2011年10月9日 
  聖  書  ルカによる福音書5章17〜26節 
  説教者  山岡 創

「あなたの罪は赦された」
     

 「人よ、あなたの罪は赦された」(20節)。
 主イエスは、「中風を患っている人」に向かって、こう言われました。
 どこかで聞いた言葉だなあ、と思われることでしょう。そうです。これは、私たちの教会の礼拝の中で、〈悔い改めと赦し〉という交読をいたしますが、その最後のところで、私が講壇から宣言する言葉と同じです。
 考えてみれば、人間が語るには恐れ多い言葉です。もちろん、私に人の罪を赦す権威などありません。ただ、私は礼拝の司式者として、主イエスの赦しの言葉を、主イエスに代わって宣言しているだけです。
 けれども、私は、主イエスが今、目には見えませんけれども、ここにいて、主イエスが私の口を通して宣言された、という思いで語っています。そして、皆さんも、山岡牧師が宣言した言葉としてではなく、主イエス・キリストが今、自分たちにお語りくださった、という信仰で聞いていただきたいのです。
 ちょっとだけ文法上の話をさせていただきますと、「赦された」という言葉は、完了形という形が使われています。これは、過去において、この中風の人の罪が赦されたというだけではなく(過去形)、この福音書を読んでいる読者も今、罪を赦されたことを表しています。つまり、主イエスによる罪の赦しは継続してずっと有効だということです。私たちも今、罪を赦される。赦していただくことができるのです。
 だから、この言葉を聞くとき、主イエスが今、自分に語りかけてくださっているのだと受け取ってほしい。そして、もし何かご自分の罪の重荷に苦しみ、喘(あえ)いでいる方がここにいるならば、“わたしの罪は赦された”と感じていただきたいのです。

 「人よ、あなたの罪は赦された」。
 主イエスはこの言葉を、「中風を患っている人」(18節)に言われました。中風とは、脳の出血等によって半身不随になったり、手足が麻痺してしまう病気です。この人の場合、床に乗せられて来たわけですから、最も重い半身不随の症状だったでありましょう。
 その人が主イエスの噂を聞いた。けれども、自力では主イエスのもとに行くことはできません。そこで親族か友人かに頼んで、床ごと運んでもらったのです。あるいは、逆に、主イエスの噂を聞いた人たちが、彼を主イエスのもとに運んであげようと考えたのかも知れません。
 ところが、主イエスの周りには群衆が群がっています。とても近づけない。けれども、男たちはあきらめませんでした。当時のユダヤの家は屋根が平らにできていて、外階段で上ることができました。彼らは屋根に上がり、何と!屋根をはがして、天上から床ごと中風の人を、主イエスの目の前につり降ろしたのです。きっと屋根の材料である粘土やら何やら部屋の中にバラバラと落ちて、埃(ほこり)だらけになったに違いありません。
 けれども、主イエスはその行為を、自分への失礼であるとか、周りの人への迷惑であるとは言われませんでした。かえって、「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」(20節)のです。
 この御言葉の前半部分「イエスはその人たちの信仰を見て」から、私は2つのことを示されました。
 一つは、「信仰」とは何か?ということです。聖書によって示されるキリスト教信仰とは、簡単に言えば、主イエス・キリストによる罪の赦しと復活の命、神の国の約束を信じることです。そこに示されている神の愛を信じることです。そして、その信仰は決して“ご利益(やく)信仰”ではありません。ご利益がなくても、すべてを益(えき)と信じる信仰です。
 ところで、中風の人を主イエスの前につり降ろした人々の信仰とはどんなものだったでしょうか? 彼らは、イエスによる罪の赦しも、復活も、神の国も知りませんでした。彼らの内にあったのは、中風の人を癒してほしいという願いです。人の家の屋根を壊して、病人をつり降ろすほど必死の、真剣な願いです。そして、主イエスなら病人を癒してくださるとの藁(わら)にもすがるような思いです。“主イエスのご利益”を信じる信仰です。
 ともすれば教会は、私たちは、私は、そんなものは信仰ではないと、そんな信仰ではだめだと否定してしまうかもしれません。けれども、主イエスはそうではないのです。その人たちの姿を見て、心を見て、それを「信仰」と認めてくださったのです。
 信仰とは何でしょうか? 主イエスの癒しというご利益を信じて、癒しを願い求めることも「信仰」なのです。ご利益を求めるのであれ、何であれ、主イエスを信じる、信じたいという思いに変わりはありません。だから、どんな動機であれ、信じ方であれ、信仰の道に入ることができる。第一歩を踏み出すことができる。主イエスはそれを喜んで認めてくださるのです。
 20節の前半から示されたもう一つのことは、主イエスが、中風の人本人の信仰を見て、ではなく「その人たちの」信仰を見て、罪の赦しを宣言し、癒しをなさったということです。もしかしたら本人は口もきけない状態だったかも知れません。しかも手も動かせなければ、自分の意思を伝えることすらできません。信仰を言い表すこともできません。
 けれども、主イエスは病人本人の状態や信仰にかかわらず、連れて来た人たちの信仰を見て、それに応えてくださったのです。彼らの心には、家族を思う、あるいは友だちを思う“愛”がありました。その愛を、主イエスは、「隣人を自分のように愛しなさい」との律法に適う信仰と見てくださったのかも知れません。本人の信仰ではなく、周りの人の信仰が、その人を救うのです。主イエスを動かすのです。
 埼玉和光教会の三浦修牧師から、教会でのあるエピソードを伺いました。教会に親子で来ている人がいた。お子さんの方は、おそらく知的障がいを抱えていました。そのために信仰を告白することができない。そのお母さんもまだ洗礼を受けていない。それでも、主イエスを信じ、親子で教会のメンバーになりたいと願われたようです。
 その時、教会役員会は、教会の信仰において、役員会の信仰と責任において、その親子に洗礼を授け、受け入れようと決断したと言います。その決断の元になったのが、今日の聖書の御言葉、20節の御言葉でした。
 教会は本人が信仰を告白できなければ、正しい信仰を持たなければと狭く考えてはならないのだと思います。信仰と愛によって、様々な人を受け入れていくことを主イエスはきっと喜ばれるでしょう。

 けれども、ここにまた1つ、かみ合わないことが起こっています。主イエスは、病人を連れて来た人たちの信仰を見て、それに応えてくださいました。友を、あるいは家族を癒してほしい。その必死の願いと愛に応えてくださったのです。だとすれば、もしストレートに応えるなら、中風の病を癒す業をなさったことでしょう。
 しかし、主イエスは、ただちに中風の癒しをなさいませんでした。それをせずに、「人よ、あなたの罪は赦された」と、彼の罪を取り除かれたのです。なぜ主イエスは、癒しではなく罪の赦しを先になさったのでしょうか。
 それは、罪の問題こそ、その人の人生の根元(こんげん)に関わる重大な問題だからだと思います。聖書が語る「罪」とは、いわゆる犯罪のことではありません。それも含めてでしょうが、聖書は罪を、法律の視点ではなく、神との関係において考えます。すなわち、人が神とかみ合っていない関係を「罪」と呼ぶのです。神さまの考えと私たちの考えがくい違い、ずれている。神さまの気持と私たちの気持がすれ違う。神さまが求めていることに私たちが従わない。そういう行いや状態を罪と言います。必ずしも“悪”ではありません。そして、罪は私たちの心と生き方に大きく影響します。
 では、中風を患っている人の「罪」とは何でしょうか。当時の人々は、病を罪の結果だと考えていました。人が神に背き、掟(律法)を破り、罪を犯したので、神が罰として病を与えたということです。日本人が言う“罰が当たった”という考え方です。そして、それは神の“呪い”と見なされました。罪のために、人は神に愛されず、見捨てられ、呪われるというのです。
 中風を患っている人も、自分は罪のために呪われ、病という罰を与えられたのだと思っていたでしょう。自分は神さまに愛されていないと絶望していたことでしょう。
 ところがどっこい、神さまは中風の人を愛しておられるのです。中風という病を患っていても愛しておられるのです。病は罪の罰ではありません。もし病も神さまが与えたのだとすれば、それは罰として与えたのではなく、きっと違う意味で、その人のために与えたのです。人は、病の有る無し、苦しみ悲しみの有る無しにかかわらず、神に愛されているのです。人生を肯定され、受容(じゅよう)されているのです。
 ところが、彼は神に愛されているのに、愛されていると思っていない。食い違っているのです。そこに、彼の「罪」があります。主イエスが教えられた〈放蕩息子のたとえ〉という話が聖書にありますが、まるで、放蕩に身を持ち崩した息子が、自分にはもはや息子の資格なしと絶望しているのに、父親は出て行った息子を来る日も来る日も待ち続け、落ちぶれて帰って来た息子を、息子として、変わらず、暖かく迎えた気持とが食い違っているのと同じです。
 愛されているのに愛されていないと思っている。その食い違い、思い違いが彼の「罪」でした。それは悪いことではありません。けれども、彼の人生の根元(こんげん)を揺るがす大きな問題であることに違いありません。
 彼は病のために、自分は神に愛されていないと思って生きて来たでしょう。つまり、自分の人生を否定しながら、受け入れることができずに生きて来たでしょう。
 私たちにも同じような思いがないでしょうか。人生、病もなく健康なのが良い。お金や財産があるのが良い。苦しみや悲しみがなく平安なのが良い。確かに、それに越したことはありません。けれども、私たちは、そういう人生が“良い人生”だと思い込み過ぎているのです。そのために、そうでないと、“自分の人生はだめだ”と否定し、受け入れず、自分の人生と向かい合わずに逃げてしまったりするのです。
 もちろん、その辛さが分からないわけではありません。逃げずにはいられない時があります。でも、どんな人生であれ、“これが私の人生”と向かい合い、受け入れなければ始まらないのが、“生きる”ということなのでしょう。
 幸福主義を捨てましょう。信じれば幸福になるという信仰は、どこかで卒業しましょう。私たちは幸福でなくても、病や苦しみがあっても生きて行ける。これで良いと、自分の人生を肯定し、受け入れて生きて行ける。
 そのように人生を信じさせてくれるものが信仰です。思いと生き方を転換させてくれるものが、主イエスの御言葉です。「人よ、あなたの罪は赦された」。この御言葉は、“あなたはどんな時も、神に愛されている”というメッセージであり、“あなたの人生は、価値ある人生なのだよ”というエールなのです。

 もし、主イエスのことを非難する「律法学者たちやファリサイ派の人々」(21節)がいなかったら、主イエスはもしかしたら、この人の病を癒さなかったかも知れません。この人は、罪を赦されて、神に愛されていることを知って、病があってもきっと生きていけるようになったからです。
 病や苦しみがあっても、人は神に愛されている。人生は肯定できる、受け入れることができる。それを知ると、人生が拓(ひら)けます。世界が変わります。




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