2012年年3月25日 受難節第五主日・大人と子供の礼拝説教
  聖  書  申命記31章1〜8節
  説教者  山岡 創

「あなたと共に歩む神」
                        
 昨日の土曜日、子どもチャペルの遠足で、高坂にある埼玉県こども動物自然公園に行ってきました。ちょっと小雨混じりの天候でしたが、お陰で土曜日の割には人が少なく、動物たちをゆっくり見たり、触れ合ったりすることができました。
 例年、森林公園に行っていましたが、今年は久しぶりに動物自然公園に行こう、ということになり、10年振りぐらいで行った動物自然公園はずいぶん様変わりしていました。以前よりも動物の生態が分かるように工夫されていて、例えば、透明のプラスティックを張ったプールでは、ペンギンが水中でどのように体を動かして泳ぐのかがよく分かりました。プレーリ−ドッグのコーナーでは、トンネルがあって、そのトンネルの所々に顔を入れられるカプセルがあり、そこから顔を出すと、ちょうど地面で餌を食べているプレーリードッグの動きがよく見えました。小動物コーナーでは色々な動物たちと直に触れ合いましたが、特に抱っこしていたモルモットが、時間になるとそのコーナーから、1列になって細長い橋を渡って小屋に帰って行く様子には、思わずニッコリと微笑を誘われました。(65歳以上の方、入園無料なので、行ってみると楽しいですよ)

 そんな動物たちの中で、今日の聖書の御(み)言葉を考えながら思い出したのが、ワラビーの親子でした。小型のカンガルーなのですが、何頭かいる中に、親子のワラビーがいて、子どもがお母さんのお腹の袋の中から顔だけ出している様子に、“子どもにとってお母さんの袋の中は温かいんだろうなあ、安心なんだろうなあ”と、微笑ましく感じました。でも、もしお母さんの袋の中から放り出されて、独りになったら、たぶん寂しいんだろうなあ、不安なんだろうなあ。でも、いつかそうやって自立する時が来るのだろうと思います。
 今日の聖書の中に出て来るイスラエルの人々も、モーセから自立するときを迎えていました。子どもチャペルでは、2月の初めからずっとモーセさんのお話を聞いて来ました。エジプトの国で奴隷(どれい)にされて、苦しめられていたイスラエルの人々は、神さまが送ってくださったモーセさんに導(みちび)かれて、エジプトの国を脱出します。海が真っ二つに分かれて、その真ん中を渡って逃げ、追いかけて来たエジプト軍は、割れていた海が元に戻って海に飲まれてしまいました。その後、シナイ山にたどり着いたイスラエルの人々は、モーセさんを通して神さまと救いの契約を結び、神さまの命令である十戒(じゅっかい)を守る約束をします。そこからイスラエルの人々は、更に荒ら野の旅を続け、約束の地を目指しました。そして、後はヨルダン川を渡れば、神さまの約束の地カナンだ、というところまでやって来たのが今日のお話です。
 ところが、ここまで山あり谷あり、食べ物はなくなるわ、水はないわ、勝手に偶像の神さまを作って拝むわ、色々なことがあった中で、40年間イスラエルの人々を導いてくれたモーセさんが、約束の地に一緒に行けないということになってしまったのです。それは、神さまから「あなたはこのヨルダン川を渡ることはできない」(2節)と言われたからです。神さまは意地悪をしたのでしょうか。そうではありません。“モーセよ、ここまでよくやってくれた。後のことは後の者に任せなさい”。そういう神さまの“ご苦労さん”というお気持だったでしょう。
 けれども、モーセさん抜きでヨルダン川を渡り、約束の地に行け、と言われたイスラエルの人々は、とっても不安だっただろうと思います。約束の地がただで手に入るわけではありません。敵と戦って勝ち取らなければならないのです。そんな時に、モーセさんがいなくなる。大丈夫なのか、だめじゃないのか。とても不安だったと思います。お母さんのお腹の袋の中から放り出されたワラビーの子どものような気持だったろうと思います。
 そこで、モーセさんは、不安になっているイスラエルの人々と新しいリーダーのヨシュアさんを励ますために言いました。
「あなたの神、主御自身があなたに先立って渡り、あなたの前からこれらの国々を滅ぼして、それを得させてくださる」(3節)。
「強く、雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」(6節)。
 私は一緒に行けないけれど、主である神さまが一緒に行ってくださる。目には見えないけれど、神さまが先に川を渡り、約束の地を共に歩いてくださる。だから、大丈夫だ。モーセさんはこのように、イスラエルの人々とヨシュアさんを励ましました。
 独りだと不安でも、だれかが一緒にいてくれるだけで、安心します。直接手助けされることがなくても、強くなれます。神さまが一緒にいてくださると信じたら、私たちは安心して、強くなれるのです。

 今日の聖書の御言葉を考えながら、私は、『ラチとライオン』という童話の話を思い出しました。ラチという男の子がいます。弱虫で、独りでは何もできません。犬を見れば逃げ出すし、暗い部屋には一人では入れないし、おまけに友だちにも仲間外れにされてしまいます。
 そんなラチのところに、“強くていいなあ”と憧(あこが)れていた赤いライオンがやって来ます。そして、強くなるために、ラチは赤いライオンの特訓を受けることになります。ライオンはいつもラチと一緒。出かける時にはズボンのポケットに入って、一緒について行きます。そうしてラチは少しずつ強くなっていくのです。
 ある日、公園で遊んでいた子どもたちのボールを、ノッポの男の子が取り上げて行ってしまいました。それを見ていたラチは、“よし、あのボールを取り返そう”と思い、ノッポを追いかけます。そして、遂にノッポからボールを取り返します。“やったぞ。ぼくは強くなったんだ”。そう思って、ズボンのポケットの中にいる赤いライオンを振り返ったら、ライオンはいつの間にかいなくなっていました。“きみはもう一人でもだいじょうぶ。ぼくは、特訓の必要な違う子のところに行くからね”。手紙を残してライオンは旅立って行った、というお話です。
 私たちの心のポケットにも、神さまがいつも一緒にいてくれます。特訓してくれます。慰(なぐさ)め、励(はげ)ましてくれます。でも、その神さまは目には見えないから、一緒にいるようでいないようなものです。でも、いないようで一緒にいてくれる。だから心強い、安心、だいじょうぶ。そう信じるのが、私たちの信仰です。



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