2011年7月3日    
  聖  書  ルカによる福音書3章23〜38節 
  説教者  山岡 創

「神に至る」

 今日読んだ聖書箇所は〈イエスの系図〉が記(しる)されています。
 新訳聖書には、イエスの系図が二つ載(の)っています。これと、もう一つはマタイによる福音(ふくいん)書1章の初めです。ルカとマタイの系図の最も大きな違いは、系図の順が反対だということです。マタイでは、イスラエルのルーツであるアブラハムに始まり、イエスに至るのに対して、ルカでは、イエスから始まって、遡(さかのぼ)ってアブラハムに到り、更に最初に造られた人アダムに到り、最後に「神に至る」(38節)という系図になっています。
 〈イエスの系図〉、ここから私たちは、神の語りかけとして何を聴き取ることができるでしょうか。この聖書箇所を選ぶとき、正直な話、飛ばして次の箇所(かしょ)を選びたくなりました。この系図から何を聴き取り、何を語ることができるだろうかと思ったからです。
 そう言えば、既(すで)に天に召されたキリスト教作家・三浦綾(あや)子氏が、その著書『光あるうちに』の中で、マタイによる福音書の系図に触(ふ)れていました。聖書を読もうと意気込んで、新約聖書を開けてみると、いちばん最初に系図がある。カタカナの名前が羅列(られつ)されている系図に興醒(きょうざ)めし、せっかく聖書を読もうと思ったテンションが下がってしまう。三浦綾子さんは、あまりのつまらなさに、自分の恋人にするなら、どの名前の人が良いかと考えながら読んだ、そうでもしないと読む気になれなかったと書いておられました。皆さんも、新約聖書を読もうと開いて、そんな経験をしたことがあるかも知れません。
 系図というのは、どうも読もうというテンションが下がります。けれども、聖書の御(み)言葉ですから、読み飛ばすというわけにもいきません。ここからどんな神の言葉が聞こえてくるか、ご一緒に心を傾けてみましょう。

 ところで、皆さんの中に家系図をお持ちの方はいらっしゃるでしょうか。そう言っては何ですが、私は、イエスさまの先祖にはあまり興味がないけれど、自分の先祖がだれなのか、どんな人だったか、ちょっと知りたいという思いがあります。
 けれども、我が家には家系図などありません。家系図を持つほどの家柄だとは到底思えません。そして、私は自分の曾祖父(そうそふ)、曾祖母の名前を知りません。祖父、祖母までしか知らない。私の父方(ちちかた)の祖父は、山岡清と言いました。祖母はうまと言いました。私が物心着いたとき、祖母はとっくに亡(な)くなっていました。祖父は長野県の諏訪(すわ)で、結構有力な人だったようで、女工(じょこう)さんのお世話などしていたようです。母方の祖母の名は、桑原徳江、この人は若いころ、努力家で、相当優秀な人だったと母から聞きました。母方の祖父の名は思い出せません。私が生まれる前に、やはり亡くなっていました。
 自分の先祖というのは、その程度までしか知りません。おそらく、ここにいらっしゃるほとんどの方がそうではないでしょうか。
 けれども、聖書の舞台の、ある意味、主人公であるイスラエル人(ユダヤ人)は、自分の系図を、自分の先祖がだれなのかということを非常に大事にしました。苗字(みょうじ)がないせいもあったかも知れませんが、ユダヤ人は必ず“○○の子□□”と名乗りました。例えば、“ヤコブの子ユダ”というように。自分の父親がだれであるかを明確にしたのです。そのように自分の父、自分の先祖を明確に、大事にしたユダヤ人は、(現代のように紙のない時代ですから)図はなくても自分の家系を遡ることができたのです。
 彼らはなぜ、自分の家系を大事にし、記憶に刻(きざ)んだのか。それは、自分の先祖を、そのルーツであるアブラハムまで遡れるようにするためです。
 アブラハムは、旧約聖書の創世記(そうせいき)12章から本格的に登場しますが、神さまに選ばれ、その子孫を大いなる国民にすると祝福(しゅくふく)された人物です。彼の子孫が、神に選ばれた民イスラエルとなりました。だから、ユダヤ人(イスラエル人)にとって、自分は確かに、神に選ばれた祝福の民の一員だ、アブラハムの子孫だと言えるために、自分の先祖をアブラハムまで遡れることが重要だったのです。
 そして、そのようなユダヤ人の信仰の価値観が、〈イエスの系図〉が福音書の中に書き記されることの背景にあります。

 けれども、〈イエスの系図〉には、自分をアブラハムの子孫、神の民に属する者と位置付けるユダヤ人の価値観とは、違う要素が二つあります。
 その一つが23節に示されています。
「イエスはヨセフの子と思われていた」(23節)。
 「思われていた」というのはどういうことでしょう?イエスは本当はヨセフの子ではないのでしょうか?そうです。ルカによる福音書の著者はここで、イエスが単にヨセフの血筋ではない、単にアブラハムの子孫ではない、と言いたいのです。
 主イエスの故郷ナザレでは、人々は当然、イエスをヨセフの子と思っていたでしょう。ルカによる福音書4章には、主イエスが故郷ナザレで、安息日(あんそくび)の集会において、聖書の説(と)き明かしをなさったとき、その言葉に驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」(4章22節)と言いました。律法(りっぽう)学者でも何でもない、無学な大工(だいく)のヨセフの子が、どうして聖書の御言葉をこんなにも大胆に、恵み深く語ることができるのだろうかと、故郷の人々は信じられなかったのです。ともかく故郷ナザレの人々にとって、主イエスはヨセフの子でした。
 けれども、ルカは、そう思われているだけだ、本当はヨセフの子ではない、と言いたいのです。では、主イエスはだれの子なのか。直前の22節にありました。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」。
 ルカは、主イエスを単に、アブラハムの子孫、神の民に属する者として示したいのではなく、神の愛する子だと言いたいのです。ユダヤ人として、人間としてこの世においでくださったけれども、その本当の姿は“神の子”だと言いたいのです。洗礼者(せんれいしゃ)ヨハネの言葉にあったように、聖霊(せいれい)と火で人々に洗礼を授(さず)け、救いへと導く者だと言いたいのです。
 ユダヤ人の価値観とは違うもう一つの要素も、このことと関連しています。それは、系図がアブラハムで終わらない点です。アブラハムを越えて、さらに遡り、神さまが最初に造られた人アダムにまで至ります。さらに、最後にこう記されます。
「そして神に至る」(38節)。
 ユダヤ人の系図はアブラハムまでです。神にまで至る系図など考えたこともないのではないでしょうか。神に至る系図。それは、先ほどからお話ししているように、主イエスが単にアブラハムの子孫だということを言いたいのではなく、神の子だと示したいからです。神の御(み)心を内に宿して人類を救う救い主だと言いたいのです。そうでなければ、私たちがイエスを信じる意味がない。ただ単に“人間”イエスであるならば、その方を信じる意味がないのです。
 けれども、神に至る系図にはもう一つの意味があると私は思います。それは、最初に造られた人アダムに始まって、神に造られた人間はすべて、「わたしの愛する子」だ、神に愛される子だというメッセージが込められているのではないでしょうか。アブラハムで終わる系図であれば、アブラハムの子孫が、神に選ばれ、神に祝福される民族だ、人間だということになります。実際、ユダヤ人、イスラエルの人々はそのように考え、信じているのです。
 けれども、ルカの信仰は違いました。アダムに始まるすべての人が、神に造られたすべての人が、神に愛される子だ、人間だと語っているのです。そして、この恵みを伝えて、すべての人を神の愛によって救うお方こそ、イエスであると語りかけているのです。イエスの教えに耳を傾け、信じる者は、自分を“神に愛される子”と認めることができるのです。

 私たちには、系図はありません。自分の先祖を遡ることはできません。けれども、私たちにはもう一つの系図があります。血筋による系図ではなく、信仰によってつながる系図、聖霊による系図です。
 そうです。主イエスには、血筋として残された子孫はありません。けれども、主イエスの御言葉を聴き、信じる私たちこそ、主イエスの子孫です。信仰による子孫です。
 主イエスのもとに血のつながった母と兄弟たちがやって来たとき、主イエスは、自分の周りにいた人々に、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8章21節)とお教えになりました。
 神の言葉を聞いて行う人たち、主イエスの言葉を聞いて信じる人たち、それが主イエスの母であり、兄弟であり、家族であり、子孫だと言うことができるでしょう。
 私たちにも系図があります。主イエスにつながる系図です。そして、神に至る系図です。神に愛される者たちの、信仰による系図です。
 私たちの人生には様々な出来事が起こります。苦しみや悲しみに襲われます。絶望しそうになります。その時、自分は何者か?神に愛され、生かされてある人間であることを覚えていたいのです。
「あなたはわたしの愛する子」。天から私たちにも語りかけられている、この恵みの御言葉を、改めて心に深く刻みましょう。



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