2012年2月26日 大人と子供の礼拝説教
  聖  書  出エジプト記12章29〜42節
  説教者  山岡 創

「寝ずの番をされる神」

 今日、ここへ来て、礼拝堂に入って、きっとみんな、気づいたことがあると思います。“あっ、正面の十字架に何かが掛かっている!”。そうです、これは何だと思う?‥‥茨の冠(かんむり)です。これは、〈受難節レント〉が始まったしるしです。今年は2月22日(水)から始まりました。
 受難節レントというのは、イエスさまの復活を喜び祝う日〈イースター〉の前の40日間のことです。でも、この40日間には日曜日は含まれません。それは、日曜日がイエスさまの復活を喜び祝う礼拝の日だからです。
 では、日曜日以外の40日間はどんな日なのでしょう? これはね、私たちが自分の罪を悔い改める日です。イエスさまが復活されたのは嬉しいんだけど、その前にどんな出来事があったでしょう?‥‥イエスさまが、罪人たちによって十字架に架けられて殺される、という苦しみの出来事がありました。そのとき、イエスさまは、“神の国の王様、ばんざい!”とからかわれて、金の冠ではなく、茨の冠をかぶらされていました。だからね、イエスさまの苦しみを思い出すために、こうして茨の冠を十字架に掛けるのです。
 けれども、イエスさまは十字架の上で、「父(なる神)よ、彼らをお赦(ゆる)しください」(ルカ23章34節)と祈って、自分の命を犠牲にして、罪人たちを赦してくださったのです。
 ところで、“罪人たち”とはだれでしょう? 何の罪もないイエスさまを十字架に架けた人々です。でも、それだけではありません。イエスさまを裏切り、見捨てて逃げた弟子たちも罪人です。それから、イエスさまが十字架に架けられるとき、知らんぷりをしていた人々も罪人だと思います。まだいます。ここにいる私たちも罪人です。
 “えーっ! どうして私が?”と思うかも知れません。でもね、もし私たちが2千年前にイエスさまと一緒にいたら、イエスさまを十字架に架けていたかも知れない。裏切り、見捨てたかも知れない。知らんぷりをしたかも知れません。これらの人々と同じような憎しみや妬(ねた)み、意地悪、無関心、自己中心さを私たちも持っています。だから、聖書は、すべての人が罪人だと言うのです。
 けれども、イエスさまは、私たちの罪も十字架の上で赦してくださいました。だから、受難節レントは、イエスさまの十字架の苦しみを思いながら、同時に、私たちの罪が赦されている恵みを感謝する期間でもあるのです。

 ところで話は変わりますが、2月の間、子どもチャペルでは、モーセさんのお話を聞いてきました。モーセさんが篭(かご)に入れられ、ナイル川に流されたけど、エジプトの王女様に拾われ、育てられたこと。やがて大人になって、エジプトのお城から逃げ出して、野原で羊の番をしていたとき、燃えているのに燃え尽きて無くならない柴の木の中から、“モーセ、モーセ”と呼ばれる神さまの声を聞いたこと。日本語では、物が燃えるときの音を“ボーボー”とか“メラメラ”と言うけど、モーセさんの言葉では何と言うか?‥‥“モーシュ、モーシュ”と言います。だから、柴の木がモーシュ、モーシュと燃えている音が、“モーセ、モーセ”と呼ばれているように聞こえたのかも知れません。
 このとき、モーセさんは、エジプトで奴隷(どれい)にされて働かされている仲間のヘブライ人を助けなさい、という神さまのお告げを受けたのです。
 そこでモーセさんは、エジプトに帰り、王さまと話し合いを始めました。“荒れ野に私たちヘブライ人の神さまが現れました。ヘブライ人を奴隷から解放し、神さまを礼拝させてください”“だめだ、そんなことはできない。お前たちの労働をもっと厳しくしてやる”王様は全くモーセの言うことを聞きません。そこで、モーセさんは次々に、神さまの奇跡を起こして王様に見せました。持っている杖をへびに変えたり、ナイル川の水を真っ赤にしたり、カエルやブヨやアブが大量に発生したり、人々や家畜が伝染病で死んでしまったり、嵐が起こって大きな雹(ひょう)が激しく降ったり、イナゴの大群が麦を食べ尽くしたり、またエジプトの国が真っ暗闇(くらやみ)になったりしました。でも、王さまはモーセの言うことを、モーセさんの口を通して神さまが言うことを聞こうとしませんでした。
 そこで、神さまは最後の災(わざわい)いを起こされました。今日の聖書箇所に書かれていたように、何と!エジプトにいる人も動物も、その最初の子ども(長子)が突然死んでしまうという事件が起こりました。でも、ヘブライ人の家はだいじょうぶでした。神さまからお告げがあって、その夜、家族で羊の肉を食べて、その血を家の玄関の柱に塗っておいたからです。それで、玄関に血を塗ってある家は、神さまに守られて、だいじょうぶだったのです。この時の食事が、後のイエスさまの時代にも“過越の食事”として行われ、更に2千年後の今、私たちの教会でも、パンとワインの聖餐式として祝われています。
 話を戻しますが、最初の子どもがみな死んでしまって、エジプト中がパニックになりました。王様も恐ろしくなって、このままモーセの言うことを聞かないと、自分も死んでしまうと思って、ヘブライ人を奴隷から解放し、荒れ野に去らせることにしました。そこで、ヘブライ人たちは急いでエジプトを脱出しました。男の人だけで60万人もいたって言うんだからすごいね。女の人や子どもも合わせたら、300万人も400万人もいたかも知れません。それだけの人々の大々行列、今日やっている東京マラソンよりもすごいですね。
 このモーセさんのお話は、イエスさまの救いと重ね合わされます。モーセさんが、ヘブライ人をエジプトの奴隷から救い出したように、イエスさまは、先ほどお話しした十字架の犠牲によって、すべての人を“罪の奴隷”から救い出してくださったと聖書の中で言われています。

 さて、エジプトを脱出したヘブライ人のために、
「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた」(42節)とあります。私は今日の聖書箇所で、この御言葉がいちばん心に残りました。
 羊飼いが野原で野宿をするとき、羊たちが狼や熊、ライオンなどに襲(おそ)われないように、眠らないで番をするように、神さまもヘブライ人を守るために、寝ないで番をされたというのです。
 この御言葉を読んで、私は、こんな話を思い出しました。一人の女の子が、重い病気にかかって、病院に入院することになりました。夜、病院のベッドで一人で寝るのが不安で、看護師さんに、“私が眠るまで、ここに一緒にいてくれる?”と頼みました。“いいわよ”と看護師さんは言ってくれました。それから、どれぐらい眠ったでしょう、女の子が目を開けてみると(どうだったでしょう?)‥‥‥そこに看護師さんがいました。女の子は嬉しくなって、安心してぐっすり眠った、という話です。
 自分のために一緒に、眠らずに一緒にいてくれる人がる。目には見えないけれど、神さまって、イエスさまって、そういう方です。



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