2012年年3月11日 受難節第三主日・礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書6章46〜49節
  説教者  山岡 創

「深く掘り下げる」

 東日本大震災が起こった日から、今日でちょうど1年を迎えました。私たちも、被災した人々と教会を心に覚えて、祈って来ました。献(ささ)げて来ました。それは、小さな業(わざ)だったかも知れませんが、私たちは“小さな愛”を1年、行って来た。積み重ねて来た、と言ってもよいでしょう。もちろん、誇るようなことではありません。
 私は、教会の訪問やボランティア活動で、2度ほど宮城県に伺いました。祈りは、顔を思い浮かべて具体的に祈った方が良いと思い、そのとき出会って知り合いになった人や訪れた教会のために祈って来ました。
 けれども、1年が過ぎた今、自分の中で、被災した人々と教会への思いが、次第に風化されて行ってはいないかと考えさせられます。愛の反対は憎しみではなく、無関心だと言います。私も、愛を失わないように、無関心にならないように、今日からの1年、思いを新たにして祈り続け、献げ続け、また機会を得てお訪ねしたいと願います。

 さて、今日与えられた聖書の御(み)言葉を黙想しながら、私は、東日本大震災のときに起こった液状化現象のことを思い起こしました。しばしば報道され、印象に残っているのは千葉県の浦安市での、この現象です。
 液状化現象というのは、海や川のそば等、地中に水分が多い地域で起こりやすい現象です。土中で、砂や石と水が混じり合っているわけですが、普段はくっついている砂利の粒が、地震で揺り動かされることによって粒と粒がばらばらに離れてしまい、水の中に浮かんでいるような状態になってしまう。簡単に言えば、泥水のような状態になってしまうわけです。そうなると地面が陥没したり、泥水が噴き出して来たりするということです。
 この現象のために、傾いてしまった家をニュース等でたびたび見ました。一見では分からなくても、ビー玉を床に置くと、コロコロと片側に転がって行く。引き戸がいつの間にか開いている。少しぐらいの傾きなら住めるように思われますが、そうではない。傾いた家に住み続けると、具合が悪くなる。症状となって現われるのです。
 そのように傾いてしまった家を元に戻す一つの方法として、地面に杭を打ち込んで、その杭を堅い岩盤にまで届かせる。岩盤にまで深く打ち込んだ数十本の杭に家を固定することで傾きを直す。そんな方法をテレビで見聞きしたように記憶しています。逆に言えば、そのように岩盤に土台を据えていれば、家は傾かなかったでしょう。
 今日の御言葉にも、「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」(48節)とありました。その家は、洪水になって川の水が押し寄せても揺り動かされず、倒れないのです。ところが、「土台なしで地面に」(49節)建てられた家は、倒れて、ひどい壊れ方をしたと、主イエスはたとえ話を語られました。家を建てるならば、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて建てなければならないのです。
 もちろん、主イエスは、「家」の話をしているのではありません。「家」をたとえにして、“信仰”の話をしておられるのです。信仰と言っても、単に精神的なことを話しているのではありません。“信仰生活”のことを、信仰によって生きる人生そのもののことを、主イエスは話しておられるのです。私たちの人生もまた、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて建てていく必要があります。ここで言われている「岩」というのは、“イエス・キリスト”だと言っても良いし、“確かな信仰”のことだと言っても良いでしょう。イエス・キリストに、イエス・キリストを信じる確かな信仰に土台を置いて、土台として人生を建て上げていく、生きていくのです。
 そうすれば、人生の嵐、地震、洪水に遭ったとき、悩みや苦しみ、悲しみの気持に揺り動かされることはあっても、倒れずにすみます。絶望とあきらめにうずくまらず、忍耐して、希望を持って生きることができる。立ち上がることができる。主イエスは、そのようにお教えになります。
 ところが、地面を深く掘り下げず、岩にまで届かない、浅いところに土台を置いて人生を建てると、人生の嵐、地震、洪水に遭ったとき、揺り動かされ、もろくも倒れてしまいます。絶望とあきらめの底にうずくまることになってしまいます。人生がひどい壊れ方をすることになってしまいます。
 地面の浅いところには、私たちが、そこを土台として人生を建てたくなるようなものがいっぱいあります。財産、成功、地位、名誉、美貌、健康、友情、家族の絆‥‥‥私たちは、これらを土台にして人生を建てたくなります。いや、多かれ少なかれ、それらを土台にして建てています。私もその一人です。
 もちろん、これらのものが私たちの人生に全く必要ないと言うのではありません。ある程度、必要なものです。あれば嬉しくなり、元気が出ます。その意味で、大切なものです。とても大切なものですらあります。
 けれども、こういった土台は、人生の揺れに遭えば、液状化します。流れて行ってしまいます。失われてしまいます。そういったものを土台とするならば、それが失われたときに、私たちの人生は倒れてしまいます。壊れてしまいます。
 それらが失われても、倒れない人生を、忍耐できる人生を、希望を失わない人生を、復活できる人生を、私たちは建て上げて行きたいのです。そのために、岩の上に土台を置く。イエス・キリストという岩の上に、イエス・キリストを信じる確かな信仰という岩を土台として人生を造り上げて行くのです。目に見える人の力にではなく、目には見えないけれど、確かな神の力と愛に土台を置いて生きていくのです。

 ならば、そのようにキリストに、確かな神の力と愛に土台を置くためにはどうすれば良いのでしょうか?
岩盤は地面の表面や地中の浅いところにあるのではなく、深いところに埋まっています。だから、岩盤の上に土台を置くためには、深く掘り下げなければなりません。
信仰によって生きる人生も同じです。イエス・キリスト、神の力と愛という岩に届くように、人生の地面を深く掘り下げる必要があります。その“掘り下げる”作業が、主イエスの御言葉を「行う」という営みです。
私たちは、主イエスを信じています。それは間違いありません。ここにいる多くの方が洗礼を受けています。けれども、ともすれば私たちは、「主よ、主よ」(46節)と呼ぶだけで、主イエスが教える御言葉を行わない信仰に陥(おちい)っているかも知れません。
例えば、主イエスは、ご自分のもとに教えを乞いに来た金持ちの若者(議員)に、持っているものをすべて貧しい人々に施(ほどこ)して、私に従いなさい、と言われました。若者は悲しそうに帰って行ったと言います(ルカ18章、他)。私は、文字どおり“すべて”ということではなくて、持っている財産を誇り、執着することから離れよ、財産を第一とし、人生の土台とするな、という意味だと思います。そうだとすれば、私たちが財産を人生の土台として生きていたら、それは主イエスの御言葉を行って生きていないことになります。同じように、成功、地位、名誉、美貌、健康、友情、家族の絆等を第一とし、土台として生きていたら、それは主イエスの御言葉を行わずに生きていることになります。
それでは、人生の地面を深く掘り下げることはできません。イエス・キリストという、神の力と愛という岩に達することはできません。
人生において、生活の中で、御言葉を行うことが重要です。スポーツでも音楽でも、芸術でも、また料理でも技術でも仕事でも、何でもそうですが、聞いたり、読んだりして、それを知るだけでは、それは単なる知識です。知っているというだけです。力にはなりません。
 それを実際に行ってみて、ちょっとうまく行ったり、失敗したり、そういうことを繰り返して、経験して、それが身について行くのです。力になるのです。
 信仰も同じです。聖書を読んで、聞いて、御言葉を知っているだけでは、それは頭の中の知識に過ぎず、自分の人生を導き、支える力にはなりません。御言葉を行うことが重要です。御言葉を自分自身に照らし合わせる。御言葉を自分の人格、性格に当てはめ、人間関係に当てはめ、仕事や日常生活の態度に当てはめ、こういうところが拙(まず)かったと反省したり、今度はこの人に、こういう言葉で話そう、あの人にこういう態度を取ろうとか、こういうふうに仕事をしよう、こういうふうに生活しよう、と具体的に考えて、行うのです。行うように心がけ、努力をするのです。
 例えば、今日の聖書箇所の直前で、主イエスは、敵を愛しなさい、相手を裁かずに許しなさい、とお教えになりました。愛を行いなさいということです。それを聞いて、では今度、この人に親切にしてみよう、あの人を批判せずに接してみよう、と考え、やってみるのです。
 そのようにすることで、御言葉の恵み、御言葉の力が分かって来ます。それを行うことの難しさ、苦労も味わいます。自分の力に頼れず、祈りがいかに大切かということにも気づかされます。そのように行い、経験することで、私たちは人生の地面を信仰によって掘り下げていくのです。御言葉を行うことで信仰が身に付き、それが人生の力になって行くのです。それが、イエス・キリストという、神の力と愛という「岩」の上に、“信仰”という人生の土台を置くことです。

 2、3日前でしたか、東日本大震災から1年を目前にして、地震による建物の揺れを和らげる最新型の免震装置のことが何かの番組で紹介されていました。二人の女性が、揺れを体験する装置の上に建てられた部屋に入って、揺れを体感している映像を見ましたが、その免震装置を使うと、震度7の揺れを震度3ぐらいに抑えることができるのだそうです。
 信仰は“人生の免震装置”のようなものかも知れません。人生の地震に遭ったとき、信仰があれば全く揺れないというわけではありません。全く悩んだり、苦しんだり、迷ったりしないというわけではないのです。クリスチャンも人間です。揺れます。苦しみ悩みます。
 けれども、信仰があれば、人生の震度7を、震度3ぐらいに和らげることができる。それならば、私たちは耐えられます。倒れずに生きていくことができます。
 そのために、人生の地面を深く掘り下げて、イエス・キリストの力と愛という「岩」の上に信仰という「土台」を置けるように、御言葉を行う生活を心がけて行きましょう。



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