2011年9月18日 高齢者を覚える礼拝
  聖  書  詩編92編2〜16節 
  説教者  山岡 創

「命にあふれ、生き生きと」
     

 「いかに楽しいことでしょう。主(しゅ)に感謝をささげることは。
 いと高き神よ、御名(みな)をほめ歌い、朝ごとにあなたの慈しみを
 夜ごとにあなたのまことを述べ伝えることは。
 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ、琴の調べに合わせて」(2〜4節)。

 今日は、日本の暦の上で敬老の日を明日に控えての日曜日ということで、例年のように〈高齢者を覚える礼拝(れいはい)〉を迎えました。
 私たちの教会では、この礼拝で覚える高齢者の方を75歳以上と定めています。今日の週報の礼拝順序の下の部分に、75歳以上の方々のお名前を記(しる)しておきました。教会員の方、礼拝に続けて出席しておられる方、全部で18名の方々がおられます。今回から、ここに新たにお名前を記された方3名います。皆さん、どなたか分かりますか?
 改めて、今日は高齢者を覚える礼拝です。文字通り、私たちの教会には、これだけのご高齢の兄弟姉妹がいらっしゃる、連なっているということを“覚えて”ください。お名前とお顔がつながるように覚えてください。今まで知らなかった人を今日、新たに覚える努力をしてください。中には会ったことがないという方もいらっしゃるでしょう。高齢者の中には、今年100歳を迎えたM.Tさんのように、長らく自宅静養をされている方もいらっしゃいますし、E.Mさんのように長期入院、療養されている方もおられます。どうぞお名前だけでも心に留めてください。
 けれども、“高齢者を覚える”ということは、ただ単に記憶するというだけの意味ではありません。覚えるということには“祈る”という意味が含まれています。どうぞ高齢者の方々のために祈ってください。M.TさんやE.Mさんのように、自宅静養されている方、長期入院されている方のために祈ってください。高齢になれば、持病を抱えていたり、痛みや調子の悪いところを体にお持ちでしょう。健康が守られ、支えられるように祈ってください。何より、その内なる魂が、神の御(み)言葉によって、信仰によって、いよいよ「命にあふれ、いきいきと」(15節)されるように祈ってください。心身ともに、神の祝福を祈ってください。

 覚えるということの3つ目の意味は、“模範とする”ということです。高齢者の方々の中には、50年を越える信仰生活を歩んで来られたような方もおられます。山あり谷あり、喜びがあれば苦しみもある。楽しみもあれば悲しみもある。そのような人生をずっと、神さまから離れず、いや神さまが離さず、神と共に歩んで来られた。御言葉に導かれ、支えられ続けて来た。その信仰生活は、若いクリスチャンにとって何よりの模範です。
 けれども、そうでない方もおられます。年輩になって、特に75歳を過ぎてから信仰を与えられ、洗礼を受け、救いに預かったという方もおられます。けれども、信仰生活の年数に関係ないことが一つあります。それは、忠実に、喜んで礼拝に出席しておられる姿です。その姿こそ、後に続く教会員にとって大きな励ましです。
 ご高齢になると、持病による体調の悪さや痛みも出て来ることでしょう。とても疲れやすくなることでしょう。もちろん、そのために礼拝に出席できない日もあるでしょう。けれども、そのような不調や痛みを抱えながらも礼拝においでになる。喜んで礼拝を守られる。“日曜日の礼拝が何よりの楽しみです”という言葉を、私は何人もの方から聞きました。そして、その礼拝に出席するために1週間の体調を管理し、時間を作り、生活される。1週間の生活は、日曜日のために、日曜日を中心にして回っている、というお話も聞きました。
 若い時は、“今日は遊びたいなあ、疲れたなあ、面倒だなあ、礼拝を休みたいなあ”と思いながら、礼拝を守っているような時もあるでしょう。けれども、高齢になってくると、そうではない。日曜日の礼拝のために生活のリズムを作る。そして、忠実に、喜んで礼拝をささげる。若い者にはない、礼拝に対する姿勢がそこにあるなあ、と感動します。その姿は、若い私たちにとっての信仰の“模範”なのです。

 今日は、詩編92編の御言葉を、共に聞きました。「いかに楽しいことでしょう」と歌い始めるこの詩編から、主に感謝をささげ、御名をほめ歌うことがいかに楽しいか、というこの人の喜びが、生き生きと伝わってきます。
 15節に、「白髪になってもなお実を結び」とありますから、この人は、白髪の高齢者なのだろうと想像されます。そのような白髪の、高齢の信徒が、主に感謝をささげ、御名をほめ歌う楽しさ、喜びを述べ伝えているのです。
 私は、この92編を黙想しながら、ふと、本文ではない1節に目を留めました。そこに「安息日に」と書かれています。
 安息日(あんそくび)とは、十戒の中で「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジ20章8節)と命じられている日です。イスラエルの人々が仕事を休み、神と共に休息する日。神の創造と救いの恵みを思い起こして、神を礼拝する日です。
 と言うことは、この詩編92編は、安息日の礼拝において歌われた歌だということです。礼拝での賛美です。その賛美を、喜びにあふれ、楽しそうに歌っている気持が、生き生きと伝わってくる感じがします。
 そして、この詩編が礼拝での賛美だということを知ったとき、私は、この信徒が、坂戸いずみ教会の高齢の教会員の方々と重なり合って感じられました。“日曜日の礼拝が何よりの楽しみです”とおっしゃって、喜んで礼拝に出席される方々の姿と同じ信仰者の姿がここにある、と思いました。
 この92編の作者も、健康いっぱい、元気いっぱい、というのではなかったに違いありません。病もある。痛みもある。疲れも覚える。でも、喜んで礼拝を守り、賛美を歌っているのだと思います。
 人生、成功や幸せや良いことばかりではなかったかも知れません。それでも、神の「慈しみ」を感謝し、賛美しているのです。
 人生、健康で、元気で、うまく行っているから、神さま、ありがとうと感謝し、賛美するのではないのです。病や苦しみや悲しみ、そういったことも一切込みで、感謝し、賛美してこそ、まことの信仰、本物の信仰だと思うのです。
 実際、良いことばかりではないのです。12節を見ると、作者はこう語っています。
「わたしを陥れようとする者をこの目で見、悪人がわたしに逆らって立つのをこの耳で聞いているときにも」。
 自分を陥れようとする企てがあるのです。そういう不安材料があるのです。自分に逆らって立つ悪人がいるのです。人間関係にそういうストレスを感じているのです。
 それでも、作者は「主よ、御業(みわざ)はいかに大きく、御計らいはいかに深いことでしょう」(6節)と歌っている。どうしてそのように歌うことができるのでしょう。
 それは、今までの信仰生活の中で、主の「御業」、主の「御計らい」を見、「あなたの慈しみ」を味わって来たからだと思います。
「神に逆らう者が野の草のように茂り、悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても、永遠に滅ぼされてしまいす」(8節)。
 この人はきっと、そういう現実を見て来たのです。人をだましたり、利用したりする人が、ずる賢く振る舞う人が繁栄するように見えることがあるかも知れない。意地悪な人が快(こころよ)さそうに過ごしていると見えることがあるかも知れない。けれども、そのような人が衰え、滅ぶ様を見て来たのです。正直に、誠実に、人を愛して生きる人が、時に損をしたり、だまされたり、明らかな成功を手にしていないことも多々あるのがこの世です。泣くことも、苦しむこともあるでしょう。けれども、そこに神に向かってまっすぐに生きる者の壮快さがある、美しさがあると、この人自身がきっと感じているのです。そして、そのような者を、神さまは必ず見ていてくださる、省みてくださる。そう信じて、神の「御計らい」に自分の人生をおゆだねした人間の平安と感謝が、ここにあるのだと思います。

 そのように、神に従って生きる人の姿が、13節以下に描かれています。
「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。
主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。
白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう」
 子どもチャペルの未就学児クラスの子どもたちが、夏前にさつまいもの茎を教会の庭に植えました。南側の駐車場の奥に、ずた袋に土を入れて、そこにいもの茎を差しました。私も妻も、平日そんなに世話はしていないのですが、元気に弦が伸び、葉が茂って、庭の一面を覆い、これ、どうすりゃいいの?というぐらい茂っています。どれだけ大きなさつまいもの実がつくのか、秋の収穫が楽しみです。その収穫が終わったら、竹の棒でラズベリーの棚でも作りたいと思っています。
 神に従う人は、白髪になっても実を結び、命に溢れ、生き生きとする。神の庭に茂る。確かに、そうだと思います。坂戸いずみ教会で礼拝を守るご高齢の兄弟姉妹を見ていて、そう感じます。
 けれども、命に溢れ、生き生きとするということは、肉体的な意味で、若い人のように健康で、元気になるという意味ではありません。体は、健康は年齢と共に衰えて行きます。できなくなることも出て来ます。いつかやがて地上の生涯の終わりを迎えます。
 けれども、その時まで、神を信じて従う者は、内面を生き生きと保たれるのです。私は、この15節を黙想しながら、コリントの信徒への手紙(二)4章16節の御言葉を思い起こしていました。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」
 「内なる人」は、内なる心は、神の御言葉を信じることによって、神の御計らいにゆだねることによって、平安を与えられ、希望を与えられ、愛を与えられ、日々新たに生き生きとされるのです。生かされるのです。命に溢れるのです。

 その恵み、喜び、感謝を、いかに表わすか。どんな言葉で賛美し、述べ伝えるか。
92編の作者は、最後にこう歌い、証(あか)ししました。
「わたしの岩と頼む主は正しい方、御(み)もとには不正がない」(16節)。
 皆さんもぜひ、自分の賛美を持ってください。自分の証しを持ってください。感謝して歌い、述べ伝えたくなるような信仰の言葉を持ってください。
 “私”は、神さまを信じて生きて来て、神さまは私に、このように計らってくださいました。導いてくださいました。支えてくださいました。私にとって、神さまはこういう方です、と歌える、伝えられる実を結べるように、これからも信仰の生涯を歩んでいきましょう。




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