2011年11月27日 アドヴェント第一主日・大人と子供の礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書1章26〜38節
  説教者  山岡 創

「神の言葉が成るように」
     

 今日、教会に来たら、みんな、教会の雰囲気が変わっていることに、すぐに気がついたことでしょう。玄関には丸いリースが掛かっています。ロビーにはクリスマスのクリブ(人形)が飾られ、道路から見えます。そして、礼拝(れいはい)堂にはキャンドルを灯すリースがオルガンの上に乗っています。他にも所々、クリスマスの飾り付けがされています。そうです。今日から12月25日のクリスマス、イエスさまの誕生日を待ち望むアドヴェントが始まりました。
 アドヴェントとは、ラテン語という言葉で“やって来る”という意味です。イエスさまがやって来る。目には見えないけれど、私たちの心の中にやって来る。私たちの心を愛で温めてくれる。そういう意味で、私たちの心の中にイエスさまが生まれます。それがクリスマスです。
 今日は第1のキャンドルに灯がともりました。今年は5本のキャンドルに灯がともるとき、クリスマスを迎えます。

 ところで、聖書に描かれているクリスマス物語には、いろいろな人が登場しますが、今日は、イエスさまのお母さんとなるマリアさんについて聖書からお話しましょう。
 マリアさんは、ナザレという村に住む少女。まだ日本の中学生ぐらいの年だったと思われます。と言っても、2千年前のユダヤでは、もう“大人”として扱われました。
 そして、マリアにはヨセフさんという婚約者がいました。夏の小学生合同キャンプで、イスラエルの英雄で、神さまを信じる信仰も深かったダビデ王のことを学んだのを覚えていますか?ヨセフは、そのダビデ王の子孫、千年後の子孫でした。
 さて、そんなマリアのところに、ガブリエルという天使がやって来ました。目に見えたのか、それとも心の中だったのか、あるいは夢の中だったのか、分かりません。ただ、天使の告げる言葉ははっきりと、マリアの心の中に残ったようです。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。
 天使はマリアにこう言いました。でも、マリアは、何がおめでとうなのか、分かりません。誕生日ではないし、特別良いことがあったわけでもないし、「おめでとう」と言われる理由がないのです。
 すると、天使は続けて言いました。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(31節)。
 マリアがお腹に赤ちゃんを身ごもって、男の子を産むことになるから、おめでとうと天使は言ったのです。普通、赤ちゃんを身ごもって生まれたら、そのお母さん(やお父さんに)おめでとう、と言いますね。この前の23日のチャペル・コンサートに、さいたま市の方から電車に乗って、T.Eさんという方が、2歳のMちゃんを連れて来てくれました。Tさんは結婚して引っ越しをする前は、この教会に来ていて、子どもチャペルのお手伝いもしてくださった人です。コンサートの後で、ちょっとお話をしたら、お腹に赤ちゃんを身ごもっていて、3月が出産予定日だそうです。そんな話を聞くと、ちょっと早いけど“おめでとう”という気持になりますね。天使ガブリエルも、マリアに赤ちゃんが生まれるから、おめでとうと言ったのです。
 でも、マリアは“まあ、嬉しい”という気持になれませんでした。嬉しいどころか、とても困ってしまったのです。そのわけは、まだヨセフと結婚していないからでした。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)
 あり得ないことが起こる。あってほしくないことが起こる。周りの人からも“あの人、おかしい”と陰口を言われるかも知れない。マリアは困ってしまって、“どうして”と叫びました。
 すると、天使はマリアに、親戚のエリサベトの話を聞かせてくれました。エリサベトは、とても年をとっていました。赤ちゃんが欲しいと願い続けましたが生まれず、周りの人も本人も、もう赤ちゃんは生まれないと思っていました。ところが、その年をとったエリサベトが身ごもっているというのです。そして、天使はマリアに言いました。
「神にできないことは何一つない」(37節)。
 年をとったエリサベトを身ごもらせることができる神さまに、いや天地とそこに生きるすべての命を生み出した神さまに、「できないことは何一つない」のです。
 その言葉を聞いて、マリアは、神さまを信頼しようと思い直しました。そして、こう言いました。
「わたしは主(しゅ)のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。
 わたしは神さまの女のしもべです。神さまのものです。だから、神さまの言うとおり、思うとおりのことが、私に起こりますように。マリアは、神さまを信じて、自分に起こった不思議な出来事、苦しみ、困ってしまうような出来事を受け入れる勇気を与えられたのだと思います。

 ところで、今日の説教を準備するとき、『教師の友』という本を読んでいたら、宮城県のN教会のことが載っていました。N教会は、今年3月11日の東日本大震災で被災した教会です。教会を長く支えて来た教会員が津波で亡くなったとありました。
 私は、4月の終りに、4人で宮城県の教会をお訪ねした際、このN教会に一晩泊めていただきました。教会の壁にはひびが入り、礼拝堂の天井もはがれ落ちている部分がありました。
 4月からこの教会に、A牧師先生のご家族がやって来ました。そして、A先生のおうちの3人の子どもたちと、教会学校(子どもチャペル)の責任者のIさんという方とで、それまで0名だった教会学校が再開されたということが載っていました。Iさんも、津波で家を流され、失ったそうです。“どうして、そのようなことが!”と叫びたくなるような、苦しい出来事だったと思います。
 けれども、“どうして!”と叫び、“もう神さまなんて、信じられません”で終わらなかった。信じることをやめなかった。教会から離れなかった。そして、教会学校も再会した。それは、信仰と勇気のなせる業(わざ)だと思うのです。苦しいことも、辛い出来事も、神さまを信じて忍耐し、受け入れる勇気のしるしだと思います。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。
 N教会の人たちはきっと、この言葉のように生きている。そんな気がしました。

 私たちの人生にも色々なことが起こります。嬉しい楽しいこともあれば、苦しく悲しいことも起こります。でも、どんな時にも信じることをあきらめず、お互いに祈り合い、助け合って、マリアのように信仰と勇気を持って進みたいですね。



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