2012年年4月29日 教会総会日礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書8章11〜15節
  説教者  山岡 創

「御言葉に応えよう」
                        
 私は、高麗(こま)川の向こう側で、趣味で家庭菜園をしています。春の訪れと共に、15坪の菜園の農作業も忙しくなって来ました。3月の下旬には、ジャガイモを植えました。4月の半ばには、枝豆といんげん豆の種をまきました。それ以外は、畑を耕しながら、ゴールデン・ウィーク中に、キュウリやナス、パプリカ、ミニトマト、モロヘイヤ等の苗を植えるための準備をしています。
 今、畑の一部では、玉ねぎが約100個、丸々と育っています。去年は全滅させてしまいました。原因はよく分かりませんが、たぶん霜に当たったのかも知れません。今回は、地面に黒マルチを敷いてやり、上にはビニールのトンネルを作って、霜が降りないようにしてやりました。元気に育って、そろそろ青い葉がしなびて来ました。今週末が取りごろかな、と思います。育って結んだ実を収穫するのが、何と言ってもいちばん嬉しい時です。

 〈御言葉に応えよう〉。今年度、私たちの教会は、この標語を掲(かか)げました。礼拝堂の正面に、また週報の表紙に、この標語が記されています。日曜日、礼拝に来るたびに、この標語を思い起こしてください。そして、歩んだ1週間、どのように御言葉に応えて生活したかを思い返し、改めて御言葉に応えて生きる志(こころざし)を新にしていただきたいのです。
 〈御言葉に応えよう〉。この標語は、昨年度、一昨年度と2年続けて掲げた〈聖書を読もう〉との標語の延長線上にあります。
 聖書を読む。私たちクリスチャンの基本です。これをするかしないかで、私たちの信仰は百倍の実を結びもし、また枯れもします。聖書を読むということに、私たちの信仰生活はかかっています。
 では、いつ聖書を読むのか? 礼拝において聖書を読むというのが、最もあり得る機会でしょう。けれども、それだけでなく、それと共に、毎日の生活の中でも聖書を読むようにしてほしい、習慣を作ってほしいのです。私たちは毎日、食事をします。それをしなければ、段々やせてきて、栄養失調になるでしょう。信仰も毎日、御言葉の食事をしなければ栄養失調になります。もし、どういうふうに聖書を読んだらいいか分からない人は、私に相談してください。アドバイスします。
 普段の生活の中で聖書を読む。最初はよく分からないと思うかも知れません。しかし、読み続けていると、次第に色々考えるようになります。色々感じるようになって来ます。御言葉が心に響(ひび)くようになります。“今日も一日がんばろう”と心の拠(よ)り所が与えられます。“自分はこれでいいんだ”と自分を認める平安が与えられます。“こうしよう”という導きが与えられます。“信じていて良かった”と慰めが与えられます。“絶望せずに生きられる”と希望と勇気が与えられます。“ここが拙(まず)かった”と反省させられます。“自分には愛がない”と悔い改めさせられます。
 聖書を読み続けていると、聖書が自分に語りかけるようになって来ます。聖書を通して、神さまの声が響いて来るようになります。その声、その語りかけを聴き取りながら生活する。それが、聖書を読む、ということです。
 2年間続けて行って来たディボーション講座は、そのように聖書を読んで、聖書が自分に何を語りかけているか、その声を聴き取るトレーニングでした。方法とヒントがあります。それに基づいて、聖書の声を聴(き)き取ります。そして、自分が聴いた神の声を、他の人と分かち合うことで、信仰が更に養われ、豊かにされました。この取り組みはこれからも続けます。ディボーション講座という名前は変えるかも知れません。チャンスのある方はどうぞ、体験参加からしてみてください。
 もちろん、ディボーションに参加しなければいけないわけではありません。それ自体が目的ではありません。目的は、毎日の生活の中で、自分で聖書を読み、聖書の語りかけを聞けるようになることです。ディボーションはそのためのサポートの一つに過ぎません。要は、聖書を読む生活ができていればよいのです。

 そして、今年度掲げた〈御言葉に応えよう〉との目標は、この、聖書を読む、ということの延長線上にあると申しました。御言葉に応えるとは、聖書を読み、聴き取った神の声を、実生活の中に活かし、実践するということです。
 今日読んだ聖書箇所の少し後ろの19節以下に、主イエスの母マリアと兄弟たちが、主イエスを訪ねて来た場面があります。その知らせがあったとき、主イエスは周(まわ)りにいた人々に言われました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(8章21節)。
 聞いた神の言葉を行うことを、主イエスが大切にし、それを教えていることが分かります。御言葉に応えるとは、単純に言えば、御言葉を行うことです。自分の生活の中で実行、実践することです。そして、21節の御言葉はもちろん、今日読んだ聖書箇所、特に今年度の聖句として選んだ15節とつながりがあります。
「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。
 聞いた御言葉を行うこと、行うことで得られる成果があります。心の成果がありますし、目に見える結果となることもあります。それが、結ばれた「実」です。

 今日読んだ聖書箇所には、当時の農業を題材とした主イエスのたとえ話とその説明が記されています。当時の人々にはなじみ深い内容だったでしょうし、現代の農作業をしたことのない人にも想像のできる話だと思います。
 蒔(ま)かれた種のうち、畝(うね)と畝の間にある道にこぼれて、人の足に踏みつけられ、また鳥に食べられてしまうものがあります。
 先ほど、私は菜園で4月半ばに枝豆といんげん豆の種をまいたとお話しました。ちょうど今、芽が出て来たところです。でも、何もしないでおくと、出た芽を鳥が来て食べてしまうと教えられました。そこでネットをかけたり、プラスチックのかごをかぶせたりしてあります。道端に落ちた種ではありませんけれども、いつの時代にも鳥が来て食べるということはあるようです。熟(じゅく)していた実を、すっかり鳥に食べられてしまったという話も聞きます。
 鳥は、ここでは「悪魔」(12節)にたとえられています。悪魔が実在するかしないかなどということは問題ではありません。ここでは、聖書の御言葉がその人に受け入れられず、信じられない、その心の動きを表しているのです。聖書に関心がなかったり、聞いても“そんなことはあり得ない”“信じられない”と自分の価値観や常識で否定する。それが、悪魔に御言葉を奪い去られるということです。
 「石地(いしじ)」に蒔かれた種は、水気がないので枯れてしまったと言います。それは、「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、身を引いてしまう人たちのこと」(13節)だと言われています。
 信仰に「根」がないとはどういうことでしょう? それは、どんな時、どんな場合でも信じるという、信仰の根本の心に欠けているということです。簡単に言えば“ご利益信仰”なのです。人生が順調な時は信じられる。けれども、何らかの問題、挫折(ざせつ)や失敗、病気や愛する者との死別、そういった試練に遭(あ)うと、私たちの信仰はまさに試されます。そして、それらが解決したり、回復したり、癒(いや)されたりしないと、“信じているのに、祈っているのに、どうして?”という気持になり、“もう信じられない”と信仰から、御言葉から離れてしまうのです。
 「茨の中に」落ちた種とは、「御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩(わずら)いや富や快楽に覆(おお)いふさがれ、実が熟するまでに至らない人たち」(14節)だと言われています。信仰が自分の中で一番ではないのです。信仰と並び立ち、競い合うものがあるのです。それは、財産かも知れません。地位や名誉かも知れません。美貌(びぼう)や健康かも知れません。あるいは芸術やスポーツといった楽しみかも知れませんし、自分の好きな趣味かも知れません。恋人とデートをすることかも知れません。友だちと遊ぶことかも知れません。家族と過ごすことかも知れません。もちろん、それらが必要ないとは言いません。人生を潤(うるお)す大切なものです。けれども、人は、これが一番と思っていることに、最も心を用い、時間と労力とお金を使います。そうして、人生の土台とするべき信仰と御言葉は、2番、3番、4番、5番、‥‥10番と後ろへ追いやられていきます。そうなると、信じていても結ぶ実は小さい。実が熟するまでに至らないのです。
 御言葉を奪い去り、信仰から引き離そうとする悪魔の働き、試練、人生の思い煩(わずら)いや富や快楽‥‥、そういった要素をくぐりぬけて、御言葉が実を結び、信仰の成果が実感として感じられるようになるには、本当に「忍耐」が必要だなあと感じます。聖書を読み続ける忍耐。自分の価値観や常識で御言葉を否定しない忍耐。現実の試練に心を支配されず、信じて耐え忍ぶ忍耐。富や楽しみに飲み込まれず、信仰を大切にする忍耐‥‥。「忍耐」は実が熟し、実を結ぶ鍵(かぎ)です。本人も忍耐、周りも忍耐です。ローマの信徒へ手紙5章4節に、「忍耐は練達を、練達は希望を生む」と書いてあるとおりだと思います。
 3月下旬に植えたじゃがいもの芽が出て、葉がだいぶ大きく広がって来ました。その中に2ヶ所だけ、芽の出ていないところがありました。種イモが残っていたので、新しいイモを植えようかとシャベルで掘ったら、土の中に芽が出かかっていて、その芽を切ってしまいました。“しまった!”と思いました。忍耐が足りませんでした。種には自ら成長する力があります。その力を信じて、待つことが大切でした。
 御言葉にも自ら成長する力があります。御言葉によって、目には見えない聖霊が私たちの心の内に働き、信仰を成長させ、実を結ばせて行きます。私たちの努力もあるかも知れません。でも、信仰の実が結ばれるのは、私たちの力ではないのです。私たちにその力があるから、「立派な善い心で」と言われているのではないのです。
 「立派な善い心で」と言われると、“私にはちょっと‥‥”としり込みする人もいるかも知れません。けれども、それは私たち自身に、信仰の実を結ばせる力があるということではなく、御言葉の力を信じて委(ゆだ)ねていく忍耐、求められているのはそれです。要は、御言葉に本気になる、信仰にその気になる、ということです。
 御言葉が実を結んだとき、私たちは変えられます。その例を挙げる時間はもはやありませんが、人間関係が愛の行いによって変えられたり、死別の悲しみの中で希望と感謝の心を与えられたりと、そういう人の姿を私たちは少なからず知っていることでしょう。
 〈御言葉に応えよう〉。御言葉に聴き従って、実を結ぶ生活を、神さまの助けを祈りながら、コツコツと歩んでいきましょう。



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