2012年1月29日 大人と子供の礼拝説教
  聖  書  創世記45章1〜8節
  説教者  山岡 創

「わたしを遣わしたのは、神です」
     

 1月の子ども礼拝では、創世記のヨセフ物語のお話を、続けて聞きました。
ヨセフはヤコブの息子で、11人兄弟の末っ子でした。末っ子で、ヤコブが年をとってから生まれた子どもだったせいか、お父さんのヤコブにとてもかわいがられました。ヨセフだけが、すてきな服をプレゼントしてもらったりしました。
そんなふうに一人だけかわいがられたので、我がままに、生意気(なまいき)に育って行きました。ある時、お兄さんたちの収穫した麦の束が、自分の麦の束の周りに集まって来て、ひれ伏して“ははっ”とおじぎをした夢を見たと言って、ヨセフはお兄さんたちを怒らせました。その夢の話を聞いたお兄さんたちは、自分たちがヨセフの手下になると思ったからです。ヨセフはKY(空気、読めない)人間だったんだね。そんなふうなので、お兄さんたちはヨセフを憎み、好きになれませんでした。

 ある日、お兄さんたちが羊の群れを連れて野原にいたとき、ヨセフが一人でやって来ました。それを見たお兄さんたちは、ヨセフを穴に突き落とし、その後、相談して、ヨセフを旅の商人に売ってしまいました。お父さんのヤコブには、羊の血をつけたヨセフの服を見せて、ヨセフは野原で獣に食べられてしまったと、嘘の報告をしました。
 さて、商人によってエジプトに連れて行かれたヨセフは、奴隷としてポティファルという役人に売られました。奴隷と言えば、とても辛い生活です。けれども、ヨセフは賢くて、よく働くので、ポティファルはヨセフのことを気に入り、信頼して全財産を管理することを任せてくれました。
 ところが、何も悪いことをしていないのに、ヨセフは、ポティファルの妻に訴えられ、嘘の罪を着せられて、牢屋に2年間も入れられてしまいました。
 そんなふうに、ヨセフが牢屋で過ごしていたある日、エジプトの王様が不思議な夢を見ました。ナイル川から、丸々と太った7頭の雌(め)牛が上がって来た。ところが、その後で痩せて醜い7頭の雌牛が上がって来て、太った雌牛を食べてしまったという夢です。また、7本のよく実った麦の穂を、後から生えて来た干からびた麦の穂が飲み込んでしまったという夢も見ました。王様は、気になって気になって仕方ありません。エジプト中の学者を集めて、この夢にはどんな意味があるかと尋ねましたが、だれも答えることができません。
 その時、牢屋にいるヨセフという若者が夢を解くことができると王様に告げる人がいました。王様は早速(さっそく)、ヨセフを牢屋から呼び出し、夢の話をしました。ヨセフは、その夢は、これから7年間、豊作が続いた後で、今度は7年間の飢饉(ききん)が起こることを示しています、と解いて見せました。飢饉が起こるのか、どうしたら良いだろう?と悩む王さまに、ヨセフは7年の豊作の間に食料を蓄えて飢饉に備えれば良いと答えました。それを聞いた王様も、お城の役人たちも皆、ヨセフの賢さに感心し、ヨセフをエジプトの農業大臣、食料大臣にしよう、ということになりました。牢屋に入れられていた奴隷が、いきなり大臣になったのです。

 さて、7年後、飢饉が起こりました。エジプトだけでなく、その周りの国々も食べる物がなくなりました。でも、エジプトには蓄えた食料がありました。その噂を聞いたヨセフの兄弟たちが、隣の国からエジプトに、食料を買いにやって来ました。
 ヨセフは一目見て、それが自分の兄弟たちだと分かりました。けれども、ヨセフはわざと“お前たちは外国からやって来たスパイだ”と言いがかりをつけました。いいえ、違いますと兄弟たちは言います。“それなら、嘘ではないという証拠に、お前たちが話した末の弟を連れて、もう1度来い”とヨセフは命じました。ヨセフがエジプトに売られた後で、ベニヤミンという弟が生まれていました。そこで、兄弟たちは弟ベニヤミンを連れて、再びヨセフの前にやって来ました。ところが、ヨセフは“ベニヤミンがわたしの宝物を盗んだ”と、またまた言いがかりをつけて、ベニヤミンを奴隷にすると言い出しました。困った兄弟たちは“そんなことになったら父親のヤコブが悲しみのために死んでしまう”と言って、自分たちが代わりに奴隷になります、と必死で頼みました。
 そんな兄弟愛を見て、ヨセフはついに、自分がヨセフだと兄弟たちに告げました。兄弟たちは驚きのあまり、だれも口をきけませんでした。
 その時、ヨセフはハッと自分の人生の意味を悟りました。自分の人生は、奴隷に売られ、牢屋に入れられ、家族を離れて独りぼっちで外国で生活する、不幸で、苦しい人生だと思っていたけれど、そうではなかった。
「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣(つか)わしになったのです」(5節)。
兄弟たちに売られてエジプトに連れて来られたのではない。
「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(8節)。
ヨセフは、神さまが自分の人生を、家族の救いのために、良い目的のために、導いてくださっていたのだ、と悟ったのです。自分の人生を“よかった”と喜び、感謝することができたのです。

 ヨセフほどではないかも知れませんが、私たちも、自分の人生で苦しいことやつらいことを味わったことがあるでしょう。それを味わっているときは、とてもじゃないけれど“よかった”とは思えません。苦しくて、つらくて仕方がないのです。でも、神さまを信じていると“きっと意味がある。目的がある”と信じて、苦しみや辛さを耐える力が与えられます。
 子どもたちは、星野富弘(ほしのとみひろ)さんという人を知っていますか?星野さんは、20代の時に首の骨を折るという大けがをして、首から下の体、手足が全く動かなくなってしまいました。寝たきりになった星野さんは、“自分の人生は何の意味がるのだろう?何のために生きているのだろう?”と苦しみ、悩み続けました。でも、聖書と出会い、神さまと出会い、自分の人生にも神さまのお導きがある、ご計画があると信じて生きるようになりました。そして、口に筆をくわえて、草花の絵を描き、詩をつくり、私たちの心を慰め、励ます、すばらしい作品を届けてくださいます。
 そんな星野さんが、電動車椅子で移動するとき、道のでこぼこで車いすが揺れるのが、とても嫌だったけれど、人からもらった鈴をつけたところ、でこぼこのところで、その鈴がチリーンときれいに鳴るようになって、その時から道のでこぼこが楽しみになったと書いておられます。
 たった一つの鈴が、嫌なことを和(なご)ませてくれます。私たちも、心の中に“信仰という鈴”を付けて、人生のでこぼこ道を進めたら、と思います。そして、自分の進んだでこぼこ道を、いつか振り返って見た時に、“神さまが、わたしをここへ遣わしてくださった。この人生を歩ませてくださった。よかった”と感謝できたら、と思います。



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