2011年11月20日 
  聖  書  ルカによる福音書5章33〜39節
  説教者  山岡 創

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」
     

 先週は、テレビをつけると、ニュースや報道番組で何度も“ボジョレ・ヌーボー解禁”という言葉を耳にしました。今年作られたボジョレ・ヌーボーが11月17日に販売制限が解禁され、発売が始まるというのです。これは、ワイン好きの人たちにとっては、おそらくたまらないグッドニュース、まさに“福音(ふくいん)”なのでしょう。
 インターネットで調べたボジョレ・ヌーボーについてのうん蓄をちょっと披露しますと、ボジョレ・ヌーボーというのは、フランスのボジョレ地方で採れるぶどうを原材料にした新酒です。普通のワインは枝を取り除き、実を潰してからタンクや樽に入れて発酵させるのですが、ボジョレ・ヌーボーは、房のまま入れて、房自体の重みで果汁を搾り出し、発酵させるので、風味が違うのだそうです。20世紀半ば頃からボジョレ・ヌーボーは世界的に有名になりましたが、売り手が早く売って儲けようとしたために、十分な発酵、熟成が進んでいない、質の悪いものが市場に出回り、一時ボジョレ・ヌーボーの名を落としめました。そこで、そのような事態を防ぐために、11月第3木曜日を解禁日と定めたということです。

 こんな話をすると、私はワイン好きだと思われるかも知れませんが、実は私、ワインはからっきしダメです。残念ながら酸味のきいた味わいが苦手で、味の良し悪しが分からず、自分では飲みません。
 けれども、今日の聖書箇所には、ちょうどぶどう酒のたとえが出て来ますので、今、巷(ちまた)で話題になっているボジョレ・ヌーボーのことを少しぐらいは知っておこうと思ったわけです。(皆さんも、ちょっと勉強になったでしょう?)
「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(37節)。
ぶどう酒やウイスキーなどは、発酵の過程でガスを出します。樽の中に入れておくと、樽の隙間から、そのガスが蒸発し、水分の量が目減りします。昔の人々はこの現象を不思議に思い、見えない天使がぶどう酒やウイスキーの味見をするから減るのだと考えて、この現象をエンジェル・シェア“天使の分け前”と呼びました。
聖書の舞台であるパレスチナ地方は、ぶどうがとてもよく採れる地域です。そのためぶどう酒作りも昔から行われてきました。けれども、2千年前のユダヤには、樽などという気の利いた入れ物はまだありませんでした。そこで、作ったぶどう酒を発酵、熟成されるために動物の革袋に入れたのです。
新しいぶどう酒は革袋の中で発酵ガスを出します。しかし、樽ではありませんので、ガスの逃げ場はありません。革袋はパンパンに張ってきます。もし革の伸び切った古い革袋に入れたら、袋はそれ以上伸びないので、破裂してしまいます。だから、新しいぶどう酒は、革がまだ伸びる余地のある新しい革袋に入れたのです。
また、継ぎ当てのたとえも同様の意味を表しており、着古し、洗い古して縮んだ服に、新しい布で継ぎ当てをすると、新しい布が後で縮んで、古い服と合わなくなると言うのです。
これらのたとえは、新しいものは古いものに合わない。新しい教えは、新しい心で、精神で、信仰で受け入れなければならないという意味を示しています。問題は、この新しいもの、古いものというのが、当時の人々にとって、そして現代の私たちにとって何なのか、ということです。

 事の発端は、人々が主イエスを非難したことにありました。
「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」(33節)。
「ヨハネの弟子たち」というのは、当時、洗礼者ヨハネというカリスマ的な人物がいました。すべての人に罪の悔い改めを求めて、ヨルダン川で悔い改めのしるしである水の洗礼を人々に授けた人でした。主イエスも、このヨハネから洗礼を受け、一時ヨハネのもとに留まっていた時期があったと思われます。「ヨハネの弟子たち」とは、この洗礼者ヨハネを指導者とし、その教えを奉じるユダヤ教の一派、一集団でした。
 「ファリサイ派の弟子たち」というのは、先週の説教でもお話ししたように、神の掟(おきて)である律法を熱心に守ることによって、神さまに認められ、神に選ばれた祝福の民として生きようとするユダヤ教の主流派でした。
 両者とも、度々断食と祈りをしていたと言います。断食は、悔い改めのしるしとして食事の全部、もしくは一部を抜く行いでした。祈りについては改めて説明しなくても良いでしょう。断食も祈りも律法に定められており、神さまに喜ばれる善い行いとして奨励されていました。
 ところが、主イエスの弟子たちは、律法で定められた断食や祈りをしなかったようです。代わりに、彼らは飲んだり食べたりばかりしていたようです。直前の27節以下〈レビを弟子にする〉という箇所でも、徴税人レビが主イエスに召され、弟子となった喜びから、主イエスのために設けた宴会の席で、主イエスと弟子たちは飲んだり食べたりしています。
 そういう様子が、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちと比べて、宗教的に、信仰的にどうなのか?不熱心ではないか?不真面目ではないか?不敬虔ではないか?神さまに対してふさわしくないのではないか?と、人々の目には映ったのでしょう。主イエスご自身が、大食漢で大酒飲みだと非難されている箇所もあります。
 ところで、私たちも“現代の主イエスの弟子たち”です。その私たちの目には、この弟子たちの姿はどのように映るでしょうか?もしかしたら私たちも、「人々」と同じように、主イエスとその弟子たちを非難するのではないか?私はふと、そのように思いました。
 私たちは、何事によらず、大概は、熱心で真面目なことが良い、と考えているでしょう。もちろん、徒(いたずら)に不真面目で、他人に迷惑をかけるような不熱心さは、よろしくないとは思います。そういう意味でも、熱心で真面目な方が良いと考える。
 だから、信仰的にも、真面目で、熱心で、敬虔(けいけん)なことが良いと考える。断食をし、お祈りをする。まじめに礼拝を守り、熱心に奉仕し、献金し、社会の人々のためにも活動する。そういうクリスチャンが良いクリスチャンだと考えます。礼拝(れいはい)を怠り、奉仕ができなかったりすると、自分も他人もダメなクリスチャンだと思ったりする。ましてお酒を飲んでどんちゃん騒ぎをしたり、煙草を吸ったり、遊んだりしているクリスチャンには、あまり良いイメージを持てないような思いがあるかも知れません。
 けれども、主イエスは、「人々」の非難はもっともだ、とは言っていないのです。私たちが同じような非難をするとしたら、それはもっともだ、とは言われないのです。むしろ、その非難とその基(もと)にあるものを、よく見つめ直してみよ、と言われるのです。
 もちろん、熱心で真面目で、礼拝を守り、祈り、奉仕し、献金し、社会のために働くクリスチャンそれ自体を、主イエスは否定しているわけではないと思います。問題は、そのようなクリスチャンとしての行いの“中味”を問い直せ、ということでしょう。

 私は、先月のディボーション講座で取り上げたマタイによる福音書6章にある主イエスの教えを思い起こしました。そこでは、ユダヤ教で奨励される3つの善行として、施(ほどこ)し、祈り、断食について教えられていました。そこで共通していたことは、これらの行いを、人前でするな、隠れたところで行いなさい、ということでした。どんなに善い行いでも、人に見られるように、人に褒められようとしてするなら、それは偽善である。人に見られないように隠れたところで行いなさい。そうすれば、神さまが隠れた行いを見ていて報いてくださる、と主イエスは言われます。もちろん、神の報いというのは、この世のご利益や物質的な幸福という意味ではなく、信仰的な、霊的なものでしょう。
 ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちの断食や祈りには、人に見せ、人に褒められようとする偽善が潜んでいたのではないでしょうか。それでは、どんなに熱心でも神さまに喜ばれるものにはなりません。本当の意味で、神さまの前に敬虔な信仰にはならず、自分のための行いになってしまいます。
 人に認められ、評価されなければ意味がないとするのが、この世の価値観であり、私たちの中にも、そのように考えているところがあるでしょう。そのような古い考えから、人が見ていてもいなくても、見えない神に喜ばれる生き方を追い求める。そういう中味を大切にする新しい生き方をするようにと、私たちは主イエスから求められているのです。

 もう一つ、主イエスの御(み)言葉で問われることは、その行いに“喜び”があるかという、やはり中味の問題だと思います。
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」
(34節)
 主イエスはここで、ご自分を「花婿」に、弟子たちを「婚礼の客」にたとえています。だから、主イエスと弟子たちの交わりは、言わば“結婚式の会場”です。すなわち、そこは“喜びの場所”なのです。
 喜びとは、主イエスに招かれている喜びです。神さまに愛され、救われている喜びです。自分が罪人(つみびと)でも、だめ人間でも、そんなことに関係なく、神の子として招かれ、愛され、救われている喜びです。宴会を開いて、飲んだり食べたりするのは、その喜びのしるし、喜びが形となって現われたものです。徴税人レビがそうです。同じルカ福音書19章に出て来る徴税人ザアカイもそうです。救われた喜びが、そうさせるのです。
 ところが、神さまに救われた喜びがないと、行いは“しなければならない”という義務的な、形式的なものになります。喜びという中味がないから、人に見られて褒められるという、全く違う意味の喜びを行いに求めるようになるのです。それでは、私たちの人生を生き生きと活かす、喜びという核が信仰から無くなってしまいます。
 私たちクリスチャンにとって、熱心で真面目だということが能ではないのです。信仰にとって、行いが大切なのではないのです。極端に言えば、誤解を恐れずに言えば、善い行いなどなくても良い。悪い意味で義務的に、形式的なものになるなら、行いなどしない方がよいぐらいです。
 そうではなくて、私たちの信仰には喜びがあるか?私たちの人生には救われた感謝があるか?そこが大切なところです。信仰を持って生きる私たちの人生は、そしてクリスチャンの集まりである教会は、主イエスという花婿を迎えた結婚式場、喜びの場所なのです。行いではなく、本当に喜びが、感謝があるかが大切です。そこから、互いに愛し合う思いやり、愛が生まれます。
 義務的で、形式的な生き方、行いとその批判的態度から、内面的な喜びと愛へ。古いものから新しいものへ。そのために、私たちの信仰も、御言葉によって常に新しくされる必要があります。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10章17節、今年度の教会標語)。アーメン




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