2012年年6月10日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書8章26〜39節
  説教者  山岡 創

「神があなたになさったこと」
                        
 主イエスと弟子たちは、嵐の湖を舟で渡りきって、ガリラヤ湖の向こう岸、「ゲラサ人の地方」(26節)に着きました。
 ゲラサ人というのは、32節以下から分かるように、豚を飼っていましたので、主イエスや弟子たちと同じユダヤ人ではありません。ユダヤ人は、神の掟である律法によって豚は汚れた動物と定められているので、豚を飼わず、その肉を食べないからです。ゲラサとは民族ではなく地名だったようで、その地域にはギリシア人が住んでいたようです。
 そのようなギリシア人の地に、主イエスがわざわざ渡って行ったのは、やはり、ご自分のもとに押し寄せて来るユダヤ人の大群衆から一時離れて、休むと同時に、祈りによって父なる神さまと交流するためだったのではないでしょうか。

 けれども、主イエスの思惑(おもわく)通りには行きませんでした。「イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊(あくれい)に取りつかれている男がやって来た」(27節)からです。主イエスと弟子たちが上陸した場所は、その男が住まいとしていた「墓場」(27節)だったのでしょう。男にしてみれば、自分の住まい、自分のテリトリー(居場所)である墓場を他人に侵(おか)されそうになったので、追い出しに来たのでしょう。力ずくで追い出そうと、何か危害を加えようとしたのかも知れません。ところが、かえってこの男に取りついている悪霊が、主イエスの癒(いや)しの力によって追い出されることになったのです。
 「悪霊」とはいったい何でしょうか? 現代人である私たちには理解しがたいものです。けれども、当時は今と違って、分らないこと、解明されていないことが少なからずありました。どうしてそういうことが起こるのか、どうしてそうなるのか分らない。そういう分からないことを、当時の人々は悪霊の仕業(しわざ)だと考えたのです。例えば、原因不明の病気や障がいは、悪霊の仕業と考えられました。人が、理解できないような異常な行動を取ることも、悪霊の仕業と考えられました。
 ゲラサの男も、普通の人には理解できないような異常な行動を取っていたのです。彼は、「衣服を身に付け(ず)て」(27節)いませんでした。「家に住まないで墓場を住まいとして」(27節)いました。それだけでなく、「鎖(くさり)でつながれ、足枷(あしかせ)をはめられて監視されていた」(29節)とあります。と言うことは、単に異常なだけではなく、周りの人が困るような、迷惑や危害を被(こうむ)るような行動を取っていたということです。
 私はふと、現代において、病気のために鎖やベルトでベッドに縛り付けられる人の姿を思い起こしました。それは家族にとって、とても辛いことでしょう。そこで、もう一つ思い出したのが、先日の説教でお話した、滋賀県にある重度の知的障がいを持った子どもたちの施設・止揚学園の成立のエピソードでした。1962年、障がい児に対する関心も薄く、国の取り組みも遅れていた当時、福井達雨さんという方がこの学園を始めるのですが、そのきっかけとなったのは4人の知的障がい児との出会いでした。その中の一人は、牛を飼わなくなった家畜小屋の土間に掘った穴の中に入れられていたといいます。何てひどいことをするんだ、と怒鳴(どな)る福井さんに対して、その子の母親は目に涙をためて、“この子を外に出すと、皆がからかったり、石を投げたりします。車の前に走って行っても、誰も止めてくれません。この穴に入れている時だけがこの子の生命を守れるのです”と訴えました。その言葉にハッとして、済まなかったという気持で、止揚学園が始まったのですが、私は、知的障がいを持った我が子を穴に入れることと、今日の聖書の話で、ゲラサの男が鎖で縛られる姿が重なり合う気がしました。
 自分の家族を、進んで、喜んで、鎖で縛ったり、穴に入れたりする人は誰もいないのです。辛いのです。悲しいのです。それでも、他の人に迷惑がかかるから、生命を守れないから、そうするのです。それでも、ゲラサの男は鎖を引きちぎり、服を着ず、墓場に住んでいた、と言います。もうどうしようもない。家族にしてみれば、どんなに辛い、苦しい、肩身の狭い気持だったかと思います。
 自分(たち)の力ではどうしようもない辛さ、苦しみ。途方に暮れてしまうような悩み。そこに、主イエスは来てくださいます。どうにもならない。そう思ったとき、私たちは本気で神を求めます。そして、悩み苦しみと信仰の葛藤(かっとう)、紆余曲折(うよきょくせつ)の中で、私たちは、見えない神と出会うのです。

 私たちは、悪霊に取りつかれているとしか言いようのないような悩み苦しみに陥ることがあります。取りつく力が強いので、なかなか振り払うことができないのです。それは、病気や障がいだけの問題ではありません。もしも聖書が語る悪霊に取りつかれた状態が、単に病気や障がいだけのことならば、私たちの中には、今日の聖書の御言葉は自分には関係がない、という人がずいぶん出て来てしまうのではないでしょうか。けれども、そうではないと思います。
 私は、自分にとって、悪霊が取りついていると言えるのは、どんな時だろうかと考えてみました。思い当たることが幾つかあります。その中で、20歳前後の頃の経験をお話したいと思います。
 子どもの教会学校の奉仕を始めた私は、信仰にまじめに、熱心になっていました。そして、神さまは、神さまの御心に従って、御言葉を行う者を認めてくださる、愛してくださると考えていました。奉仕をし、献金し、礼拝や集会に出席する。努力をし、行い、結果を出す。そういう人間が偉い。神さまに救われると思っていました。“良い子”が神さまに愛されると信じていました。
 大間違いです。それは、主イエスが伝える信仰、聖書が証しする信仰ではなく、主イエスに敵対したファリサイ派の信仰です。神さまが愛してくださるのは、そんな行いとか、能力とか、結果とか、成績とか、そんなものに関係ありません。マザー・テレサは言いました。“人は不合理、非論理、利己的です”と。それでも、神は私たちを愛してくださるのです。大切な、価値ある存在と認めてくださっているのです。
 けれども、当時の私は、まるで悪霊に取りつかれたかのように、人が救われるのは、人の値打ちは行いと結果、そう思っていました。
 そんな私が、大学受験に失敗しました。高校現役で落ち、一浪しても受からず、二浪しました。2年目は予備校に行きませんでした。自宅で勉強しました。でも、なかなか集中できません。先が見えず、自分の目標や将来が見えず、努力できない。手に着かない。やる気が起きない。こういう中途半端(ちゅうとはんぱ)な時は、“居場所”がないのです。自分の家に安心して居られないのです。川越から鶴ヶ島、若葉、坂戸の近辺をウロウロと、3時間も4時間も歩いて時間を潰(つぶ)しました。まるで家に居られず、墓場をうろつくゲラサの男のようでした。その気持が分かる気がします。
 何とかしなければ。やらなければ。結果を出さなくては。でも、できないのです。手に着かないのです。どうしようもないのです。そんな自分のことを、生きる価値のないダメ人間と見なすネガティブ(マイナス思考)な思いに取りつかれていました。
 それが、ある意味で私に取りついていた「悪霊」の一つでした。そして、その悪霊を取り払ってくださったのが主イエスでした。行いと結果、それがなければダメ人間と思い込み、落ち込んでいた私の考えを、180度変えてくださったのです。たとえダメ人間であろうと、行いと結果がなかろうと、不合理で、非論理で、利己的であろうと、あなたは生きていて良い。生きる値打ちがある。大切な、私の愛する子だ。そういう主イエスの価値観と出会って、私の中の「悪霊」は追い出されたのです。その時点では、私の現実と生活は何も変わっていませんでした。何の行いも結果もない。それなのに。肩の重荷が下りて、軽やかに生きられるようになりました。灰色に見えていた人生が、その時から何色でしょう?とにかく明るく見えるようになったのです。
 主イエスの価値観に自分も生きる。それが「正気」(35節)になる、ということなのかも知れませんね。

 さて、主イエスがゲラサの男の中に取りついていた悪霊を追い出された成り行きを見知って、ゲラサの人々は、主イエスに、「自分たちのところから出て行ってもらいたい」(37節)と願いました。36節に「悪霊に取りつかれていた人の救われた次第」とあります。人が救われたのです。その“救い”を見たのに、出て言ってくれ、というのはおかしな話です。けれども、主イエスによる救いは、周りの人からは理解されず、受け入れられないことがしばしばあることを、私たちは知っているでしょう。
 悪霊を追い出してもらった男は、主イエスのお供をしたいとしきりに願った、といいます。けれども、主イエスはそれを許さずに、こう言ってお帰しになりました。
「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(39節)。
 あなたには今まで「自分の家」がなかった。家に自分の“居場所”がなかった。でも、もうだいじょうぶ。あなたには安心がある。神の愛の中に、あなたの家がある。居場所がある。だから、どこにいても、どんな状況でも神を信じて生きていける。その姿を、あなたのことで辛い思いをし、苦しみ悩んでいる家族に見せてあげなさい。その喜びを分かち合いなさい、と主イエスは言われたのです。
 彼は、そう言われて、家族はもちろん、「イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」(39節)といいます。
 「イエスが自分にしてくださったこと」が、自分の中ではっきりしていますか? “神さまが私にこうしてくださった”と思えることがありますか? “人が”してくれたことではなく、“イエスが”“神が”してくださったことです。もちろん、人を通して、という場合があります。でも、そのことを“人が”ではなく、“神が”してくださったことと、はっきりと確信できますか?
 神さまが自分にしてくださったことが、信仰の原動力になります。それが、自分の中ではっきりしないと、私たちは、落ち着く場所もなく墓場をさまようかのように、信仰の迷い、人生の迷いをさまようことになります。
 そして、神さまが自分にしてくださったことがはっきりしていれば、私たちはそれを語ることができます。神の救いを伝えることができます。それは伝道の原動力でもあります。
 「イエスが自分にしてくださったこと」は、はっきりしていますか? 改めて自分の信仰を見つめ直してみましょう。そして、その救いを探し当てる信仰の旅を、その救いと繰り返し出会う人生の旅を歩み続けて行きましょう。




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