2011年9月11日 
  聖  書  ルカによる福音書5章1〜11節 
  説教者  山岡 創

「人間をとる漁師」
     

 「ゲネサレト湖」、それはガリラヤ湖の別名です。ヨルダン川は、この湖に端を発し、南に流れて、やがて有名な“死海”に達します。この湖は東西に約10キロ、南北に約22キロの広さだと言います。8月に休暇をいただいた際、長野県の白樺湖に行ってきましたが、白樺湖の周囲の長さが約4キロですから、ガリラヤ湖は意外と広いなと思いました。主イエスの弟子となるシモン・ペトロたちが生活のために漁をしていた湖であり、今でもピーター・フィッシュ“ペトロの魚”と呼ばれる魚がいるそうです。
 主イエスは、カファルナウムの町をはじめ、このゲネサレト湖畔を中心に宣教活動をなさいました。その様子が4章の半ばから記(しる)されています。主イエスの力ある御(み)言葉、また病人を癒(いや)す業(わざ)は、たちまち湖畔の町や村に広まって行ったことでしょう。その噂を聞いて、「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」(1節)と言います。ただ単に癒しを、目に見える“ご利益”だけを求めて集まって来たのではない。「神の言葉」を聞こうとしてきたのです。皆、自分を外からではなく、内から変える、力ある御言葉に飢えていたのです。

 けれども、ここに「神の言葉」を聞こうとしない者がいました。ほかでもない、シモン・ペトロです。
彼は、カファルナウムの会堂で主イエスが語る御言葉を聞いたはずです。一人の男から悪霊(あくれい)が追い出されるところも目撃したと思います。人々は、「この言葉はいったい何だろう。権威と力をもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」(4章36節)と言って驚いていました。けれども、ペトロは、まるで他人事のように、ほとんど気にも留めていなかったのではないかと思われます。
 その後、ペトロの家に主イエスがお入りになって、彼のしゅうとめが熱で苦しんでいるのを主イエスが癒された時も、夕方になって彼の家に多くの人が病人を連れて来て、それら一人ひとりの病が癒された時も、ペトロは自分にとって、それほど重大なこととして意識していなかったのではないでしょうか。
 だから、主イエスに頼まれて舟を出し、主イエスがその舟の上から群衆に「神の言葉」を語っている時も、ペトロはその舟の上にいながら、主イエスのいちばん近くにいながら、「神の言葉」を真剣に聞いていなかったに違いありません。ペトロの頭の中は漁がうまく行かなかったことでいっぱい、上の空で、早く終わらないかと考えていたかも知れません。
 つまり、ペトロにとっては、主イエスがなさるすべてが“他人事”で、主の御言葉は、自分に語られた言葉、自分が聴くべき言葉として受け止められていなかったのです。
 そんなペトロの心の内を見透かすように、主イエスは群衆に語り終えられた後、ペトロだけに言葉をかけます。
「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)。

 いくら主イエスの説教する「神の言葉」を聞く気のないペトロでも、自分に直接掛けられた言葉を聞かないわけにはいきません。とは言え、それは漁に関わるアドバイスでした。ペトロは答えます。
「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節)。
 言葉は丁寧です。でも、その答えには“何を言ってるんだ。この素人は”という気持がにじみ出ています。無理もありません。漁に関しては、ペトロはプロです。来る日も来る日もこの湖で漁をしてきたのです。この湖での漁は、自分がいちばんよく知っている。その経験と知識から言って、今から漁に出ても取れるわけがない、とペトロは思っているのです。
 けれども、主イエスの言葉をむげに斥(しりぞ)けることもできません。皆が尊敬している大先生ですし、しゅうとめの熱病を癒してもらった義理もあります。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と渋々、沖に舟をこぎ出して網を降ろしてみました。
 すると、とれるはずもない魚がとれたのです。網が破れそうになるほど、2槽の舟でも沈みそうになるほど、大量の魚がとれたのです。主イエスの言葉に従ったとき、疑いながら、渋々であっても従ったとき、思ってもみなかった成果を得たのです。
 私たちも、自分で聖書を読むとき、また説教を聞くとき、“自分のこと”として聴くことができず、ペトロのように真剣さを欠き、聞き流していることがないでしょうか。自分には関係ない。そう思ったら、聖書の御言葉を、説教の言葉を、自分に語りかけられた「神の言葉」として聴くことはできません。
 そしてまた、いくらか真剣に聴く気になっても、私たちの経験や知識が素直に聴くことを邪魔する。経験と知識から生まれた自分の価値観や生き方が、御言葉を否定する。ペトロのように“そんなこと、あるわけがないよ”と疑い、“聖書はこう言うけど、私はこうするのが良い(正しい)と思う”と斥けるのです。
 そのような態度からは何も生まれません。“自分(エゴ)”が頑として在って動かず、せめて“ちょっと御言葉に従ってみようか”と譲歩する気持がなかったら、信仰の成果は生まれない。信仰による恵みを味わうことができません。
 100%信じきれなくて(も)良い。渋々であっても、疑いや迷いがあっても、「神の言葉」なのだからと、そちらに懸けて聴いてみる。従ってみる。やってみる。それを“信仰”と言うのです。
 そして、そのように聴き従い、やってみて初めて、ペトロのように、神の言葉には力があることを知るのです。御言葉による成果を得るのです。他人事として傍観していたのでは分らなかった信仰の恵みを味わうことができるのです。

 主イエスの言葉に聞き従ったペトロは、大漁の成果を得ました。けれども、不思議なことに、そこに喜びはありませんでした。感謝もありませんでした。ペトロは、大漁を喜ぶのではなく、主イエスのアドバイスに感謝するのでもなく、意外にも自分の罪を告白したのです。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8節)。
 そのように罪を告白した理由を、聖書は、「とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである」(9節)と記しています。
 とれた魚のおびただしさに主イエスの内に神の力を認め、自分が“聖なるもの”の前にいることを知って恐ろしくなったのでしょうか。そんな気持もあったかも知れません。
 けれども、恐ろしさ以上に、自分が今まで、いかに神の御(み)心にそぐわず、神の言葉に従わず、自己中心に生きて来たかにハッと気づいた、気づかされた者の懺悔(ざんげ)の告白だったのではないでしょうか。今までの自分の生き方が「罪深い」と気づいたのです。
 今までは聖書の御言葉は、自分に関係ないと他人事のように聞き流してきたのです。御言葉には力がないと侮(あなど)って来たのです。だから、真剣に“自分のこと”として聴き、従って来なかった。自分の思うように、自分の欲(ほっ)するままに、自分が“これがいちばん正しい、間違いない”と思うままに、“自分”を立てて生きて来た。エゴイスティックに、自己中心に生きて来た。
 それが、御言葉に真剣に聴き従い、御言葉には力があることを、御言葉は生きて働くことを初めて知ったとき、それによって“自分の姿”を示されたのです。
 「神の言葉」に真剣に聴き従おうとするとき、「神の言葉」は私たちの姿を、外側の姿形ではなく、“内なる姿”を明らかにします。罪深い姿を映し出す鏡となり、そういう自分に気づかせるのです。

 自分の罪に気づいて告白したペトロに対して、しかし主イエスは責めたりせず、語りかけます。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)。
 こう言われて、ペトロを新しい生き方へ、すなわち“弟子”としてお召しになったのです。
 「人間をとる漁師」とは何でしょう?皆さんも何となく分かるかと思います。“福音(ふくいん)”という網で人間を捕らえ、“神の国”という恵みの生簀(いけす)に招き入れる。伝道して、その人を信者にする。それで間違ってはいません。
 けれども、見落としてはならない大事な点があります。漁師として魚をとるのは、自分の生活のためでした。つまり、“自分”のためです。
 けれども、人間は自分のためにとってはなりません。もし人間を自分のためにとるとしたら、それはその人を利用するということです。利用価値があるから引き入れて、使えなくなったら捨てるということです。自己中心、自己目的です。それでは今までと何も変わらない。魚や“物”はそれで良くても、“人”はそれではなりません。私たちも人との関係において、愛しているのではなく、ともすれば利用しているようなことがあるかも知れません。宗教もともすれば、上層部の人間の利益や名誉のために、信者を増やし、信者を利用するという誤りに陥ることもあります。そうであってはなりません。
 人間をとるということは、自分のためではなく、その人のためにその人をとるということ、つまり“相手”のために生きる、ということです。伝道するということで言えば、相手の幸せや平安を考え、相手が必要としているから聖書の福音を伝え、教会へと招く。相手が必要としていなければ自重する。伝道は押し売りではありません。
 何にせよ、自分のために生きることから、相手のために生きることへと生き方を変える。それが「人間をとる漁師」の真髄です。相手のために生きる。すなわち、人を愛する者になるということです。主イエスが私たちに求めているのは、これです。

 ペトロたちは、「人間をとる漁師になる」と召されて、「すべてを捨ててイエスに従った」(11節)と締めくくられています。舟も網も、今までの職業も、家族さえも捨てて、主イエスに従って出発したのです。
 「すべてを捨てて」と言われると、私たちはしり込みします。それはちょっと無理だよ、と思います。もちろん家族の反対を押し切り、家族を捨てるとなると、余程のことですし、そうすることが自分のための自己中心な決断であるならば、かえって本末転倒になり、むしろ「人間をとる漁師」ではなくなってしまいます。
 けれども、“何も捨てずに”「人間をとる漁師」にはなれません。何も捨てずに、主イエスの御言葉に聞き、主イエスに従って行くことはできません。“今までどおり”のままで、主イエスを信じ、弟子となるということはあり得ないのです。
 今までどおり、自分にとって快い、都合の良い日常生活をキープしたまま、主イエスに従って行くことはできません。少なくとも“自分のために”という自己中心な生き方を捨てて、“相手のために”という愛の生き方を目指そうというのですから、そのために忍耐したり、時間や労力やお金を献(ささ)げたり、自己主張や自分の考えを引っ込めて譲ったりすることがあるはずです。それはまさに“愛”が形になったものです。
 「あなたは人間をとる漁師になる」。私たち一人ひとりも、この人生に召されています。捨てるというよりは、“献げる”という心で、この道を歩みたいものです。




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