2011年6月19日   
  聖  書  ルカによる福音書3章1〜20節 
  説教者  山岡 創

「道をまっすぐにする」

 今日から、礼拝においてルカによる福音書を通して、神の言葉を聞くことにします。坂戸いずみ教会では、クリスマス前のアドヴェントやイースター前のレント等の、教会の暦の上で特別な期間や記念日は、それにちなんだ聖書箇所を選んで説教をしますが、それ以外の日曜礼拝では、聖書の中の一つの書物を続けて説き明かすようにしています。今まで続けて来た〈日本基督教団信仰告白〉について聖書の御(み)言葉から聴くシリーズが終わりましたので、今日からルカによる福音書の御言葉に聴きます。
 と言っても、ルカによる福音書1〜2章は、主イエス・キリストの誕生、クリスマスにまつわる物語です。そこから始めるのは、ちょっと時季外れですので、それは今度のアドヴェント、クリスマスに取っておいて、中途半端な感はありますが、3章からルカの御言葉を聴くことにしました。どうぞご容赦ください。

 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。
曲った道はまっすぐになり、でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(4〜6節)
 この御言葉は、礼拝の始めに招きの詞(ことば)として朗読したイザヤ書40章3〜5節が、ルカによって引用されたものです。2節に書かれているように、荒れ野でヨハネに降(くだ)った「神の言葉」というのは、このイザヤ書の御言葉だと考えて良いでしょう。この神の言葉に促(うなが)されて、ヨハネは「悔い改めの洗礼」(3節)を宣(の)べ伝え始めました。
 ヨハネは「荒れ野」(2節)にいました。彼は、荒れ野で宗教的な共同生活を営むユダヤ教のエッセネ派と呼ばれる宗派に属していた、という説もあります。ともかく、ヨハネは荒れ野で、神の言葉を受け取りました。
 私はこんな想像をするのですが、荒れ野にはもちろん道があったでしょう。しかし、荒れ野です。谷があり、丘がありました。そこを縫って走る道はまっすぐではありません。曲がりくねっていたでしょう。荒れ野なので、でこぼこしていたでしょう。決して歩きやすい道ではなかったでしょう。
 そういう道を毎日見ながら、歩きながら、ヨハネはあの聖書の御言葉にハッとしたのではないでしょうか。「主の道」はどうか?主なる神と自分たちをつなぐ道はどうか?目には見えないけれど、主なる神が自分たちに救いをもたらしてくださる道がある。“信仰”という名の道がある。その道は整えられて、まっすぐだろうか?そうではないのではないか?荒れ野の道のように、起伏があり、曲がりくねり、でこぼこで、主なる神が通りにくい道になってしまっていないだろうか?
 ヨハネは、当時のユダヤ人の現実に、信仰とその生活ぶりに、「主の道」が整えられ、まっすぐになっていないという印象を強く感じたのではないでしょうか。そして、もちろん自分自身にも‥‥。道が整えられ、まっすぐになっていない。その状態を一言で言い表すならば、それは“罪”ということです。そして、道を曲げ、罪のままでいると、「神の怒り」(7節)を受けることになる。ヨハネはそう考えました。そこで彼は、「主の道」を整え、まっすぐにするために、「ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(3節)のです。

 「悔い改めの洗礼」とは何でしょうか。洗礼とは、神さまと救いの契約を結び、誓いを立てる宗教的な儀式ですが、ヨハネの洗礼は、私たちが教会で授(さず)け、受(う)ける洗礼とは違うのでしょうか。確かに、ちょっと違います。16節でヨハネが、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、‥‥‥その方(イエス・キリスト)は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と語っています。教会で行われる洗礼は、後者の聖霊と火によって行われる洗礼です。ヨハネの洗礼ではなく、主イエス・キリストの名によって行われる、聖霊と火による洗礼です。とは言え、洗礼式の際に火を使うわけではありません。私たちも形式としては水を使います。でも、中味が違います。私たちは、自分が悔い改めたしるしとして洗礼を受けるのではなく、神さまに罪を赦され、救われたしるしとして洗礼を受けるからです。
 そのように、ヨハネの洗礼と主イエス・キリストの名による教会の洗礼とは違います。けれども、まるっきり違う、関係がないかと言えば、そうではありません。ヨハネの洗礼は言わば“入口”のようなものです。悔い改めるということは、主の道を整え、まっすぐにすることの第一歩です。
 先週のペンテコステ礼拝で、HさんとTさんが洗礼をお受けになりました。お二人とは洗礼準備会において、洗礼とはどういうことかを一緒に学びました。洗礼とは、心の罪を神の恵みによって洗い流していただいたしるしである。では、罪とは何か。“的外れ”な生き方のことである。神の御心という的を射抜(いぬ)いていない生き方である。だから、神の御心から外れた生き方から、神の御心に従って生きる生き方に方向転換をして、新しい生き方の人生をスタートすることが洗礼式だというお話をしました。そして、この生き方の方向転換のことを、聖書では“悔い改め”と言うのです。
 では、神の御心という的から外れた生き方、今日の聖書の言葉でいえば、道がまっすぐになっておらず、曲がりくねった、でこぼこの道を歩く生き方とは、どういう生き方でしょうか。
 例えば、ヨハネは、洗礼を受けにきたユダヤ人の群衆に、「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」(8節)と注意しました。ユダヤ人の民族のルーツは、アブラハムでした。旧約聖書・創世記12章以下に登場します。主なる神に選ばれて、すべての人の祝福の根源となった人物です。自分たちは、そのアブラハムの子孫だとユダヤ人は自負していました。その自負心は、ともすればアブラハムの子孫だというだけで、自分たちは主なる神に選ばれ、祝福され、救われているのだという思い上がりを生み出しました。人を見下(くだ)す間違ったエリート意識です。そのような思い上がりは、神の御心に喜ばれるものではない、主の道を曲がりくねらせ、でこぼこさせているのです。
 あるいはまた、11節以下のヨハネの勧めの言葉に示されているように、下着を2枚持っているのに、持たない者に分けてやらないような、食べ物を持っているのに、ない者に分けてやらないような生き方は、自己中心で、人に対する思いやりや愛のない生き方として、神の御(み)心から外れた、主の道を曲げ、でこぼこさせる生き方なのです。
 徴税人(ちょうぜいにん)が、その職権を利用して、規定以上の税金を取り立て、その余った上前を自分のものにするようなずるい生き方も、兵士がその権力を利用して、民衆から金をゆすり取ったり、だまし取ったりするような横暴な生き方も、神の御心から外れ、主の道を曲げ、でこぼこさせる生き方なのです。
 そのような自己中心な生き方を改め、神に対しては謙遜に、人に対しては愛と思いやりを持って、ずるさと横暴さを捨てて生きる。そのように、「悔い改めにふさわしい実を」(8節)結んで生きよ、というのがヨハネの教えです。さもないと、「神の怒り」が降り、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(9節)と言うのです。

 ヨハネの洗礼は入口のようなもので、主イエス・キリストの名による教会の洗礼とはまるっきり違うわけではないけれど、ちょっと違うと言いました。そして、その違いはヨハネの教えと主イエスの教えにも現れています。
 ヨハネは、「神の怒り」をかなり念頭において教えているように思います。「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」という“神の裁き”です。
 けれども、私は今日の聖書箇所を黙想しながら、同じルカによる福音書13章6節以下にある、主イエスがなさった〈実らないいちじくの木のたとえ〉を思い起こしていました。ある人の植えたいちじくの木が3年経っても実を結ばない。その人は世話をしている園庭に、切り倒してしまえと命じます。ここまでは、ヨハネの教えと似ています。けれども、園庭は、「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません」と答えるのです。この御言葉から伺(うかが)われるのは、神の怒り、裁きではなく、むしろ神の忍耐、神さまは私たちが実を結ぶまで忍耐して待っていてくださる、しかもご自分で肥やしまで施(ほどこ)してくださるという恵み、神の忍耐と恵みです。
 そこでもう一つ思い起こすのが、やはりルカによる福音書15章11節以下にある、主イエスがなさった〈放蕩(ほうとう)息子のたとえ〉です。父親が生きている間に、その財産を生前贈与させた息子が、その財産をすべて金に換え、遠い地方に行き、自分勝手にやりたい放題の生活をします。まさに、神の御心から外れた、道を曲げた、でこぼこな生き方です。しかし、遂に金がなくなり、友を失い、飢饉(ききん)が起こって生きることに窮(きゅう)したとき、彼は苦しみ悩んだ末に、彼は、父親に謝り、息子ではなく雇人にしてもらうつもりで遠くの地方から家へと帰って行くのです。その息子の帰りを、父親は毎日、門の前に立って待っていました。そして、何も咎(とが)めず大喜びで息子を迎え入れるのです。
 このたとえ話もそうですが、私は今日の御言葉、3章4〜6節を読んだとき、ビートルズ、1960年代に世界を熱狂の渦に巻き込んだロック・グループ、ビートルズの名曲〈ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード〉を連想していました(訳せば“長く、曲がりくねった道”)。

 長く曲がりくねった道は、あなたが待つ門にボクを導く。
 決して消えることがない 前も見たことのあるこの道を 行けば必ず ここに辿(たど)りつく 。あなたが待つ門に導かれる。
 荒れた風の強い夜 雨が洗い流したあの夜は 涙の水溜りを残して去って行った。
 昼を求めて泣きながら―。なぜボクをここに佇(たたず)ませて去ったのか。
 教えてほしい。どっちに行けばいいのだろう?
 何度も何度も独りぼっちになって 何度も何度も泣いたことがある。
 そう言っても わかってもらえないだろう
 いろいろやってはみたってことを。
 でもやっぱり 長く曲がりくねったこの道に引き戻される。あなたはボクをここに佇ませたま ま とっくの昔に去って行った。
 もうここで待ちぼうけなんてたくさんだ。
 あなたが待つ門へ行きたいんだ。
   (インターネット上の私訳参照。一部編訳)
 あの放蕩息子は、長く、曲がりくねった、でこぼこの道を歩いて、待っている父親のもとに帰り着き、迎え入れられたのだと思います。
 私たちも、自分の置かれた人生の場所で、こういう道を、長く、曲がりくねった、困難な道を、多かれ少なかれ歩いていることでしょう。疲れ果てて、うずくまったり、あきらめたり、投げ出したくなることもあるでしょう。しかし、そこにはもう一歩の道がある。主なる神、父なる神が待っていてくださる門に通じる道、目には見えないけれど、救いに通じる、主イエス・キリストと共に歩く道があります。その道を信じて、神に向かって、勇気と希望を持って歩くのが私たちの信仰なのです。




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