2011年12月18日 アドヴェント第四主日
  聖  書  ルカによる福音書2章1〜7節
  説教者  山岡 創

「神が泊まる場所」
     

 クリスマスのシーズンになると、礼拝説教で取り上げるか否かに関わらず、今日の聖書箇所、ルカによる福音書2章1〜7節を読む機会があります。そして、この御言葉を読む度に、考えさせられることが、御言葉に問われることがあります。“あなたのところには、ヨセフとマリアを、主イエス・キリストを泊める場所がありますか?”と。この時期、慌(あわ)ただしく過ごしていると、余計にこの御言葉にハッとさせられるのかも知れません。

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(7節)。
と記(しる)されています。住んでいたナザレからベツレヘムへ、140キロ余りの旅をして来たヨセフとマリアに、泊まる場所はありませんでした。
 どうしてそのような旅をしなければならなかったのか。「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令(ちょくれい)が出た」(1節)からです。
 今から約2千年前当時のユダヤ人は、ローマ帝国に支配されていました。そのローマ帝国の支配者である皇帝アウグストゥスから、住民登録の勅令が出されました。これは、人頭税という税金を取るために行われたと言われています。そのために帝国内にどれだけの住民が住んでいるかを調べたのです。そのためにヨセフとマリアはベツレヘムへ旅をしました。どうして住んでいる場所で住民登録をしないのだろう? そうすれば簡単じゃないか、と思うのですが、ユダヤの人々はそうしませんでした。彼らは、「血筋」(4節)というものを、とても重んじる民族でした。そのために、彼らはそれぞれ自分の先祖発祥(はっしょう)の地へ帰って登録することにしたのです。それで、ヨセフも先祖の町、「ダビデの町」(4節)へ上って行ったのです。
 ところが、ベツレヘムは、同じように登録するためにやって来た人々でごった返し、宿も取れませんでした。ユダヤ人の掟には、旅をする人を親切にもてなすようにとの教えがありますから、ベツレヘムの人々はできるだけ旅人を自宅に泊(と)めたものと思われます。それでも間に合わないほどに、人がいっぱいだったのでしょう。
 しかも、マリアは身重でした。そして、宿も決まらないまま陣痛が起こり、出産することになったのです。「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(7節)とありますが、「飼い葉桶」という言葉から、出産は家畜小屋の片隅で行われたと想像されます。場所ならぬ場所で迎えた出産、マリアとヨセフはどんなに不安だったでしょうか。
 日本でも現在、産婦人科の数が減っていて、出産のできる病院・医院が少なくなっています。私たち夫婦は5人の出産を経験しましたが、そのうち最初の3人がお世話になった市内の医院は、だいぶ前に産科がなくなって婦人科だけになり、出産はできなくなりました。そんな状況で、今、妊婦の方は病院に予約をしておかないと出産ができない。それでも、自分が住んでいる町でも、実家のある町でも、予約が取れないケースが少なくないと聞きます。安心して出産のできない現状です。
 マリアもどんなに不安だったでしょうか。もちろん当時は産院などなかったでしょうが、産婆(さんば)さんはいただろうと思います。けれども、旅先でごった返し、その産婆さんも見つからない。泊まる宿もない。マリアもそうですが、もし私がヨセフの立場だったら、初めての経験で、不安と焦(あせ)りでパニックだったに違いないと思います。どうして自分たちがこんな目に遭(あ)わなければならないのか、と思ったかも知れません。
 そんな中で、主イエス・キリストはお生まれになりました。二人にとって、不安と焦りの「場所」は、産声を聞いたとき、喜びの「場所」に変わったことでしょう。家畜小屋の片隅は、二人にとって、いや三人にとって、確かな「場所」となったのです。空間の問題ではなく、希望と喜びが、彼らに、精神的な落ち着きの「場所」を与えたのです。

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。
 この御言葉は、私たちに、人生における「場所」の問題を提示(ていじ)します。私には、空間的な「場所」以上に、精神的な「場所」の問題として、つまり“居場所”の問題として感じられます。
 職場に自分の居場所がない。学校に居場所がない。家庭に居場所がない。この社会の中に居場所がない。私たちは、そういう苦しみ悩みを感じることがあります。自分がだれからも必要とされていない。何の役にも立っていない。だれからも認められていない。愛されていない。別の言い方をすれば、だれともつながっておらず、どこにも属していない、と言ってもいい。そんな思いを感じるとき、私たちは、自分が安心して居られる居場所がどこにもないように感じるのです。自分には価値がないと感じるからです。
 皆さんは、死にたいと思ったことがありますか? そう思ったことがある人の中には、その理由として、自分には、安心していられる人生の“居場所”がないと感じたことのある人がいるはずです。無意識だったかも知れませんが、そういう理由で死を考えたことのある人がいるはずです。人生に、そしてこの世に、自分の居場所がないと感じたら、詰(つ)まるところ、死ぬ以外にないという気持に追い込まれます。居場所の問題は、私たちにとって、それほどに重いのです。
 主イエスが、泊まる場所のない所に生まれてくださったということは、神さまが、居場所のない私たちの苦しみ、悩みを味わい知り、それ故に、その苦しみから私たちを救い出してくださるためだったかも知れないと、私は思います。
 もしも、職場に、学校に、家庭に、自分の居場所がないとしても、この社会の中に居場所がないと感じるとしても、神さまは“あなたを愛している” “あなたは私の愛する子どもだ”と言われるその御言葉と愛によって、神さまご自身が、主イエスご自身が、私たちの居場所となってくださる。神の愛そのものが、私たちの魂の居場所、人生の居場所になるのです。
 先月11月に、私たちの教会で初めてのチャペル・コンサートが行われました。張愛姈さんが弾いてくださったマリンバの演奏の中に、〈君は愛されるため生まれた〉という韓国生まれの曲があったのを、参加された方は覚えておられるでしょうか。
   きみは愛されるため生まれた  きみの生涯は愛で満ちている
   きみは愛されるため生まれた  今もその愛、受けている
この曲について、こんなエピソードがあります。長崎の町で、ある中学生たちが、自分の人生を呪い、恨み、自分はなぜ生まれて来たのかと苦しんでいました。そんな彼らが、教会を訪れ、牧師にその悩みを打ち明け、ぶつけました。牧師も、簡単には答えようも、慰めようもなかったと思います。そのとき、牧師が意図的に掛けたのかどうか分かりませんが、彼らがこの曲を聞いて、感動に涙を流し、自分の人生の居場所を、自分の価値を取り戻したというのです。
   きみは愛されるため生まれた  きみの生涯は愛で満ちている
   きみは愛されるため生まれた  今もその愛、受けている
 彼らは、この人生の意味に目が開かれたのです。この人生の価値を信じたのです。そこに、人生の居場所ができました。自分の心の内に、神の愛が宿る「場所」が生まれました。主イエスが泊まる「場所」が生まれました。信仰という名の「場所」、信仰という名の、主イエスが宿る“心の小部屋”です。
私は、主イエスが生まれるというのは、こういうことだと思っています。クリスマスとは、2千年前の出来事ではなくて、私たちの心の中に、主イエスが泊まる「場所」が生まれる、主イエスへの信仰が生まれるということです。
見えない、聞こえない、話せないという三重苦の人生を生きたヘレン・ケラーのことは多くの方がご存知かと思いますが、彼女の遺(のこ)した言葉に、次のようなものがあります。
  運命に打ち勝つためには、仕事と友人の慰めと、神は必ず良きように導いてくださるという確固たる信仰とが必要です。この信仰がなかったら、私の生活は無意味なものとなり、私は「闇の中の黒い柱に過ぎないもの」となるでしょう。人々は私を哀(あわ)れみますが、それは、私の生活の中に私が喜んで住んでいる黄金の部屋があることを知らないからです。私の行く手は暗黒のように見えますが、実はその反対に、心の中に魔法の光を宿し、強力な探照燈(サーチライト)である信仰が、前途を照らしてくれるのです。
 ヘレン・ケラーが“黄金の部屋”と呼んだものこそ、心の中の主イエスの宿る「場所」、信仰という心の小部屋だと私は思います。

 「泊まる場所」のなかった主イエスが、私たちに「場所」を与えてくださいました。神の愛の中に生きる居場所、主イエスと共に住まう喜びの場所、“黄金の部屋”です。この恵みのプレゼントを受け取ったら、私たちも主イエスに、“小さなプレゼント”をお返しできればと思います。それは、やはり私たちの心の中に、主イエスのために、主イエスが泊まる「場所」を用意することになります。黄金の部屋の隣に、小さな小部屋を増築するようなものです。それはどういうことでしょうか? 今日の聖書の中に、アウグストゥスという人物が出て来ました。最初に少し触(ふ)れましたが、彼はローマ帝国の初代皇帝です。独裁者となり、強大な権力を手にしました。同時に、アウグストゥスは、ローマの神々を統括(とうかつ)する神官の長となり、国家宗教の頂点にも立ちました。この時から、皇帝を神とする皇帝礼拝が盛んになったのです。
 だから、当時のキリスト者は、主イエス・キリストを神と信じるか、それとも皇帝を神とするかという、命を懸(か)けた選択を迫られました。そのような迫害の下で、彼らは地下の墓地でキリスト礼拝を守り続けました。主イエスが泊まる心の「場所」を、信仰を守り続けたのです。
 主イエス・キリストを神と信じ、従うか、それともローマ皇帝を神とするか。現代において、私たちも、この選択を問われていると思います。もちろん、皇帝がいて、キリスト教を迫害しているわけではありません。でも、ローマ皇帝とは言わば、“この世”の象徴です。この世の権力、地位、富、考え、価値観‥‥‥そういったものの象徴です。そういうこの世の良きものを自分の人生で一番とするか、それとも神の御心に、キリストの愛に従うか。それが私たちの信仰生活の大切な課題でありましょう。
 礼拝の初めに〈主の招きの詞(ことば)〉をいただきました。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12章1〜2)
 この世に倣わず、神の御心を汲(く)んで生きる。具体的にどのように生きるかは、それぞれの人生で違います。それを考え、黄金の部屋の隣に、私たちがキリストの大きな、大きな愛に応える小さな部屋、キリストの泊まる場所を築いていきましょう。



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