2011年11月6日 永眠者記念礼拝
  聖  書  テサロニケの信徒への手紙(一)4章13〜18節
  説教者  山岡 創

「眠りから起こされる日」
     

 本日は、教会の暦の上で〈聖徒の日〉と呼ばれる日曜日を迎えました。“聖徒”というのは、週報の礼拝順序のところに書かれているように、“聖なる徒(ともがら)”と書きます。聖徒とは、イエス・キリストによって救われ、聖なる者とされ、天国に召された者のことを言います。
 そのように、天国に迎え入れられた人々を偲(しの)び、記念する日として、8世紀にこの日が定められました。初めは11月1日でしたが、その後、プロテスタント教会一般では、11月第一日曜日を聖徒の日として、すべての死者を記念する日として礼拝(れいはい)が守られるようになりました。この日は、教会にとって、天に召された人々を偲ぶ日、そして、やがて私たち自身が召されていく天の国に思いを馳せ、復活と愛する者との再会に慰めと希望を与えられる日なのです。

 皆様のお手元に、受付で〈永眠者名簿〉をお渡ししました。1992年に始まったこの教会の歩みの中で、教会員で天に召された方々、教会員ではないけれど教会で葬儀を執り行った方々、また教会墓地に埋葬された方々、等のお名前が、この名簿に記(しる)されています。
 昨年の永眠者記念礼拝以降、お一人の方がこの名簿に加えられました。Aさんです。Aさんは、昨年12月19日に、肺炎のため83歳で天に召されました。60歳で会社を退職なさった後、牧師となって、長野県の坂城栄光教会で20年間、働かれました。そして80歳で隠退なさり、ご長男家族がお住まいの高坂においでになりました。それから、お連れ合いのAHさんとご一緒に、2007年5月からこの教会においでになって、3年半余り教会生活を共になさいました。いつもニコニコしながら礼拝を守っておられた姿を、木曜日の祈り会の時、いつも私の隣に座り、祈っておられた姿を思い出します。
 愛する者を失うということは、私たちにとって大きな心の痛手であり、深い悲しみです。特に、それまで一緒に生活をしていた家族を失うと、胸に大きな穴があいたような喪失感、寂しさを感じずにはおられないでしょう。
 今年は3月11日に東日本大地震が起こりました。地震による建物の倒壊と、その後の津波のために、何万人という貴い命が失われました。今も、ご遺体が見つかっていない方もおられます。
 あの日から8ヶ月、時々、報道番組で、ご遺族のその後の生活が映し出されることがあります。愛する家族を失って、その現実に歯を食いしばり、一生懸命に生きておられる姿を見、その気持を考えると、胸が締め付けられる思いがします。この方たちは、愛する家族の死を心を開いて悲しみ、涙を流せる時が、どこかであるのだろうかと考えさせられます。
 深い悲しみの中でがんばっているのです。あるいは考えないようにしておられるのかも知れません。考えると、そこで時間が止まってしまう。立ち止まってしまう。悲しみの中にうずくまってしまう。だから、愛する者を失った今の現実を、一生懸命がんばって生きておられるのだと思います。
 けれども、どこかで緊張のひもをゆるめ、がんばっている力を抜いて、涙を流せる時がやはり必要だと感じます。がんばっている心を、どこかでホッと楽にしてあげたい。そのためにはサポートが必要です。本人は、力を抜いたら倒れてしまうと思ってがんばっているのですから、自分が力を抜いても、これが自分を支えてくれると思える何らかのサポートが必要だと思います。そのように信頼できる何かサポートがあれば、悲しみの中でホッと力を抜ける時も持てるのではないでしょうか。それは、信頼のできる人の存在かも知れません。あるいは、人間の力を超えた“何か”かも知れません。

 今日読みましたテサロニケの信徒への手紙(一)は、パウロという人が書きました。パウロは13節で、こう語っています。
「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」(13節)。
 「眠りについた人たち」というのは、イエスを救い主と信じながら死んだ人たちのことです。聖書は、人の死を“眠り”として受け止めます。つまり、それで終わりではなく、眠っているのだから目覚める時が来る、死の状態から変わるとき、変えられる時が来ると信じているのです。死とは眠りである。ここから、キリスト教では死んだ人のことを“永眠者”と言います。もっとも、眠りから目覚める時を信じているのですから、“永眠”というのは、ふさわしくないのかも知れません。永遠に眠っているのではなく、目を覚ます時が来るのです。死の状態から変えられる時が来るのです。それを、聖書は「復活」と言います。
「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導きだしてくださいます」(14節)。
 十字架に架けられ、私たち一人ひとりの罪を贖(あがな)うために死なれた主イエス・キリストは復活された。神が復活させた、とキリスト教では信じます。もちろん、以前と同じように生き返った、ということではありません。イエス・キリストは復活なさり、弟子たちのもとに現れ、神の救いを宣べ伝えよと命じられた後、天に昇られたと聖書は記しています。当時の人々にとって、天は人間が立ち入ることのできない神の世界、領域であり、そこに神がおられると信じられていました。イエス・キリストは復活なさって、その神の世界にお入りになったのです。天の上でイエスは神の右の座にお座りになったと聖書は言います。
 そして、天から再び、イエス・キリストが地上にやって来る日が来る。その時、眠りについた人たちを神は目覚めさせ、死から復活させてくださると信じたのです。

 眠りから目覚めた人々はどうなるのでしょう。15節以下にそのことが記されています。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます」(16節)。
 主イエス・キリストが天からやって来る。パウロは、自分たちが生きているうちに、その日は起こると信じていました。だから、「主が来られる日まで生き残るわたしたちが‥‥」(15節)と言うわけです。
 主イエス・キリストが天から来られる日に、「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それからわたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつも主と共にいることになります」(16〜17節)。
 キリストを信じて死んだ者は目覚め、生き残っている者も共に、空中に引き上げられてキリストと出会う。そして、神の世界、天にある神の国に入れられて、キリストと共に、神と共に、復活の命、永遠の命を生きるようになる。
 合図の号令、大天使の声、神のラッパ、そして雲に包まれて空中に引き上げられてのキリストとの出会い‥‥‥現代人である私たちにとっては、いささか幼稚な、滑稽とさえ思われる描写かも知れません。けれども、当時のクリスチャンが、受け継がれて来た信仰に基づいて、真剣に信じていたことです。そして、この信仰によって希望を抱き、慰めを与えられ、励まし合って生きたのです。それが、彼らにとって、死の悲しみ、不安を支える信仰という名のサポート、神のサポートだったのです。

 現代人である私たちは、この聖書の記述を、リアルに、ストレートに信じることは難しいでしょう。けれども、ここから、人の命へのメッセージとして、私たちに語りかけられている神の言葉として、汲み取ることのできるものがあると思います。
 それは、死はすべての終わり、私たちの滅びではない、ということです。死はすべての終わり、滅びだと考えて、“その先”を信じることができなければ、死は、希望を持たずに嘆き悲しむ以外にありません。けれども、死のその先を、神と共に歩む新しい世界を、愛する者との再会の場所を信じることができるならば、希望が生まれます。
 もちろん、死の不安が、愛する者を失った悲しみがなくなるわけではありません。けれども、絶望の中で不安を感じ、悲しむことと、希望の中で不安がよぎり、悲しみを感じるのとでは、その不安、悲しみが全く違うものとなります。死の不安、死別の悲しみを支えてくれる希望、神のサポートがあるからです。この希望を信じ、神を信頼し、“すべて、よろしくお願いします”と神さまにおゆだねするとき、私たちは、死の不安を克服し、神さまの前で涙を流して、一歩一歩、悲しみを受け入れながら、生きていくことができるようにされるのではないでしょうか。

 お隣りの川越市にキングスガーデンという特別養護老人ホームがあります。キリスト教精神によって運営されており、毎日礼拝があり、私も月に1度、礼拝説教に伺います。
 このホームの施設長であるK・Yさんという方が、『夕暮れ時のあったか噺』という本を出されました。ホームの入所者の姿と関わりから体験し、学んだことが記されています。
 ある時、施設を見学に来られた方を案内していると、どこかの部屋から、“やめてー、やめてー、死んじゃうよー、助けてー、助けてー”という声が聞こえて来ました。児島さんはギョッとして、その部屋に行ってみました。すると、一人の入所者の方がベッドに横になったまま叫び続けており、その傍らで職員がその人の手を握ったり、背中をさすったりしながら途方に暮れています。児島さんは、叫んでいる方に、“児島です。大丈夫ですよ。安心してください”と声をかけました。けれども、一向に納まりません。児島さんも途方にくれながら、その方の耳元で“イエス様、イエス様、イエス様”と3回ささやいてみました。すると、叫び声がピタリと止み、その方は、“神様―、私の罪を赦してください”とおっしゃってから、静かな寝息を立て始めたのだそうです。
 後日、その時の出来事を身元引受人の姪御さんにお話ししたら、“そうですか。安心しました。一生独身だった叔母には最終的に頼るものが神様しかいないんです。私は不信仰ですからよく分かりませんが、もう長くはない叔母にとって最終的に頼るものがあるということは、私にとっても嬉しいことです”と、しみじみとおっしゃったということです。この入所者の方は、その後ほどなくして、静かに安らかに召されたそうです。
 “最終的に頼るもの”を持っている。それは、人生平安の基(もとい)であり、私たちに希望を与えます。私たち一人ひとりに命を与え、そしていつか命を召される神さまを信頼して生きることができれば幸いです。



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