2011年8月7日  平和聖日礼拝  
  聖  書  マタイによる福音書5章9節 
  説教者  山岡 創

「平和を実現する」

 「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。
 日本基督教団の出版局が、『信徒の友』という、信徒の信仰を養うための雑誌を毎月発行しています。毎号、特集が組まれていて、8月号は〈平和聖日〉というテーマでの特集でした。ちなみに、本日の礼拝は〈平和聖日礼拝〉として守っておりますが、今回の特集で、この平和聖日が1962年に、教団の執行部(常議員会)によって8月第一日曜日と定められたことを改めて知りました。

 ところで、今回の特集の一つに〈平和のあいさつとピースウォーク〉と題して、福島県にある若松栄町教会牧師の片岡謁也先生が、文章を書いておられました。片岡先生は、昨年の夏に行われた埼玉地区中学生KKSキャンプに講師としておいでいただき、その時、私が地区の教育委員長としてキャンプの責任を持っておりまして、初めてお目にかかりました。その後、片岡先生の四男の子と、我が家の長男・大地が新潟市のミッション・スクール敬和学園に今春、入学し、片岡先生は敬和学園の理事も務めておられ、そういった関係から片岡先生とは少しくつながりができました。
 その片岡先生が、若松栄町教会において行っている、「平和を実現する」取り組みを紹介してくださっています。その一つが、〈平和のあいさつ〉です。
  さあ、ご一緒にいつものあいさつを交わしましょう。主イエスが呼びかけてくれた言葉、あなたに平和があるように。     “シャローム!”。
 礼拝の比較的最初の部分で、片岡牧師のこの言葉を合図に、礼拝出席者が座席から立ち上がり、礼拝堂を巡って、“シャローム”とあいさつし、笑顔で握手をするということです。ちなみに、シャロームというのは、ユダヤ人が日常的に使っている挨拶の言葉で、意味は、先の呼びかけにもあったように、“あなたに平和があるように”という意味です。この言葉は、復活した主イエス・キリストが、弟子たちを宣教・伝道へと派遣する際に掛けてくださった言葉でもあります(ヨハネ福音書20章19節〜)。
 このあいさつと握手で、共に礼拝することができる喜びをお互いに確認しながら礼拝を造り上げていく、ということです。特に、東日本大震災の直後の3月13日、出席者がいつもの半数だった礼拝では、その握手が心からの慰めとなり、押し出されていく力強い励ましになった、ということです。
 実は、先日新潟から帰省した長男・大地が、新潟教会でも、この平和のあいさつ、シャロームと握手を、礼拝の中で行っていると話してくれました。今年の夏は休暇を利用して、自動車で大地を新潟に送りながら、ぜひ新潟教会の礼拝に出席できないものかと考えておりました。けれども、毎年出席し、お世話になっている富士見高原教会から、今年度は無牧ということで礼拝説教を依頼され、お引き受けしましたので、新潟教会への出席はなくなりました。平和のあいさつを体験することができず、ちょっと残念です。

 もう一つ、若松栄町教会の活動として紹介されていたのは、〈ピースウォーク〉でした。5年前から掲(かか)げている〈平和を実現する群れとなる〉との教会の宣教基本方針の下に、5月3日の憲法記念日に、会津若松市内で平和行進を行うとのことです。約100名ほどの多様な世代の人々が平和の実現を訴えながら、市内を行進する様は、市の風物詩になっているそうです。
 私は、20数年前に、まだ牧師になる前の神学生だったとき、夏休みの間、伝道実習でお世話になった静岡草深教会で、8月の敗戦記念日近くの日曜日の午後、やはり平和行進が行われていたことを思い出しました。そのとき行進しながら歌った歌を、今でも印象深く覚えています。“我ら、ゆるさず。我ら、ゆるさず”と、戦争につながりそうな日本の政治的動きをいくつか挙げて歌いました。何であったか全部は覚えていませんが、その一つは“憲法改悪、ゆるさず。憲法改悪、ゆるさず”というフレーズでした。
 私は、この行進に参加しながら、正直、ちょっと恥ずかしさを感じていました。日曜日の午後、買い物やレジャーで多くの人々が憩うている静岡市内を、あの歌を歌いながら行進する様は、周りから“何、この人たち?”と奇異(きい)の目で見られるか、無視されるかで、何か場違(ばちが)いな感じがしました。今、思えば申し訳ないことです。
 それから20年、私は変わったのだろうか? そのような平和行進には、以前とは全く違う意識で参加することができるでしょう。では、そのような行進の“先頭”に立てるか?‥‥‥ちょっと、怪しい気がします。私の意識は、そこまで強くない。このような活動を積極的に行う人たちに比べると、私は、自分の意識が弱いと感じます。

 ならば、そのような私にでも、「平和を実現する」ためにできることは何だろうか?
 未曾有の東日本大震災が起こってから、もうすぐ5ヶ月になろうとしています。復興への歩みは、なかなか簡単には進みません。もちろん、あれほどの規模の災害でしたから無理もありませんが、政治を預かっている為(い)政者の人々には、できるだけ迅速な、そして被災者の心の痛みと傷を考えた対応、対策を願ってやみません。
 この夏も、日本中の多くの人々が、復興のためにボランティアに携(たずさ)わっておられます。私も、会報〈流れのほとり〉にも書きましたが、2度ほど、被災地を訪問しました。最初は、宮城県で被災した3つの教会の安否を尋ねに訪れ、祈りを共にしました。2回目は、石巻市内の数か所の避難所や幼稚園で、集めた衣類の無料配布活動を行いました。でも、本当に大したことはしていないと感じています。私のような元気な人間は、がれきや汚泥撤去のような、もっと肉体労働的なボランティアをすべきではないかと、心苦しく感じることがあります。
 それでも、この震災にいくらかでも、そういう形で関わることができた。無関心にならずに済んだ。ほんのちょっぴりでも「平和を実現する」働きに加わることができたのではないかと思うのです。
 それだけではありません。私たちの教会でも、震災直後から、被災教会、被災者支援のために献金を献げて来ました。そこには、平和を実現しようと願う“愛”の心があります。
 今度、日本基督教団では、2015年3月までに、10億円を目標に、改めて東日本大震災救援募金の計画が出されました。私たちの教会でも、具体的な仕方で献金協力を考えていきましょう。
 そして、私たちは神さまを信じるキリスト者です。キリスト者にできる、平和を実現するための、最も根本的な活動は何か。それは、神への祈りです。何ができなくとも、その場で祈ることはできる。祈りは、神の平和を実現するために、最も必要な、根本的な業(わざ)にほかなりません。

 聖書が語る“平和”とは何でしょうか? 聖書の、特に新約聖書の思想内容からすれば、具体的には戦争反対の立場になります。だから、もちろん戦争がない状態を平和と言うことができますが、聖書の語る平和とは、単に戦争のない状態だけを指すのではありません。もっと広い、もっと深い意味、内容があります。
 聖書は、人が神と和解し、神の御心に従う関係を“平和”と考えています。そのために、父なる神はご自分の独り子イエス・キリストを世に送り、私たちの罪を贖(あがな)って和解するために、キリストの命を十字架の上で、罪を償(つぐな)う犠牲としてくださいました。この救いを信じて私たちが受け入れるところに、神との和解、平和が成り立ちます。このような関係に立っているからこそ、キリスト者はまず、神に祈ることから始めるのです。
 そして、この神との平和を土台として、人と人とが赦し合って和解し、互いに愛し合う関係を、聖書は“平和”と語ります。あの平和のあいさつも、この信仰、考えを礼拝において具体化したものの一つだということができます。
 神が私たちに求める平和とは、このことです。だから、たとえどんなに平和を実現する活動を行っていても、その性根(しょうね)に、神との平和、人との平和の信仰がなければ、キリスト者としては、大事な柱が抜けていることになります。マタイ5章21節以下にあるように、どんなに神を礼拝するためにやって来ても、だれかと仲違(なかたが)いをしたままで、神さまとの平和と言ってみても、そこに実はないのです。
 「平和を実現する」。それは、主イエスが教えてくださった神の御心に従ってこそ、実現します。それは時に、自分にとって厳しく、痛いことですらあります。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」(マタイ5章44節)ことが求められることさえあります。しかし、神さまが罪人である私たちを愛して、赦してくださった。この恵みを知る信仰を心に抱くとき、私たちが“平和の道具”として神さまに用いられる第一歩が始まるのです。




   ウィンドウを閉じる