2012年年6月3日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書8章22〜25節
  説教者  山岡 創

「向こう岸に渡ろう」
                        
 8月に埼玉の青年のキャンプが開催されます。例年は9月の連休に実施されていましたが、今年は様々な事情やメリットを考えて、中学生KKSキャンプとドッキングして行うことになりました。会場は長野県蓼科高原の女神湖です。
 先日5月22日に、現地の下見に行って来ました。うちの教会のNくんが青年部の委員長をしていますので、Nくんと、もう一人の青年と3人で行きました。
 宿泊先のユースホステルに着き、その後、すぐそばの女神湖に足を運びました。湖畔を1周すると、約1.8キロという小さな湖です。向こう岸がはっきりと見えていますけれども、一応1周しようということになりました。正直、最初はあまりおもしろくないコースだなあ、と感じていました。ところが、向こう岸に着くと、お昼のお弁当を楽しく食べられそうな林が岸辺にありました。桟橋(さんばし)のようなものもありました。そして、そこから眺める湖の風景が全く違って見えました。反対側から見ているのだから、当然と言えば当然ですが、日本百名山の一つに数えられている蓼科山をバックにして、とても美しいパノラマが広がっていました。
 同じ湖でも、こちら側と向こう側で見るのでは、ずいぶん違うものです。
 
 「湖の向こう岸に渡ろう」(22節)。そう言って主イエスは弟子たちと舟に乗り込み、船出されました。そこはガリラヤ湖と呼ばれる湖で、今も中近東パレスチナにあります。
普段、主イエスはカファルナウムという湖岸の町を中心にして、近隣の町や村の人々に、神さまの救いを宣(の)べ伝えていました。けれども、向こう岸の町には行ったことがありません。こちら側ではイエスさま、有名になり過ぎて休む暇もなかったので、見知らぬ向こう岸に一休みしに行かれたのかも知れません。渡って行く途中で、主イエスは眠ってしまったとあります。よほど疲れておられたのでしょう。
ところが、突風が湖に吹き降ろして来ました。地形の関係で、しばしばそのような突風が起こったようです。舟は揺(ゆ)られ、波をかぶり、沈みそうになりました。弟子たちは慌(あわ)てふためき、「先生、先生、おぼれそうです」(24節)と叫んで、主イエスを起こしました。そこで、主イエスは風と荒波を叱って鎮(しず)められました。その光景に、「いったい、この方はどなたなのだろう」(25節)と弟子たちが驚いたというのが今日の聖書の話です。

 けれども、考えてみるとおかしな話です。と言うのは、弟子たちの中には、この湖で漁をしていた漁師たちがいるのです。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、少なくとも4人は漁師がいます。彼らは、以前は漁師として、毎日のように舟を出していたはずです。そして、このような突風を少なからず経験していたと思われます。当然、どのように対処すれば良いか、経験上知っていたはずです。それなのに、まるで初めて湖の上で突風に遭ったかのように慌てふためき、大騒ぎする様子は、どうも解(げ)せません。
 おかしいと言えば、嵐を静めた後で言った主イエスの言葉もおかしい。普通だったら、“大丈夫か?”“無事か?”と尋ねる場面でしょう。ところが、主イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(25節)と、弟子たちの慌てぶりを評されました。“やれやれ、あなたがたの信仰、まだまだだね”と苦笑いされたような感じです。
 つまり、これは普通の嵐の話ではなく、「信仰」の話なのです。信仰に関わる嵐の話です。とすれば、これは神さまを信じていれば、嵐も鎮まる奇跡的現象が起きる、と言うよりも、人生の嵐、嵐のような苦しみ、悲しみ、悩みに関わる信仰の話だと言えます。
 私たちの人生は順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の時ばかりではありません。逆風が吹きます。嵐が起こり、人生という舟が揺り動かされ、絶望の底に沈みそうになる時もあります。
 交通事故で顔にやけどを負ってしまい、これでは結婚もできない、もう死んでしまいたいという苦しみ。不慮の事故で愛する家族を失ったという悲しみ。思わぬ病を患(わずら)って、健やかに生きられず、また死の不安を抱えるような悩み。家族の間でうまくコミュニケーションが取れず、遂には家庭が崩壊(ほうかい)してしまうような痛み。‥‥‥私たちの人生には様々な嵐が起こります。私のもとにも様々な人生の嵐の相談が舞い込みます。そう言えば、1年余り前に起こった東日本大震災による苦しみ悲しみも、とてつもなく大きな嵐でした。
 人生の嵐に遭って、辛いことですが絶望の波間(なみま)に打ち沈んでいく人がいます。無理もないことです。自分の力、人間の力ではどうにもならないことも少なからずあるのです。では、神さまを信じているクリスチャンはどうか? クリスチャンだからだいじょうぶ、とは言い切れません。今日の話の中の弟子たちのように、慌てふためいて、信仰がどこかに吹き飛んでしまったかのような不安や動揺に陥(おちい)ることもあるのです。
 こんなふうに感じることがあります。“信じているのに、祈っているのに、どうして神さまは嵐を静めてくださらないのか。吹き払ってくださらないのか”。そして、ともすれば“神さまは本当にいらっしゃるのか。もう信じられない”という気持になることもあり得ます。
 そういう私たちの気持を、「イエスは眠って」いる、という言葉が表わしています。つまり、私たち自身が、なかなか嵐の納まらない現実に、主イエスは眠っているのではないか、神さまは眠っているのではないか、否、本当はいないのではないか、だから、救ってくださらないのではないか、と疑いを感じてしまうのです。

 けれども、主イエスは、弟子たちが慌てふためいて、信仰がどこかに吹き飛んでしまっているような時にも、救いのために働いてくださっています。気づかないところで、見えないところで、私たちの人生を背負っていてくださいます。
 私は、そこがイエスさまの良いところ、神さまの良いところだなあ、と感じます。イエスさまは、嵐の中で信仰が吹き飛んでしまっているような弟子たちに、“お前たちには信仰がないから、もう救ってやらない”とは言わないのです。信仰が吹き飛んでしまっているような、信仰がないような弟子たち、そして私たちを受け止めて、私たちを救うべく、嵐の中で着々と働いてくださっているのです。そして、嵐を静めてくださった後で、叱ると言うよりは、温かく“きみの信仰はどこにあるのかね?”と問われるのです。そう言われたら、私たちは、“イエスさま、ごめんなさい。ありがとうございました”と答えざるを得ません。でも、それでいいのだと思います。嵐の渦中(かちゅう)にあるときは、なかなか信じて平安でいることも、自分の不信仰を悔い改めることも、感謝することもできないものです。それでも信仰を捨てずに忍耐していれば、やがて嵐が収まった時に、振り返ってみて、“ああ、神さまが支えてくださったんだなあ。助けてくださったんだなあ。神さま、感謝します”という信仰の思いが湧(わ)いて来ます。そのように振り返らせ、感謝させるために、イエスさまも、嵐を静めた後で、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と、神さまに目を向けさせようとしておられるのでしょう。

 そのような嵐と信仰の体験を繰り返しながら、私たちの信仰は成長していきます。そして、いつかやがて嵐の中にあっても、絶望しない、希望の光を失わない心が造り上げられていきます。
 4月のイースターの礼拝で、穂積圭吾さんという方の話をしました。もう既に天に召された方ですが、穂積さんは若い日に失明し、それがきっかけで信仰へと導かれます。その後、戦後の農地改革によって持っていた土地の大部分は人手に渡り、多額の持ち株は無価値となり、さらに蔵に保管していた財産が一夜にして泥棒に盗まれ、家を残しただけで持ち物はすべて失われたと言います。もちろん、大きなショックがあったと思います。けれども、穂積さんはいつも、新年の祈り会で、次のように語られたと言います。
  私は両眼と財産という二つの大きなものを失いました。しかし、それと引き換えに信仰という宝を得ました。この信仰によって、私はこの新しい年に、神さまはどんな新しい示しを与えてくださるか、楽しみにしています。
 嵐の中にあっても絶望しない、希望の光を失わない信仰の強さだなあ、と感じます。そして、これが「向こう岸」に渡った者の信仰だと思います。
 仏教の用語に“彼岸”という言葉があります。一般的には、春分の日、秋分の日がお彼岸として受け取られていることが多いですが、本来の意味は、煩悩(ぼんのう)すなわち人生の苦しみや悲しみ等を脱した境地のことを言います。キリスト教信仰にも、言わばこの彼岸の境地、「向こう岸」の境地があります。今日の聖書の話で言えば、嵐の中でも希望と平安を失わない信仰の境地です。
 その境地を目指して、主イエスは、私たちに「向こう岸に渡ろう」と招かれます。向こう岸から見たら、湖の風景が違うのです。風が吹き荒れ、波が逆巻く湖が、向こう岸から見たら、静かな凪(なぎ)の湖に見えるのです。それが、信仰の心、信仰の世界です。
 なかなかすぐには向こう岸に達し得ませんけれども、やがてたどり着く、そして今、漕(こ)いでいる途中にも、たとえ嵐の渦中にあるときにも、主イエスは共にいてくださり、私たちの救いのために働いてくださっている。そう信じて、今日も一掻(か)き、人生のオールを漕いで歩みましょう。



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