2011年12月11日 アドヴェント第三主日
  聖  書  ルカによる福音書1章57〜80節
  説教者  山岡 創

「心からほとばしる賛美」
     

 主イエスの母となるマリアの親族エリサベト。彼女には子どもがなく、年老いてもはや子は産めないと思われていたのに、子宝を授かりました。そして、「月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ」(57節)という言葉から、今日の聖書箇所は始まります。近所の人々や親類の人々は、エリサベトの出産を喜び合いました。
 さて、赤ちゃんが生まれて8日目、割礼(かつれい)と命名の時がやって来ました。割礼は、ユダヤ人の男子が、自分は確かに神さまに選らばれた民族(イスラエル)に属していることを証明するために、体にあるしるしを刻(きざ)む儀式でした。その儀式を、生まれて8日目にするようにと、律法の掟に、旧約聖書に記されています。そして、その時に名前を付ける習慣だったのでしょう。「八日目に、その子に割礼を施(ほどこ)すために来た人々は、父の名をとってザカリアと名付けようとした」(59節)とあります。親族一党、一族の中に、名付け親のような存在の人々がいたものと思われます。そういう人々が、父親の名をとってザカリアと命名しようとした。“ザカリア・ジュニア”です。61節の「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」という言葉から察するに、生まれた子には父親もしくは親類と同じ名前を付ける習慣があったものと思われます。
 ところが、エリサベトはその名前に反対して、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」(60節)と答えたというのです。

 古今東西、生まれた子どもに名前を付けるということには、それぞれ習慣や意味があると思います。今、我が家は、水曜日の夜に放映している〈家政婦のミタ〉という家族ドラマにはまっています。そこに出て来る家族は、子どもが4人ですが、ある日、父親が子どもたちに名前の意味を教えるシーンがありました。長女・結は、家族がバラバラになりそうな時に結ぶように、長男・かけるは、家族が困ったときに駆けつける人になるように、次男・かいとは、家族のために解答を出すような人になるように、次女・きいは、英語で“鍵”を表すキーからとられた名前で、家族のために幸せの扉を開ける、という意味で名付けられたというのです。なかなか素敵な意味がある、と思いました。
 私は、我が家と長女の名前が“結”で同じだ、でも、うちは家族を結ぶんじゃなくて、神さまと自分を結ぶという意味で、コロサイの信徒への手紙2章から取ったものです。我が家の子どもたちは皆、聖書の御言葉から命名しました。クリスチャン、特に両親共にクリスチャンであれば、子どもに聖書や信仰にちなんだ名前を付けることが多いだろうと思います。
 ちなみに、ある本を読んでいましたら、その中に、欧米の人たちは皆、子どもに聖書の登場人物と同じ名前を付ける、聖書の人物のようになるようにとの願いを込めてつけると書かれていました。例えば、ピーターはペトロですし、ミッキーは天使ミカエルからです。私は、そのこと自体は知っていたのですが、その本の中には、欧米の命名辞典には、聖書の人物名ばかりが載(の)っていて、しかも、そこに載っている名前以外の名前を使うことはできない、日本のように勝手に名前を作ることはできない、と記されていました。“えーっ! 名前、自由に作れないの?”と驚きを覚えますが、それが欧米の命名の習慣なのでしょう。
 2千年前のユダヤ人は、父親か親類一族の名前をとって付けるのが習慣だったようです。だから、一族の人々は、子どもにザカリアと名付けようとしました。ところが、エリサベトがそれに反対しました。習慣を破る言動です。人々は、親類にヨハネという名前の人はいないと言って、そばにいた父親のザカリアに、「何と名を付けたいか」(62節)と尋ねました。すると、当のザカリアまでが、「この子の名はヨハネ」(63節)と示したので、人々は驚いてしまいました。なぜザカリアとエリサベトは、ユダヤ人の習慣を破ってでも、ヨハネと名付けようとしたのでしょうか。それは、ヨハネという名前が、神さまから付けるようにと示された名前、つまり神さまの御心だったからです。

 実はこの時、ザカリアは口がきけませんでした。人々が「何と名を付けたいか」と、口ではなく手振りで尋ねたとありますから、耳も聞こえなかったのかも知れません。耳はともかく、彼がなぜ口をきけなかったかと言えば、神さまによって口をきけなくされたからです。
 今日の聖書箇所には前編がありまして、それは1章5〜25節ですが、そこには、ザカリアが口をきけなくなるわけが書かれています。ザカリアは、神殿で神さまのために香を焚(た)いているとき、天使ガブリエルの幻を見ました。天使は、年をとったザカリア夫婦に男の子が授けられる、その子をヨハネと名付けよ、この子はキリストを指し示す先駆者となる、と告げました。けれども、年をとっているので、そのお告げを信じられないザカリアは、「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか」(18節)と、天使に動かぬ証拠を求めました。神の言葉を信じずに、目に見える証拠を求めたのです。その結果、これが証拠だ!と、ザカリアは口がきけなくされました。口が突然きけなくなったことが目に見える証拠であると同時に、不信仰なザカリアに悔い改めを求める罰でもありました。
 なぜザカリアは口がきけなくされたのでしょう。それは、証拠と罰だと今申しました。けれども、私は、もっと大切な意味があるのではないかと思います。
 私たちは、口がきけなくなったら、黙っているしかありません。人とコミュニケーションをする場合には、黙って相手の言葉を聞く以外にありません。そして、神さまとの霊的なコミュニケーションという意味で言えば、ザカリアは、自分の言い分をしゃべらず、黙して、神の言葉を聞くという姿勢に、強制的に変えられたということではないでしょうか。そうでなければ、信仰による神の恵みは分からないからです。
 今年度の私たちの教会標語にも、信仰は神の言葉を聞くことから始まる、とあります。けれども、私たちは、自分の方がしゃべってしまうことが多いのではないでしょうか。それが必ずしも悪いというわけではありませんが、私たちは、人に対しても、そして神さまに対しても、聞くよりしゃべってしまう方が多いかも知れません。自分の考え、自分の気持、自分の願い、自分の価値観、自分の言い訳や自己弁護‥‥‥私たちは、そういうものをしゃべってしまう。口で直接言わなくても、それらが自分の心をいっぱいに占めている。つまり、“私が、私が”と自分中心になっている。それでは、神の恵みに気づくことができないし、味わえないのです。
 牧師で、カウンセリングの専門家でもある加来周一氏が描いた『クリスマスの風景』という本の中に、次のような言葉がありました。
  ときとして、わたしたちは、自分にとって都合のよいことが起こったときに賛美し、恵みにあずかりたい一心で信仰の世界に入ることをさほど不自然とは思わない傾向があります。しかし、そこには一つの落とし穴があることに気づく必要がありましょう。落とし穴とは、わたしが主人公になる信仰です。そうなると、わたしが不信仰のさなかにあるときには、神はどこにもおいでにならないかのように思うでしょう。わたしが絶望の中に沈んでいるときは、神は無力なお方になってしまいます。神は信じるに値するのか、それともしないのかと信仰の世界が揺れるときがあるとすれば、それは、自分を中心にして信仰の世界を考えるからです。(『クリスマスの風景』80頁)
 ザカリアも、自分の考えと願いを主張して、自分を中心にして考えたために、信仰の世界が揺れたのです。不信仰に陥ったのです。そのザカリアを黙らせて、まず神の言葉を、神の御心を聞く者とされた。“私が、私が”ではなく、“神が”何を願っておられるかを聞き、従い、“神が”なさることを受け止める姿勢へと変えられたのです。
 その姿勢が、今日の聖書箇所にあるヨハネの命名に現われているのです。自分の考え、人間の考えや習慣に従っていたら、ザカリアと名付けていたでしょう。でも、そうではなくて、神さまを中心に、ヨハネと名付けよとの神の言葉、神の御心に従ったからこそ、ヨハネと名付けたのです。

 その時、きけなかったザカリアの「口が開き、舌がほどけ」、彼は「神を賛美し始め」(64節)ました。“私が”と、自分の願いや言い訳を主張する自分中心な信仰ではなく、“神さまが”語る言葉を聞き、なさることを受け止める神中心の信仰に変えられるとき、そこには今までのような自己主張ではなく、心から神さまをほめ歌う賛美が生まれます。神の恵みに気づき、味わったからです。
 そのようにして生まれた賛美の歌が、67節以下の〈ザカリアの預言〉です。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」(68節)。
「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇(くらやみ)と死の影に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(78〜79節)。
 先ほど引用した加来先生の本の中に、更にこのようにありました。
  ある人が、「信仰を持つ前までは、あれこれと希望することがたくさんあったが、どれひとつ取っても、満足のいくように願いがかなったことはなかった。しかし、信仰が与えられた今、改めて我が身に起こったことを振り返ってみると、わたしの人生にもっともふさわしいことであったり、重要な意味のあることであった。すべては神の恵みであったと思う。恵みは後にならないと分からない」と言いましたが、ザカリアが「ヨハネ」つまり「主は恵み深い」とわが子に命名したのは、よくその信仰を表しています。恵みは数えるものだと言われますが、あらかじめ期待するものではなく、ふり返ってひとつひとつ数えるように発見することだということです(前掲書73頁)
 あらかじめ“ああしてください、こうしてください”と期待する信仰ではなく、ふり返って“神さまがああしてくださった、こうしてくださった”と数えてみる時、“神さま、確かに受け取りました。ありがとうございました”と、神の恵みをしみじみと味わうことができるようになるのです。
 私たちの人生も“主は恵み深い”と心から歌えるように、信仰の道を歩ませていただきたいものです。



   ウィンドウを閉じる