2011年8月28日 大人と子供の礼拝
  聖  書  出エジプト記20章8〜11節 
  説教者  山岡 創

「神の休み、人の休み」
     〜レ・クリエーション〜

 子どもチャペルでは8月中、十戒について礼拝で学んできました。十戒というのは、エジプトを脱出したイスラエルの人々が、モーセさんを通して、神さまから受け取った10個の掟、守るべき約束のことですね。どんな掟があったか覚えていますか?‥‥‥

 今日、学ぶところは十戒の中の第4戒です。みんなで8節を読んでみましょう。
「安息日を心にとめ、これを聖別せよ」。
 これは、簡単に言えば“お休みの日”の決まりです。「安息日」とは、お休みの日です。イスラエルの人々は、エジプトで奴隷だった時は、毎日“働け、働け”とエジプト人に働かされていました。粘土をこね、煉瓦を焼き、石を運んで町やピラミッドを作ったり、農業をしたり、とても大変な仕事だったと出エジプト記1章に書かれています。疲れて休もうとすれば、鞭(むち)で打たれたことでしょう。休みの日なんてありませんでした。
 そんな苦しい毎日の中で、イスラエルの人々が“神さま、助けて!”と叫んだので、神さまはイスラエルの人々をエジプトから救い出してくださいました。そして、働いてばかりで休みのなかった人々に、“休みなさい。休んでいいんだよ”とお休みの日を取り決めてくださったのです。それが安息日です。
 だから、イスラエルの人々は、6日間働いたら7日目は休む。1週間に1回、土曜日を安息日として休むことにしているのです。「聖別」という言葉があったけど、安息日は特別な日として、他の6日間とは区別する、という意味ですね。
 では、どうして10日目とか、1ヶ月に1度とかではなく、1週間に1度、7日目に休むことになったのでしょう? その理由が11節に記されています。
「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。
 安息日は、神さまの天地創造に基づいています。旧約聖書・創世記1〜2章を読むと、神さまが6日間で天地を造り、7日目に休まれたことが記されています。神さまも6日間働いて、7日目に休んだから、人間も7日目には一緒に休もうよ、休んでいいよ、ということなんですね。

 ところで、“休む”って、どういうことでしょう。イスラエルの人々の言葉(ヘブライ語)では、安息日のことを“シャッバート”と言います。この言葉の元々の意味は、“やめる”ということです。つまり、“休む”ということは“やめる”ことです。
 安息日に何をやめるのでしょう? それは、「仕事」です。9〜10節に、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と定められています。仕事をやめる。その日は、会社や工場や職場での仕事をしない。お家での仕事をしない。子どもは勉強が仕事だから、この日は勉強をしない。しないで休みなさい。そういうことです。
 けれども、もう一つ、やめることがあります。そして、こっちの方が仕事をやめることよりも、もっと重要で、大切な意味があると思います。それはね、“自分のものだ”と思うことを、やめる、ということです。
 自分の体は自分のものだ。自分の時間は自分のものだ。自分のお金は自分のものだ。自分の持ち物は自分のものだ。自分の命は自分のものだ。自分の人生は自分のものだ。そのように“自分のものだ”と思うことをやめなさい、と神さまは私たちに求めているのだと思います。
 神さまが天地を創造しました。私たちのことをお造りになりました。私たちに命を与えてくださいました。だから、この世界は、そして私たち一人ひとりは、“神さまのもの”なのです。その神さまのものを、私たちは“使っていいよ”と貸してもらっているのです。命がそうです。時間も、お金も、持ち物も皆、神さまから貸してもらっているのです。いつか返す時が来ます。
 このことが分からずに、“自分のものだ”と思っていると、感謝の心がなくなり、“自分のものなんだから、どのように使おうと自分の勝手だ。自由だ”と思い上がり、自己中心になります。そういう自己中心をやめて、自分は神さまのものだ、ということを思い出すために、感謝するために、思いを新たにするために、休みがある、安息日があるのです。
 お休み(安息)の日、私たちにとっては日曜日になると、私たちは“何か”をしたくなります。遊びたくなります。でも、遊ばずに休む。用を足(た)したくなります。でも、用事をせずに休む。たまった仕事を片付けたくなります。でも、休む。テスト前、勉強をしたくなります。学生にとって勉強するのは、とても大事なことですね。でも、安息日には休む。それは、自分は自分のものではない、ということを思い出すためです。すべて自分の思い通りにしていいのではなく、神さまのものだから、感謝して、神さまの思い通りに従うことを思い出すためです。そのために、安息日には礼拝があります。礼拝の時間は、自分の思い通りにせず、神さまに差し出すのです。献げるのです。そうすることで、“自分は自分のものではなく、神さまのもの”という謙遜と感謝を思い起こすのです。礼拝って、そういう時間です。自分は何者か、といういちばん大切な思いを取り戻す時間です。

 神さまは6日間で天地を創造なさいましたが、お造りになったすべてのものをご覧になった神さまは、「極めて良かった」(創世記1章31節)とお感じなったと書かれています。“すばらしい。最高傑作だ!”、神さまは天地を見て、人間を見て、満足されたのです。7日目の休みの日、神さまは、ご自分が創造された天地を改めてご覧になりながら、“すばらしい。最高傑作だ!”という喜びの思いに、1日浸(ひた)ったことでしょう。(私たちだったら、“勝利の美酒”に乾杯!でもするところでしょう)
 その神さまの喜びの中に、私たちも一緒に浸る。“すばらしい。最高傑作ですね”と一緒に喜んで、満足して、“神さま、この世界を造ってくださって、ありがとう。人間を造ってくださって、ありがとう。この私を造ってくださって、ありがとう。私を愛してくださって、ありがとう”と感謝する。それが、休むということです。安息日です。礼拝です。
 私は、この休みの日にピッタリの言葉を見つけました。それは、“レクリエーション”という言葉です。この言葉は辞書で調べると、“仕事や勉強の疲れをいやし、回復するための休養や楽しみ”と書かれています。休みの日とは、レクリエーションの日です。
 でもね、よくよく考えたら、この言葉の元々の意味は違いますね。この言葉(英語)は、2つの文節に分けることができます(紙に書いたものを見せ、中学生に尋ねる)。“レ”と“クリエーション”です。“レ”は、“再び、もう一度”という意味です。そして、“クリエーション”とは“創造”です。つまり、レクリエーションの本来の意味は、“再創造”ということです。私たちが、もう一度、創造されるということです。これは、私たちが、神さまに造られた創造の恵みと喜びを、休みの日の度に、安息日の度に、もう一度思い出す、という意味に違いありません。

 私たちは何者なのか? 神さまのものです。神さまの喜び、神さまの最高傑作です。神さまに愛される神の子です。そのことを思い出すことこそ、私たちにとって本当の休みです。最高の平安です。魂(心)の休息です。




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