2011年10月23日 信徒証し礼拝
  聖  書  ヘブライ人への手紙12章1〜2節 
  説教者  山岡 創

「自分の競技を走り抜く」
     

 私たちの坂戸いずみ教会が属している日本基督教団は、10月の半ばに〈信徒伝道週間〉という1週間を定めています。もちろん、信徒はその1週間だけ伝道すればよろしい、ということではありません。牧師だけではなく信徒も、それぞれの立場で伝道する使命を、常に主イエス・キリストから託されています。ただ、その使命を特に、この週は意識しましょう、ということでしょう。
 私たちの教会では例年、信徒伝道週間に〈信徒証し礼拝〉を行っています。礼拝の中で、皆さんの中から代表者を選び、ご自分の信仰とその歩みについてお話ししていただきます。それを、教会では“証(あか)し”と言います。今日は、M・Yさんにご自分の信仰の歩みを証ししていただきました。Mさんの人生に与えられた神さまの導き、恵みを伺い、共に分かち合うことができ、感謝です。
 そして、ここで改めて、与えられた聖書の御言葉から、信徒が証しする、信徒が伝道するとはどういうことか、考えてみたいのです。

 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡(から)みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(1節)。
 この手紙の著者は、ヘブライ人の信徒たちに、私もあなたも、おびただしい証人の群れに囲まれている、と語っています。「おびただしい証人」とは、直前の11章に描かれている旧約聖書に登場する人々、信仰を持って生き、死んだ人々、アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ラハブ‥‥‥といった人びとのことです。
 ところで、「証人」というのは“何”の証人でしょうか? それは、“神の恵み”の証人です。自分の信仰の歩みを証しするとは、神の恵みの証人となるということです。自分の人生において、神さまがこのような恵みによって私を導いてくださった、救ってくださった、支えてくださったと証言する、ということです。
 では、どのようにして神の恵みの証人となるのでしょうか? それは、「自分に定められた競争を忍耐強く走り抜く」ことによって、です。
 当時の教会が置かれていた世界は、ローマ帝国が支配する社会でした。ローマ帝国ではスポーツが、今でいう陸上競技が盛んだったようです。そのような背景があって、新約聖書の中で信仰生活は、しばしば陸上競技に譬(たと)えられています。今日の御言葉においても、信仰生活は「競争」に譬えられていました。
 けれども、競争に譬えられていても、信仰生活は、人と競い争う競争ではありません。「自分に定められた競争」とありますが、一人ひとり、自分が置かれた人生が、信仰によって生きるべき自分の人生があるのです。そのコースを走れるのは、他にだれもいない、代役は利かない、自分しかいないのです。だから、信仰生活という「競争」は、他人と競い争うものではない、他人と比べるものではないのです。敢えて言えば、自分の中にいる“もう一人の自分”との競争でしょう。だから、自分らしく、自分に負けないように忍耐強く走れば良いのです。そういう私たちの姿を、たとえだれも見ていない、見てくれないとしても、神さまが隠れたところで見てくださっています。また、私たちよりも先に歩んだ信仰の先輩たちが、信仰の証人たちが、天の御国から見てくれています。そして、苦しくてもがんばって、精一杯走っている私たちを、きっと応援してくれているに違いありません。“くじけるな! ゴールはここだぞ!”と。

 10月7日に、近隣の6つの小学校の5〜6年生が一堂に会し、競い合う連合運動会がありました。私も、次男のMが長距離走に出場するので、仕事をちょっと抜けて長距離走だけ見に行きました。Mたち5年生が走った後は、6年生の長距離走千メートルです。200mトラックを5周する。優勝したのは我が泉小学校の生徒で、私もよく知っている男の子でした。浅羽野小学校の男の子と激しいデッドヒートを演じ、ハイレベルな駆け引きで、最後のカーブを曲がった直線でスパートをかけ、追い抜き、ほんの少しの差で優勝しました。とてもおもしろいレースを見せてもらいました。
 ほぼすべての子がゴールした後、ふと見ると、一人だけ、相当遅れて走っている子がいました。調子が悪かったのか、元々そうなのか、決してお世辞にも早いとは言えません。けれども、その子は一生懸命、ゴールに向かって走っていました。見ていた大人たちも小学生たちも、拍手をしながら、がんばれ!と応援しました。その子がゴールした時、大きな歓声と拍手が湧き起こりました。
 私は、今日の御言葉を黙想しながら、ふとその時の光景を思い起こしました。私たち一人ひとりの信仰生活という名の「競争」も、ある意味でそういうものではないかと思ったのです。皆が、信仰という名のコースを走っている。先頭を走るのは、「信仰の創始者、または完成者」(2節)である主イエス・キリストでしょう。この世の喜びと得(とく)を捨て、十字架に至るまで私たち人間を愛してくださった主です。そして、一人ひとりが先頭を走る主を「見つめながら」、自分の位置を走っている。ゴールを目指して走っている。その姿は、たとえ一番後ろだとしても、貴いのです。美しいのです。自分らしく、忍耐強く走っているなら、一人ひとりの姿は美しいのです。そして、その姿はきっと神さまを喜ばせます。私たちを天の上から囲み、見ている証人たちの歓声と拍手を呼びます。キリストが神の国のゴールで待っていて、「忠実な良い僕だ。よくやった」(マタイ25章21、23節)とねぎらってくださいます。

 伝道と言いますが、道とは人に伝えるものではなく、自分が生きるものだと言った人がいます。ただ語るのではなく、自分が真剣に生きて初めて、伝わるのが信仰という道でありましょう。証しをする、伝道をするというのは、私たち一人ひとりが「イエスを見つめながら」「自分に定められた競争を忍耐強く走る」ことだと思います。リタイアせずに、コースアウトしても、また戻って来て、そうしてゴールまで走り抜く。自分らしく、真剣に走ったその道筋が、きっと何かを語ります。




   ウィンドウを閉じる