2012年年4月8日 復活祭・イースター礼拝説教
  聖  書  ヨハネによる福音書20章1〜18節
  説教者  山岡 創

「わたしは主を見ました」
                        
 「主が墓から取り去られました。
どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(2節)。
 マグダラのマリアは途方に暮れていました。“そこにある”と思っていたイエスのお体が墓になかったからです。だから、“イエスさまはどこ?”と戸惑(とまど)ってしまったのです。
 けれども、2節、そして13節でも繰り返されるこの言葉には、もう一つの意味が込められています。それは、“イエスがどのようなお方か、分らなくなってしまった”という信仰のつまずきです。
 イエスが分からない。その戸惑いが、「どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」という言葉に込められているのです。

 無理もありません。二日前の金曜日、イエスは十字架に架けられて処刑されてしまったのです。彼らは、イエスによって弟子として召されました。イエスによって苦境(くきょう)から救われ、病を癒(いや)され、愛されて立ち直った人々でした。だからこそ、彼らは、イエスを「ラボニ」(16節)と、すなわち「先生」と慕い、従って行ったのです。神の言葉の教師として、聴き従い、ついて行った。いや、それ以上に、この方こそ、神さまから遣(つか)わされて来た、イスラエルそのものを、ユダヤ人そのものを救ってくださるお方(メシア)ではないかと期待していたのです。
 ところが、そのイエスが、ユダヤ人の祭司長や律法学者たちに裁かれ、十字架に架けられて殺されてしまった。もちろん、これは“犯罪者”を処刑する方法です。しかも、最も重い罪を犯した者を処刑する極刑(きょっけい)です。名誉の死でも何でもない。挫折と恥の極(きわ)みです。
 神の言葉の教師、いや救い主と期待していた方が、重犯罪人として極刑に処せられたのです。この期待と現実のギャップは、人間の知恵と理解では到底埋めることができなかったでしょう。私たちで言えば、“とても良い人だ”と思っていた人が、とんでもない悪い一面を持っていた、事件を起こしていたなどと知らされて、“えっ! この人がなぜ?”と戸惑う感じに似ています。
 この人こそ、と信じていた人が、処刑され、死んでしまった。取り去られてしまった。マリアが、絶望し、放心し、戸惑うのも、無理からぬことです。そしてそれは、聖書を読み始め、教会に来始め、求道をし始めた(頃の)私たちが、“なぜ、イエスが十字架にお架かりになったことが、私(たち)の救いなのか?”と疑問を感じ、分らず、信仰に戸惑うのと同じことなのです。

「どこに置かれているのか、わたしには分かりません」(13節)。
 マリアは途方に暮れ、戸惑いながら、墓の外に立ち続けました。ところが、変化が起こります。泣きながら、ふと墓の中を見ると、そこに「天使」(12節)が見えた、というのです。最初は見えなかったのです。ペトロたちと同じように、空っぽの墓穴(はかあな)と亜麻布(あまぬの)しか見えなかったのです。それが、どうして天使が見えるようになったのでしょう。
 それは、墓の前に立ち続けたからだと思います。分からないから、と言って立ち去らず、戸惑いながらも立ち続けたからです。つまり、イエスに関わり続けたから、信仰に関わり続けたからです。
 私たちの信仰も同じです。私たちは、分らないこと、納得のいかないことがあると、ともすれば“もう信じられない”と信仰から、教会から立ち去って行くことがあります。しかし、洗礼をお受けになる方の準備会の時にもお話するように、信仰に早合点は禁物です。信仰は理屈や論理ではありませんから、パッと分からないことも多いのです。戸惑いながらも、信仰生活を続けて行く。そのように時間をかけて、人生をかけて味わって初めて、“ああ、こういうことだったのか”と見えてくるものがあるのです。

 マリアには、天使が見えるようになりました。更に、彼女は見えるようになります。「後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」(14節)のです。
 けれども、マリアは最初、それがイエスだとは分かりませんでした。2度目に振り向いた時、それがイエスだと気づくのです。その違いは何だったのでしょう。
 最初、マリアは自分で振り向いたのです。しかし2度目は、「マリア」(16節)とイエスに語りかけられて振り向いたのです。イエスに語りかけられた。それが決定的な違いです。
 私たちは自分で、“神さまって、こういう方だろう”“信じるって、こういうことだろう”“信じたら、こうなるだろう”と思い込んでいるところがあるのではないでしょうか。つまり、信仰においても自己中心、自分本位なのです。
 そういう私たちが、イエスに語りかけられることによって、聖書の御言葉に語りかけられることによって変えられるのです。気づかされるのです。自分の信仰が違っていたということに、更には、自己本位に生きていたということに気づかされるのです。
 つまり、自分で、自分の力で生きている人生から、イエスに語りかけられて生きる人生に、語りかけられることで“生かされている恵み”に気づく人生に変えられるのです。人生の180度方向転換です。だから、イエスはマリアの「後ろ」に立っていたのです。マリアが自分で見ているのとは180度反対方向に、イエスは立っておられました。語りかけられることで、人生を180度方向転換する。それが“悔い改め”ということでもあります。

 私たちの人生は、語りかけられることで180度、方向転換することがあります。十字架の意味がそうです。挫折と恥、不名誉と失敗、そう思っていた十字架が、自分自身の自己本位という罪の結果であり、同時にその罪をイエスが背負い、気づかせ、救ってくださった恵みに見えるようになる、信じられるようになります。マイナスのものが、プラスに見えるようになります。それこそが“復活”です。復活を信じるということです。
 『信徒の友』4月号の〈みことばにきく〉というコーナーで、篠田潔という隠退牧師の先生が、ご自分の教会の信徒だった穂積圭吾さんという方のことを語っておられます。
 穂積さんは若い日に失明し、それがきっかけで信仰へと導かれたのですが、その後、戦後の農地改革によって持っていた土地の大部分は人手に渡り、多額の持ち株は無価値となり、さらに蔵に保管していた財産が一夜にして盗まれて、家を残しただけで持ち物はすべて失われたと言います。そんな穂積さんは、礼拝では常に最前列に座り、老いて体が弱るまですべての集会に出席されたと言います。そして、毎年恒例の新年祈祷会では、いつも、次のように証しされたということです。
  私は両眼と財産という二つの大きなものを失いました。しかし、それと引き換えに信仰という宝を得ました。この信仰によって、私はこの新しい年に、神さまはどんな新しい示しを与えてくださるか、楽しみにしています。
 そんな穂積さんのことを、最後に篠田先生はこう語られました。
  失明、財産喪失(そうしつ)、老衰(ろうすい)という中で、彼が語ったのは希望でした。“「光は闇の中で輝いている」というヨハネの証言は本当のことだなあ”と知らされたのは、この兄弟によってでした。
 人生の闇の中に光が見える。希望が見える。語りかけられることで、人生が180度方向転換する、人生が復活するとは、こういうことだなあと、とても感動しました。

 そして、暗闇の中に光が見えるということが「わたしは主を見ました」(18節)という信仰の告白になるのです。イエスを「ラボニ」から「主」と信じて告白する信仰になるのです。「主を見ました」とは、自分の人生に光を、希望を見た者の告白です。
 私は今日、敢えて“イエス”と語り続けて来ました。“主イエス”とは言いませんでした。それは、私たちが普段、何気なく“主イエス”と呼ぶことの意味を、イエスを“主”と告白することの恵みを、「わたしは主を見ました」と告白できる喜びを意識してほしかったからです。
 復活とは、見えなかったイエスが見えるようになっていく旅です。人生の闇の中で、“分かりません”“なぜ”と思う日々が続くこともあるでしょう。しかし、信仰から離れず、教会から離れずに、いつか「わたしは主を見ました」と言えるようになっていく心の旅、魂の旅路なのです。



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