2011年12月25日 クリスマス礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書2章8〜20節
  説教者  山岡 創

「喜びを探し当てる」
     

 クリスマス・シーズンが来ると、必ずと言ってよいほど取り上げる今日の聖書箇所(かしょ)、何度も読み、そして語った聖書箇所です。
 そういうルカによる福音書2章8〜20節を黙想(もくそう)しながら、私はふと、初めてあることに気づかされました。それは、羊飼いたちは、一体どこで乳飲み子を探し当てたのか、どこに、天使が告げる「大きな喜び」(10節)を探し当てたのか、ということです。

 ベツレヘム近くの野原で、野宿しながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、天使から救い主誕生の知らせがあった。その救い主は、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている」(12節)と言います。それを聞いて羊飼いたちは、急いで探しに出かけたのですが、さて、彼らはどこに探しに行ったと思いますか?
 救い主は「飼い葉桶に寝ている」と言うのですから、そこから推測できるのは家畜小屋です。
 では、家畜小屋はどこにあったのでしょう? もしかしたら私たちは、野原で野宿していた羊飼いたちが街に向かい、家の裏側に付属している馬小屋や牛小屋のような場所を一軒一軒訪ね歩きながら、遂に飼い葉桶の乳飲み子を探し当てる羊飼いたちの姿を思い浮かべるかも知れません。
 その想像が合っているとか、間違っているとか言うつもりはありません。ただ、当時の家畜小屋は、家の隣に建てられた木製の小屋ではなくて、郊外の丘のような場所にある洞穴(ほらあな)だったと言われています。
 そこで私が思ったのは、その洞穴は他人の馬小屋でも、牛小屋でもなく、羊飼い自身が自分の飼っている羊を囲い、休ませる家畜小屋ではなかったろうか、ということです。そして野原から羊を休ませるために洞穴に帰ってきたら、中に見知らぬ若い夫婦がいた。しかも飼い葉桶には生まれたばかりの乳飲み子が寝かされていた、というサプライズな(びっくりした)光景だったのではないだろうかと想像するのです。
今までは私も、羊飼いたちは、救い主がいる家畜小屋を一軒一軒、探し歩いたのだと思っていました。しかし、ごく普通に考えて、羊飼いが野獣に襲われる危険のある野原に羊を置いたまま探しに行くはずがなく、また羊たちをゾロゾロと連れて、街中を一軒一軒探し歩くというのも考えにくいことです。とすれば、羊を休ませるために帰って来た洞穴に、ヨセフとマリア、飼い葉桶の乳飲み子イエス・キリストがおられたと考える方が、ずっと自然で辻褄(つじつま)が合うように思われます。
そして、そのような想像が許されるならば、羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」を、わざわざ探しに行ったのではなく、羊を放牧し、野宿し、羊を休ませるために家畜小屋に戻って来るという日常生活の中で探し当てたのではないかと考えられます。
救い主イエス・キリスト、天使が告げる喜びは、何か特別な生活や人生の場所で探し当てるものではなく、私たちが、自分自身の日常生活の中で探し当てるものだということを、私はこのことから示されています。

 しかも、それは、それが救いだ、喜びだとはっきりと分かるような、何か特別な姿形(すがたかたち)で日常生活の中にあるわけではありません。
 そこに近づいたら、病気や痛みが癒(いや)され、力がみなぎってくるような、パワー・スポットのような現象が起こっているとか、困っている問題がたちどころに解決されるとか、そういうことだったら、だれしも、ここに救いがある、喜びがあると分ったでしょう。
 けれども、羊飼いたちが見たものは、「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」でした。まあ確かに、家畜小屋の飼い葉桶の中に、生まれたばかりの赤ちゃんが寝かされていたという光景には驚いたかも知れません。けれども、事情を聴けば、さもありなんで、飼い葉桶に寝ている乳飲み子が、自分にとって救いだ、喜びだとは、普通は思わないでしょう。
 つまり、救いや喜びというものは、私たちの日常生活の中に、当たり前に過ごしていると気づかないようなものとしてある、隠されているということです。
 では、どうして羊飼いたちは、それが救い主であると、喜びであると気づくことができたのか、探し当てることができたのか。それは、天使のお告げがあったからです。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。‥‥‥あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(11〜12節)。
 このお告げがあったからこそ、羊飼いたちは、日常生活の中の一場面、一つの出来事の中にある救い、喜びに気づくことができた。探し当てることができたのです。

 救いの喜びは、何か特別な事が起こったからあるのではなく、日常生活の中に、当たり前のような事の中にあるのです。隠されているのです。探し当てるのでなければ、気づかず、見つからないものです。
 俗な話になりますが、23日の夜、テレビ朝日で〈ミュージック・ステーション・スーパーライブ2011〉という番組が放映されていました。いつもより時間を延長した特別企画で、あの世界の歌姫、レディ・ガガも最後に出演しました。
 今日の御言葉を黙想しながら、その番組の出演者の中で私が思い起こしたのは、絢香という24歳の女性歌手でした。彼女はバセドー病を患い、2009年のNHK紅白歌合戦を最後に、約2年間活動を休止し、病の治療をしていました。それが、2年ぶりに表舞台に戻って来たのです。2曲を歌い終わった後、目にうっすらと涙を浮かべて、“歌えることの喜びをかみしめられたので、楽しかったです”と感無量で言われました。そして、司会者から2年間の闘病生活について問われると、このように語りました。
 今まで気づかなかった小さな幸せに気づくことができました。「ごはんがおいしくできた」「おいしいお店を発見した」とか、そんな幸せを一つ一つ感じられて、意味のある時間でした。
 その言葉が、私にはとても印象的でした。絢香さんは、日常生活の1コマ1コマに隠されていた幸せに気づき、探し当てたのです。それは、彼女が今までどおりの生活、活動を送っていたら、気づかなかったことかも知れません。病気が彼女にとっては、きっかけとなった。それが人生の啓示(けいじ)、すなわち聖書で言うところの天使のお告げだと言ってもよいでしょう。
 私たちも、当たり前に生活していると、神さまが私たちの日常生活の中にプレゼントしてくださっている救いの喜びに気づかないかも知れません。そんな時、病や苦しみが、それに気づかせる天の声になる場合があります。苦しいけれど、悲しいけれど、人生に無意味なこと、無駄なことはないのでしょう。
 しかし、だからと言って、自分から病や苦しみ悲しみを願い求めるのはナンセンスです。そうではなくて、私たちの日常生活の中にも届いてくる天使のお告げがあります。それが、聖書の御言葉です。羊飼たちは、天使を通して神の御心が告げられ、その言葉に従って行動し、「見聞きしたことがすべて天使の話した通りだった」(20節)という喜びを味わったように、私たちにも一人ひとりの日常生活の中に語りかけられる天使のお告げ、聖書の御言葉があります。
 12月のディボーション講座では、今日と同じ聖書箇所を黙想し、分かち合いました。12月は牧師である私にとって、嬉しい季節でもある反面、非常に忙しくなり、そう言っては何ですが、ちょっと嫌な時期でもあるのです。不平や愚痴(ぐち)がこぼれます。
けれども、私はディボーションから、どんなに忙しくても不平を言わない、愚痴をこぼさない。できないことも、不足していることも嘆かずに受け入れる。そうしてこのクリスマスを楽しむ。そのように御言葉から示され、心に決めていました。
 そして、昨日のキャンドルサービスの時、聖歌隊が歌う賛美を聞きながら、しみじみと“ああ、教会っていいなあ。クリスマスっていいなあ”と喜びをかみしめました。
 神さまは、私たちに独り子イエス・キリストをプレゼントしてくださいました。キリストを通して私たちの日常生活に伴(ともな)ってくださり、愛のやさしさで包んでくださっています。その、見えないけれど、大切な宝物を探し当てて、喜びに包まれる人生を歩んで行きましょう。



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