2012年2月12日 
  聖  書  ルカによる福音書6章27〜36節
  説教者  山岡 創

「敵を愛しなさい」
     

 今日の聖書の御言葉を読み、考えながら、どうしても最初の設定のところで立ち止まらされました。そこから先へ、すんなりとは進めないのです。その、妨(さまた)げとなっている最初の設定とは、「敵」という言葉です。
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(27節)。
 主イエスはこのように、弟子たちにお教えになりました。「敵」とはだれだろうか? ふと、そのことを考えさせられました。聖書の教え、特にこういった極めて具体的な教えは、頭で理解しても意味がないのです。自分にとって「敵」とはだれか? その人を思い浮かべ、その人との関わりを思い出しながら、ではその人に対して自分がどのような態度を取ることが、どのような行いに出ることが、“愛する”ことになるのか? そこまで考えて初めて、御言葉が私たちの中で生きて来るのです。
 自分にとって「敵」とはだれだろうか? しかし、「敵」がだれなのか、私は思い浮かべることができませんでした。「敵」と言ったら、自分にとって相当強烈なキャラクターです。でも、“この人は敵だ”とまで思う人を、私は思い浮かべることができませんでした。これは、ある意味でとても幸せなことです。けれども、そのために私は、「敵を愛しなさい」という言葉の前で、ずいぶんと立ち止まらせられました。

 「敵」とはだれか。主イエスはこの後、もう少し具体的に「敵」とはこういう人のことだ、と語ってくれています。「敵」とは、「あなたがたを憎む者」です。「悪口を言う者」、「侮辱する者」(28節)です。「あなたの頬を打つ者」(29節)です。「上着を奪い取る者」(29節)です。「あなたの持ち物を奪う者」(30節)です。
 皆さんはいかがでしょうか? 私は、だれかに何かを奪い取られたことはありませんし、殴(なぐ)られたり暴力を振るわれたこともありません。子どもの頃に、子ども同士の関わりで、そんなこともあったかなと微(かす)かに思い出す程度です。面と向かって悪口を言われたことはありませんが、陰で言われていることはあるかも知れません。私のことを憎んでいる人も、一人や二人はいるんじゃないかと思います。
 人から侮辱されたこともないなあ‥‥‥と思いながら、その時ハッと一つ思い当たることがありました。
 子どもの頃、工作少年の一面がありました。ボール紙とはさみとセロテープとマジックで、ロボットや戦闘機、戦艦などをよく作りました。学校の先生に教えてもらった花札を作ったこともありました。(ただのカードゲームとして遊んでいましたが、今思い起こすと、考えられないことですね)
 あるとき、自分が作った作品を、友だちに悪(あ)しざまにののしられたことがありました。怒りがこみ上げました。感情がストレートに行動に現れました。その友だちを押し倒し、馬乗りになり、殴りつけていました。(もしかしたら私が自慢したのかも知れません)
 あれが侮辱(ぶじょく)っていう奴だな、と思いながら、同時にもう一つハッとさせられました。侮辱されたとき、私はカッとなり、反撃していたのです。右の頬を打たれたら、もう一方の頬を向けるのではなく、相手の頬を打ち返していたのです。
 その経験から思うのは、人間は自分が愛しているもの、大切にしているもの、心を込めているものを傷つけられたり、侮辱されたり、奪われたりすると、カッとなり、その相手に反撃することがあるということです。
それが必ずしも悪いことだとは思いません。例えば、自分の子どもが理由もなく傷つけられたとき、その相手のところに行って抗議する、“謝ってください”と求める。そうでなければ、子どもは“お父さん、お母さんは自分のことを愛していない、大切に思っていないんだ”と感じて、もっと傷つくこともあり得るからです。
 理不尽(りふじん)な攻撃を受けて、それに反撃するのは必ずしも悪いこととは思いません。けれども、気をつけなければならないのは、私たちの反撃は、感情のままに行われると、ついやり過ぎになってしまうということがあるということです。一発殴られたら、一発返すにとどまらず、2発3発殴り返すことが少なからずある、ということです。
 それが負の連鎖(れんさ)を生みます。やられたからやり返す、が続きます。同じ相手にではなく、違う相手に“八つ当たり”という形でやり返すこともあるでしょう。それが続くと、しまいにはとんでもないことになります。
 主イエスの時代のユダヤ人にとって、「敵」というのは、はっきりしていました。当時ユダヤ人はローマ帝国に支配されていました。国を奪(うば)われ、自由を奪われ、誇りを奪われ、様々な権利を奪われていました。だから、「敵」というのはローマ人でした。占領軍であるローマ兵から侮辱されることもあったでしょう。理不尽に頬を打たれることもあったでしょう。上着や持ち物を奪われることもあったでしょう。やり返したい、取り返したい。こみ上げる気持を抑えて、彼らは歯を食いしばって忍耐しました。けれども、ついにその激情(げきじょう)を抑えきれなくなりました。ローマ軍に対する反乱が起こりました。それは、ユダヤ戦争と呼ばれる戦いになりました。そして、遂にユダヤ人は滅ぼされ、神の約束の土地であるカナンから散り散りにされ、以後、歴史をさまよう流浪の民となったのです。
 ユダヤ人は、やり返したことによって滅んで行きました。もちろんローマ人の方が正しかったわけではありません。単に力が強かっただけです。やってやられて、またやり返す。そのような関係は悲劇を生みます。そのとき勝ったように思っても、後でまた、その負の連鎖に飲み込まれていきます。だから、本当の意味での勝者はいません。勝者はどちらでもなく、“悪魔”なのでしょう。ほくそ笑むのは、人の心に巣食っている悪魔です。

 だから、カッとなることはあっても、つい反撃してしまうことはあっても、そこに歯止めの“ブレーキ”をかけなければなりません。そのブレーキが、私たちのやり過ぎを抑える。私たちの心に、ふと悔い改める気持を起こさせる。そしていつか、やってやられて、やり返す負の連鎖から、私たちを脱出させてくれるときが来るかも知れません。
 そのブレーキとは何なのか。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」(35節)。“愛”なのです。私たちの感情と行動にブレーキをかけ、いつかきっと負の連鎖から救い出し、勝利させてくれるものは“愛”なのです。
 では、「愛」とは何でしょうか。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたを侮辱する者のために祈る」(28節)ことです。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向ける」(29節)ことです。「上着を奪い取る者には、下着をも拒(こば)まない」(29節)ことです。
 こう言われると、私たちは“そんなの無理だよ”と思うでしょう。確かに無理かも知れません。けれども、それができるかできないかという結果が問題ではないと思います。主イエスが言いたいのは、そういう“愛”を心に持て、意識せよ、ということではないでしょうか。
 主イエスが教える愛には、一つの大きな特徴があります。それは、相手を区別しない、差別しない、ということです。主イエスは言われます。
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。‥‥また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。‥‥‥返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。‥‥罪人でも同じことをしている」(32〜34節)。
 この御言葉から示されていることは、私たちの愛は、何かしら見返りの期待できる人に対してなされている、ということです。つまり、私たちの愛はギブ・アンド・テイクなのです。そして、敵、悪口を言う者、侮辱する者、頬を打つ者、奪う者は、見返りを期待できないから愛さないのです。しかし、それは果たして“愛”と呼べるものだろうか、と主イエスは問われるのです。
 私は、この御言葉から思うところがあります。私は牧師として、皆さんと親しくさせていただいています。連絡を取り、訪問し、会話し、祈りを共にします。けれども、皆さんの中には、仕事や家庭の都合で引っ越しされ、遠くに離れ、ほとんど会えなくなる方が出て来ます。体調を崩し、また仕事の事情等で、日曜日の礼拝に出席できなくなる方がいます。あるいは、教会の中でトラブルが起こったり、本人の一方的な都合で、教会に来なくなる人もいます。
 そのような方々を「敵」と思ったことは、もちろんありません。「悪口を言う者」とか、「侮辱する者」とか思ったこともありません。
 けれども、この人は礼拝に来られないんだ、教会に来られないんだ、と思って、それまで親しくしていたのに疎(うと)んじるようになり、その人のために祈らなくなったり、連絡しなくなったり、訪ねなくなったりしたら、それは愛ではありません。この人に見返りを期待できるか、自分にとって、教会にとってメリットがるか、そういう目で見て、区別し、差別していることになります。それは、教会の交わりでなくなります。
 そういう目が、私の中に全くないとは言えません。だからこそ、御言葉によって自戒します。愛のある人間でありたいと祈ります。

 「敵」とまで思わなくても、私たちは、好きな人と嫌いな人との間に、見返りを期待できる人とできない人との間に、差別の壁を作ります。そして、壁の片側の人だけのために祈り、愛し、親切にし、それで満足しているかも知れません。けれども、それは「愛」ではない、信仰ではない、と主イエスは言われるのです。
「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」(35節)。
 本当の愛は、差別の壁を作らないのです。神さまは、私たち人間に対して差別の壁をおつくりにならないのです。
 そういう神の愛に、ついていけないと思うかも知れません。けれども、神さまの愛に、差別の壁があるとしたら、どうでしょうか? 自分は、果たして壁のどちら側の人間でしょうか? もしかしたら神さまに愛されない側の人間、神さまにとってメリットのない人間かも知れないのです。そうです。神さまの目から見れば、私たちは皆、「罪人」(32、33、34節)に過ぎません。
 差別の壁のない神の愛に違和感を感じるのは、自分のことを神さまに愛される人間だ、認められる人間だ、神さまにとってメリットのある人間だとうぬぼれているからかも知れないのです。
 けれども、私たちは「罪人」なのです。「恩を知らない者」であり、「悪人」かも知れません。そういう自覚を覚えると、差別の壁がなく、「恩を知らない者にも、悪人にも、情け深い」神の愛が、どんなにありがたいものか、頭で理解するのではなく、魂で感じるようになります。
 そのような愛で、父なる神さまから愛されているからこそ、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(36節)と、主イエスはお教えになります。目の前にいる、憎らしい、好きになれない相手を見ると、憐(あわれ)みなどかけられないかも知れません。でも、そこで深呼吸、天を見上げて信仰の一呼吸。自分が神の憐れみによって愛されていることを思い出して、少しでも愛を取り戻したいものです。




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