み、御言葉に聴くとは、そういうことです。学問的に正しく読むことが大切なのではありません。それ以上に大切なことは、自分自身が置かれた状況、抱えている問題、悩み、悲しみ・・・その中で、神さまは自分に何を語りかけ、何を求めておられるか、御言葉から自分なりに受け取ることです。それによって自分がどう考えるべきか、何をするべきかが示され、見えて来ます。

 祈ること、御言葉に聞き従うこと、私たちも、この二つの人事を尽くしながら、神さまの大きな力と愛の御手にゆだねて歩みましょう。



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