2011年12月4日 アドヴェント第二主日
  聖  書  ルカによる福音書1章39〜56節
  説教者  山岡 創

「信じる者の幸い」
     

 マリアは「山里」(39節)に向かいました。山里にあるユダの町に住む親類エリサベトを訪ねるためでした。なぜマリアはエリサベトを訪ねたのでしょうか? それは、天使のお告げの中に、エリサベトの話が出て来たからです。
 先週の礼拝で聞いた直前の箇所で、天使ガブリエルは、マリアに、聖霊によってあなたは神の子を身ごもると告げました。そして、その後で、こう言いました。
「あなたの親類エリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」
(37節)
 エリサベトも妊娠している。この話を聞いて、マリアは彼女を山里に訪ねる気になったのです。ところで、何のためにマリアはエリサベトを訪ねたのか、その目的について聖書は何も記してはいません。だから、推測になりますけれども、マリアは、年をとり、不妊の女と言われているエリサベトが本当に妊娠したのかどうかを確かめに行った、神の力を確かめに行ったのかも知れません。それとも、妊娠6か月を過ぎて、年をとったエリサベトには家事や身の回りのことが大変だろうと気遣って、手助けをするために訪ねたのかも知れません。あるいは、マリアが妊娠すれば、まだ結婚前のわけですから、当然、様々なうわさが立ち、後ろ指を指されることになるでしょう。当時の人々も、聖霊によって妊娠したと、単純に信じてくれたわけではないのです。だから、そのような周りのうわさや中傷を避けるために、マリアは、エリサベトのもとに避難したのかも知れません。
 おそらく一つではなく、様々な目的や理由がマリアの心の中に混じり合っていたことでしょう。ただ、この時、マリアの胸中は相当に混乱していたに違いないと思われます。天使から、聖霊による神の子の妊娠を告げられて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と応(こた)えたものの、それで整理がつくかと言えば、小さな少女にとっては、あまり大きすぎる、背負うに堪(た)えない問題だったでしょう。信じるって、そんなに簡単なことではないのです。天使が去った後で、小さなマリアは尚も、どうしたら良いのかと迷い、戸惑い、悩んだのではないでしょうか。その時、思い浮かんだのがエリサベトのことだったのだと思います。そうだ!エリサベトのところに行ってみよう。エリサベトに自分の苦しい胸の内を打ち明けてみよう。そうしたら、何か大切なことに気づくかも知れない。整理がつくかも知れない。そう直感して、マリアはエリサベトのもとに向かった。そんな気がします。おそらく、マリアは以前からエリサベトという親類がいることを知っていたのでしょう。いや、もしかしたら会ったこともあったのかも知れません。

 混乱した胸中を抱えて、マリアはエリサベトを訪ねました。そして、エリサベトに「挨拶した」(40節)とあります。人に会えば挨拶するのは当然ですが、これが喜びの挨拶、祝福の挨拶であれば、エリサベトも当然、喜びと祝福の挨拶で応えたことでしょう。実際、エリサベトの挨拶は、喜びと祝福に満ちあふれています。
 けれども、私には、これが“単純に”喜びと祝福の挨拶だとは思えないのです。と言うのは、もしもマリアが、聖霊による神の子の妊娠ということを受け止め切れず、混乱し、苦しみ悩んだ胸中を抱えてエリサベトのもとを訪れたのだとすれば、もちろん最初に、エリサベトの妊娠に対して喜びと祝福の挨拶をしたでしょうが、その後で、“実は‥”と言って、自分の戸惑い、迷い、苦しみ悩みを打ち明けたに違いないからです。それに対するエリサベトの言葉だとすれば、それは、表面的には喜びと祝福の言葉だとしても、中味は違う意味を持っていると思うのです。
 エリサベトの言葉には、聖霊による神の子の妊娠という現実に迷い、悩み、受け入れられずにいるマリアに対する“励まし”の意味がある。そして、この問題で神さまを信じ切れずにいるマリアを支え、勇気づける意味があると思います。
 あなたは、聖霊による妊娠という、受け入れ難い出来事に戸惑い、迷っている。そして、周りの人のうわさや中傷に苦しみ悩んでいる。その迷い、苦しみはよく分かる。けれども、その迷いや苦しみに飲み込まれ、支配されなくていい。“自分”の視点(してん)ではなく、“神さま”の視点で見てご覧なさい。つまり神さまの御言葉によって見直してご覧なさい。神さまはあなたに何と言っているかしら。神さまはあなたを愛しているわ。あなたは神さまに祝福されているのよ。妊娠したあなたの子も祝福されているのよ。ほら、わたしのお腹の子だって、あなたの挨拶を聞いたら喜んで踊ったんだから。迷う必要なんてないわ。神さまの言葉を信じて従う人は、なんと幸いでしょう。‥‥‥。
 エリサベトは、こんなふうに、戸惑い、迷い、苦しむマリアを励まし、勇気づけたのだと思います。それが、長い人生の歩みの中で、多くの迷いや苦しみを味わって来た“信仰の先輩”としてのエリサベトの言葉の本当の意味ではないでしょうか。そして、エリサベトの言葉によって、マリアの、迷い苦しんでいた胸に光が差したのです。迷い苦しみの小さな殻(から)が破れ、神さまの大きな愛の懐(ふところ)に、信じて飛び込み、ゆだねることができたのです。
 生きることは迷いだらけだなあ、悩みだらけだなあ、と感じることが少なからずあります。焦りを覚えます。自分のちっぽけさを感じます。生きているのが嫌になることもあります。でも、神さまの目で自分を見直すと、こんな私でもたくさんの愛に包まれているんだなあ、と祝福を感じます。神の言葉で自分をとらえ直すと、こんな自分でも生きている価値があるんだなあ、意味があるんだなあ、と喜びが湧いて来ます。そういう幸いに気づく心、感じる心、それが“信仰”です。
 そして、そういう信仰は、自分独りでは造り上げることができない。マリアにはエリサベトがいたように、共に生きる信仰の仲間がいて、友がいて、お互いに苦しみ迷いを聞き合い、慰め励まし合い、祈り合うことで初めて、私たちの信仰は支えられ、成長し、造り上げられていくのではないでしょうか。

 そのような信仰から喜びが生まれます。感謝が生まれます。喜びと感謝の歌が生まれます。〈マリアの賛歌〉は、そのようにして生まれたに違いありません。
 マリアは歌います。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」(47〜48節)。
 「身分の低い」という言葉には“取るに足りない”という意味があるそうです。取るに足りる人だから、自分の力で立派に生きている人だから、神さまは目を留めてくださったのではない。迷い、悩み、焦り、自分のちっぽけさを感じ、生きていることが嫌になるような、取るに足りない自分に、神さまが目を留めてくださっている。愛のまなざしで見守ってくださっている。その幸いに気づいた喜びと感謝がほとばしっています。
 今日は礼拝において、Mさんの転入会式を行いました。私たちの教会に新しい一員、新しい仲間が加わったことを、とても嬉しく思います。それは、お互いに聞き合い、慰め励まし合い、祈り合う仲間が、御言葉の幸いを分かち合い、信仰生活を支え合う友が新たに一人増やされた、ということです。感謝なことです。
 先週、Mさんと2回目の転入会のためのガイダンスを行いました。私たちの教会が属している日本基督教団の信仰告白を信じて告白するとはどういうことかを学びながら、信仰についてご一緒に考える時間を持ちました。
 そのガイダンスの中で、主イエスの弟子たちが、捕らえられ、十字架に架けられる主イエスを見捨て、裏切ったときに初めて、自分の弱さ、醜さ、罪深さを知った。しかし、その時にこそ、復活した主イエスの愛と赦しの恵みを本当に受け止めることができた、というお話をさせていただきました。
 私たちもそうです。人生、うまく行くに越したことはありません。けれども、それを自分の力だ、私は自分の力で立派に生きている。間違わず、正しく生きていると思っているとき、私たちは本気で神さまを必要としてはいないのではないでしょうか。“取るに足りない自分”と感じているときにこそ、むしろ神さまに愛されていることに気づきます。強く感じます。迷いだらけ、悩みだらけ。でも、そこで神さまと出会えたなら、私たちはマリアのように、喜びと感謝の賛美を歌いながら、立ち上がることができます。信仰によって生きていくことができます。



   ウィンドウを閉じる