2012年年3月18日 受難節第四主日・礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書7章1〜10節
  説教者  山岡 創

「神の言葉と権威を信じる」
                        〜これほどの信仰〜
 「これほどの信仰を見たことがない」(9節)。
 主イエスから、こう言われて、ほめられた人がいます。それは、神の民と呼ばれるイスラエルの人ではありません。百人隊長です。彼は、イスラエルの人々が、‟奴らは真の神を信じていない”と言って軽蔑し、忌(い)み嫌うローマ人、異邦人でした。ところが、そのような異邦人の中に、主イエスは、「これほどの信仰」を持つ人を見出したのです。「イスラエルの中でさえ」(9節)見たことがない信仰を見出したのです。主イエスから、そこまでほめられる信仰とは、一体どんな信仰なのでしょう?

 主イエスがガリラヤ湖畔の町、カファルナウムにおいでになった時のことです。この町に住む百人隊長の部下が、「病気で死にかかって」(2節)いました。
 当時、地中海の周りの広大な地域は、ローマ帝国によって支配されていました。イスラエルもそうでした。ローマ帝国は各地に、治安維持と民衆の反乱を抑(おさ)えるために、駐屯軍を置きました。カファルナウムにも駐屯軍が置かれたのでしょう。その駐屯軍において、百人の部下を指揮するのが百人隊長でした。
 死にかかっていたのは、彼が重んじている部下でした。それだけに、何とか助けたいと思いながら、しかし悪化していく部下の病状に気を揉んでいたことでしょう。
 そんなとき、主イエスがカファルナウムに来られたという情報を、百人隊長は聞きました。以前から、主イエスが病人を癒(いや)しているという噂を、彼は耳にしていたことでしょう。主イエスなら、部下の病気を癒すことがおできになる。そう思った百人隊長は、「ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように」(3節)頼みました。
 百人隊長に遣わされて、主イエスのもとにやって来たユダヤ人(イスラエル)の長老たちは、熱心に願ったと言います。
「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4〜5節)。
 異邦人が、ユダヤ人からこれほど認められ、称賛されるのはめずらしいことです。先ほどもお話ししましたが、ユダヤ人は、自分たち以外の諸民族を“異邦人”と呼び、まことの神を信じない人々として軽蔑し、忌み嫌っていました。汚(けが)れた人間と見なして、付き合うのを避けていました。そのようなユダヤ人が、これほどほめるのですから、この百人隊長の人となりが推察できます。おそらく彼は、ユダヤ人が信じる神を信じていたでしょう。ユダヤ人が集会を共にするために集まる会堂には、異邦人であっても神を信じる者は、その集まりに加わることができた、と言います。この百人隊長も、そのような異邦人の一人だったに違いありません。しかも、彼は、ユダヤ人のために自腹を切って会堂を建ててくれた、と言います。百人隊長の給料は、それほど高額ではなかったでしょうから、自ら会堂を建てるというのは半端な信仰ではありません。だからこそ、ユダヤ人の長老たちも、これほどの信仰と認めて、彼のために使いをし、尽力したのです。
 けれども、主イエスが「これほどの信仰」と認めたのは、そのような信仰ではありません。異邦人なのにまことの神を信じたから、自腹を切って会堂を建てたから、「これほどの信仰」とほめたわけではないのです。では、主イエスが「これほどの信仰」と称賛されたのは、一体どんな信仰だったのでしょうか?

 今日の聖書箇所を読むと、百人隊長が途中で、考え直したことが分かります。最初は、主イエスに来てもらおうと考えて、長老たちを使いにやったのです。ところが、主イエスがおいでになる途中で、来ていただくには及ばない、と考えが変わったのです。そこで、第二の使いを、今度は友だちを使いにやって言わせました。
「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。
 ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕(しもべ)をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(6〜8節)。
 この言葉の後半に、百人隊長が、主イエスに来ていただくには及ばないと、考えが変わった理由が示されています。
 彼は、百人の部下に命令し、指揮する隊長という立場に立っています。彼が命じれば、部下たちはその言葉に従います。それは、百人隊長が軍隊の権威の下に置かれているからです。隊長の言葉には権威があるのです。だから、部下は従います。そのとおりにします。
 それと同じ権威が、いや、それ以上の、比較にならない、偉大な権威が、主イエスの言葉にはあると、百人隊長は気づいたのです。自分がローマ軍の権威の下に置かれているように、主イエスは“神の権威”の下に置かれている。主イエスが、神の権威の下に命じれば、その言葉は実行される。主イエスにわざわざおいでいただかなくても、ひと言“病気よ、治れ”と命じてくだされば、その言葉は実現する。病気は癒される。百人隊長は、そのように信じたのです。
 つまり、百人隊長は最初、主イエスに来てもらうことが大事だと考えたのです。主イエスが目の前にいないと、癒しの恵みは実現しないと考えたのです。それが、彼の最初の信仰です。
 けれども、途中でその信仰が変わりました。主イエスに来ていただかなくていい。目の前にいなくていい。主イエスの御(み)言葉があれば、それでいい。主イエスがお語りになる御言葉を信じよう。その御言葉は、神の力と愛に裏打ちされた権威によって、必ず実現する。そういう信仰に変わりました。
 そして、この信仰こそ、主イエスが「これほどの信仰を見たことがない」と言って、ほめられた信仰なのです。目に見える立派な会堂を建てるような信仰ではなく、目に見える主イエスが目の前にいることを願う信仰でもなく、主イエスは目に見えなくても、ここにいなくても、その御言葉を信じる信仰です。

 今朝、子どもチャペルの礼拝で、サン・テグジュペリの『星の王子さま』のお話をしました。小さな星に住んでいた王子さまが、世話をしていたバラの花とけんかをして〜 バラが自分の美しさを鼻にかけて意地悪を言うので 〜 自分の星を飛び出し、いろいろな星を巡ります。けれども、出会った大人は、命令ばかりしている王様や、自分がいちばん美しく、賢く、金持ちだと思っているうぬぼれ男、恥ずかしいことを忘れるために飲む呑み助、やたらと忙しがっている実業家、街灯を点けたり消したりしている人、自分で調べずに部屋にこもって探検家の話ばかり聞いている地理学者など、変な人ばかりでした。
 最後に地球にたどり着き、壊れた飛行機を修理している飛行士と出会い、今までの話を聞いてもらいます。次に砂漠でキツネに出会い、友情を深めながら、人生の大切なことについて教えられます。大切なことは目には見ない。心で見なければということを。
 王子さまは、小さな星で世話をしていたバラのことを思い出します。多くの星を巡って、バラは1本だけではなく、たくさんあるんだということを知り、自分のバラには価値がないと思っていましたが、実は、そのバラが自分にとって愛(いと)おしい、掛け替えのない存在だということに気づかされるのです。
そして、王子さまは小さな星に帰る決心をします。自分の星に帰るために、金色の毒ヘビにかまれ、自分の体を、目に見える体を捨てて、小さな星に帰って行く。そういうお話です。
 このお話の中に出て来る、キツネが教える言葉、
  心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは目に見えないんだよ。
 この言葉が、今日の百人隊長の信仰と重なり合います。
 私たちは、目に見えるものを求めがちです。財産、成功、地位、名誉、健康‥‥‥努力もその結果を、友情もそのしるしを、愛もその形を求めがちです。信仰も、これだけ献金をして会堂を建てたとか、これだけ奉仕をしている、といったことを重要視してしまうかも知れません。そして、神さまもそうではないでしょうか。目に見える、形あるものを求めるのです。神の存在を証明せよ。そうでなければ信じない、というのです。
 けれども、大切なものは目には見えません。神の存在、主イエスの存在が目に見えることが重要ではないのです。目には見えない神を信じる。その力と愛を信じる。その力と愛に裏打ちされた権威ある御言葉を信じる。神の御言葉はきっと実現すると信じて生きる。それが、主イエスにほめられ、喜ばれる信仰です。

「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」
(9節)
 私は、今日の聖書箇所を黙想しながら、ずっとこの御言葉の前に立たされています。私だけではありません。私たちは皆、この御言葉の前に立たされ、この御言葉に問われることでしょう。“あなたには信仰があるか。あなたには、これほどの信仰があるか”と。
 私たちには、この百人隊長のような信仰があるでしょうか。御言葉を信じる信仰があるでしょうか。御言葉はそのとおりになると、神の偉大な権威を信じているでしょうか。自分を省(かえり)みて、ああ、御言葉を信じる心が足りないなあ、神の偉大な権威を信じる信仰が薄いなあ、と感じざるを得ません。百人隊長の最初の信仰、星の王子さまが自分の星を出発する前の心です。
 でも、このままで終わりではありません。百人隊長の信仰が変わったように、私たちの信仰も変えられます。御言葉を聴き続け、それを行おうと祈り、従い続けることで成長していきます。そういう信仰の旅を、私たちは歩いているのです。



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