2011年6月12日 聖霊降臨祭ペンテコステ礼拝説教   
  聖  書  使徒言行録2章1〜13節 
  説教者  山岡 創

「人を生かす力」

 本日は、教会においてイースター、クリスマスと並んで教会の3大祝祭日と言われるペンテコステを迎えました。ペンテコステとは、今日の聖書の1節で「五旬祭(ごじゅんさい)」と訳されている原語のギリシア語が“ペンテコステ”という言葉で、そこから来ています。ユダヤ教最大の祭りである過越祭から数えて50日目の祭りということなのですが、元々は小麦の収穫祭だったようです。
 このペンテコステを、日本の教会においては“聖霊降臨(こうりん)祭”と呼びます。今日の聖書の箇所に記されているように、この日、使徒たちに、復活して天に昇られた主イエス・キリストが約束された聖霊が天から降(くだ)ったからです。聖霊は一人一人にとどまり、この聖霊の内なる力によって使徒たちは「神の偉大な業」(11節)を、神の救いの恵みを宣(の)べ伝え始めます。この宣教によって、悔い改め、キリストによる救いを信じて洗礼を受けた人々が、この日3千人もあったことが、2章40節に記されています。つまり、そこに、主イエスを信じて洗礼を受けた者の集まり、世界初の教会が生まれたのです。だから、ペンテコステは“教会の誕生日”と考えることもできます。
 今日、この説教の後で、H.UさんとT.Aさんのお二人が洗礼をお受けになります。3千と二人では、数的には比べものになりません。けれども、私は、世界で初めて、聖霊による洗礼を受けて最初のクリスチャンが生まれ、教会が生まれた記念日に、2千年後の私たちの教会にも、信じて洗礼を受ける者が与えられることを、本当にうれしく思います。この教会も今年度で20年目を迎えましたが、実はペンテコステに受洗者が与えられるのは初めてのことです。でも、これがペンテコステの本来の姿だなあ、と思います。聖霊が降るとき、そこに主イエス・キリストの救いが宣べ伝えられ、「イエスは主である」(Tコリント12章3節)との信仰告白が生れ、救いのしるしの洗礼をける者が起こされるのです。

 キリストの救いを宣教させ、信じる者を起こし、教会を生み出す聖霊。私たちの信仰告白においては、聖霊は、父なる神、子なるイエス・キリストと並ぶ、三位一体の神として告白されます。神の霊、霊的なキリスト、霊である神です。
 と、抽象的な言葉や理屈で言われても、分かりにくいでしょう。今日の聖書の箇所では、聖霊は、激しい風として、炎として記されています。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(1〜3節)
 著者は聖霊を見たのでしょうか? そうかも知れません。けれども、私は、それは聖霊の働きを表すための表現ではないかと思うのです。風と炎、それは弟子たちが、自分たちの胸に風が吹き抜けるかのような爽やかさ、言わば“神の愛”の爽やかさを感じ、それによって炎に燃やされたかのように、彼らの心が熱くなってきた。神さまの愛に感動し、賛美し、伝道しようとする情熱に燃えてきた、ということではないでしょうか。
 心に神の愛の爽やかさを感じ、宣教に心が燃えてくる。神さまの救いの恵みに心から感謝できる。教会を形作ることに協力しようと思い、誰かに神さまの救いの恵みを伝えたくなる。それが、目には見えないけれど、私たちの内に聖霊が働いているということ、すなわち聖霊体験なのです。神の恵みの爽やかさと心燃やされる思いを1度でも味わったことのある人は、“ああ、あれだ”と思う経験がおありでしょう。

 ところで、昨日の朝日新聞に、大阪大学の総長であり、哲学者でもある鷲田清一さんという方の〈あれから3カ月〉と題する寄稿(きこう)が掲載されていました。その中に、とても感じた文章があったので、一部を紹介します。
 被災地ではいま、多くの人が〈語りなおし〉を迫られている。自分という存在、自分たちという存在の語り直しである。‥‥‥(略)
  自分はだれの子か? 自分は男女いずれの性に属しているか? 自分は何をするためにここにいるのか? こういう問いが、人それぞれのアイデンティティー(自分がだれであるかの根拠となるもの)の核にある。これらの一つでも答えが不明になったとき、わたしたちの存在は大きく揺らいでしまう。
  子に先立たれた人、回復不能な重い病に侵された人、事業に失敗した人、職を失った人‥‥。かれらがそうした理不尽(りふじん)な事実、納得しがたい事実をまぎれもないこととして受け容れるためには、自分をこれまで編んできた物語を別なかたちで語りなおさなければならない。人生においては、そういう語りなおしが幾度も強いられる。そこでは過去の記憶ですら、語りなおされざるを得ない。その意味で、これまでのわたしから別のわたしへの移行は、文字どおり命懸けである。このたびの震災で、親や子をなくし、家や職を失った人びとは、こうした語りのゼロ点に、否応(いやおう)もなく差し戻された。
  こうした語りなおしのプロセスは、もちろん人それぞれに異なっている。そしてその物語は、その人みずからが語りきらなければならない。戦後60数年経っても、戦争で受けた傷、大切なだれかに死なれた事実をまだ受け入れられていない人がいるように、語りなおしのプロセスは、とてつもなく長いものになるかも知れない。‥‥(略)
  語りなおすというのは、自分の苦しみへの関係を変えようとすることだ。だから当事者みずからが語りきらねばならない。が、これはひどく苦しい過程なので、できれば良き聞き役が要る。マラソンの伴走者のような。‥‥‥
 長い引用になりましたが、鷲田清一さんはここで、自分という存在、自分の人生を語りなおす、ということを書いておられます。
 私は、この方の文章を読みながら、神を信じる、キリストを信じるということは、自分を語りなおす、ということの一つだと思いました。自分は何者なのか、という問いを、聖書の教えに立って、信仰の視点から語りなおす、ということです。
 今日までに、Hさん、Tさんと3回の受洗準備会を行いました。洗礼を受けるとはどういうことか? 神を信じて生きる新しい人生のスタートである。そして、それは言い換えれば、神に愛されている神の子として、神のものとして、キリストの体の一部として、新たに自分自身を語りなおして生きることだと言うことができます。これからの人生の歩みの中で、苦しみや悲しみ、様々な出来事に襲われるとき、そのたびに、神さまの愛の手のひらの上で、キリストに愛されているという恵みの中で、繰り返し自分を語りなおしながら、自分が何者であるかを確認しながら生きていくということです。
 そのような人生の語りなおしの確かな視点、土台が与えられているということ自体が、私たちにとって大きな恵みであり、救いであると言っても良いでしょう。そして、信仰の良いところは、語りなおすための視点、土台が、目に見える現実によって左右されることのない神の恵みだという点です。現実がどうであれ、私たち一人ひとりが、神の愛する子であり、神のものであることに変わりはないのです。そして、長く苦しい道程になるかも知れない語りなおしを、せかさず、忍耐強く、寄り添って聴いてくださる心の同伴者、人生の同伴者である主イエス・キリストがおられるということです。
 そのように考えると、信仰って、本当にすごいね、救いだね、これぞ岩の上に家を建てるということだね、と妻と二人で語り合っておりました。昨日、私と妻は、聖霊によって心を燃やされていたのかも知れません。
 このように考えると、キリストによる救いを伝えたい、伝えなければもったいない、という気持になります。自分が信じているものに自信が持てます。
 もちろん、人に押し付けてはならないし、苦しみ悲しんでいる人に上から物を言うような態度で語ることなどできません。苦しみ悩んでいる人が自分の隣にいたら、偉そうに語ることなどできない。“さあ、聞かせてください”と催促することもできない。鷲田清一さんも書いておられるように、その人に寄り添うことしかできないのです。
 けれども、私たちが傷ついた隣人に寄り添う中で、その人の人生の語りなおしを援助するために、“教会へ行ってみない”“聖書を読んでみない”と勧めることのできる機会が訪れるかも知れません。そのとき、私たちは、聖霊に助けられ、勇気づけられて、聖書には、教会には、人生を語りなおすことのできる救いが確かにあることを、自信を持って、喜びをもって語りたい、伝えたいと願います。



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