2012年7月22日 大人と子どもが共に守る礼拝説教
  聖  書  マタイによる福音書16章13〜20節
 説教者  山岡 創

「あなたは幸いだ」

 今週24日の火曜日から2泊3日で、埼玉2区の小学生合同キャンプが始まります。今年でメモリアルな10回目です。場所は東秩父村にある、いつもの白石観光農園村キャンプ場で、小川教会、狭山伝道所、所沢みくに教会、鳩山伝道所、武蔵豊岡教会、毛呂教会に私たち坂戸いずみ教会を合わせて、7つの教会伝道所から、小学生29名、大人22名、全51名が参加します。私たちの教会からは小学生10名、大人5名が参加します。
 今回のキャンプのテーマは、〈イエスさまについて行こう 〜 ペトロのように〉と題して、福音書に描かれているペトロの信仰を学びます。学ぶ、と言っても、キャンプ場ですから、机の上で学ぶようなやり方はしません。ペトロがイエスさまから弟子に召される場面、ペトロが湖でおぼれそうになりイエスさまに助けられる場面、“イエスさまを知らない”と3回言ってしまう場面、そして復活したイエスさまと出会い、“わたしの羊を飼いなさい”と伝道へと送り出される場面。この4つの場面を、4つのグループでどれか一つを担当し、その場面の体験型アトラクションを作ります。キャンプ場の自然を生かし、ダンボールやマジック、ひも等を使って、楽しいアトラクション・コーナーを4か所作ります。そして、子どもたちは自分がペトロになって、4つのコーナーで、ペトロが体験したことと同じ体験をします。そのようにしてペトロの信仰を体で感じながら学びます。私のグループは、ペトロが湖でおぼれそうになりイエスさまに助けられる場面を担当します。湖はありませんが、キャンプ場には川が流れているので、その川を湖に見立てて、舟はどうしようか、ペトロが最初、湖の上を歩くところはどうやろうか、その後、どうやっておぼれさせようか(笑)、ワクワクしながら考えています。


 ところで、今日読んだ聖書の箇所は、今お話した4つの場面のどれでもありません。今日の箇所は、ペトロが「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です」(16節)と信仰を言い表す場面です。
 実は、今日の聖書の場面も、候補の一つに挙がっていました。けれども、グループが4つなので、場面を4つに絞らなければなりません。その結果、この場面は外されることになりました。
 けれども、ペトロが信仰を告白する、とても重要な場面です。何とか生かせないかとスタッフ皆で考えて、では、復活したイエスさまに出会った後で、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を表わす、という設定で、復活の場面にくっつけることにしました。どうしてそのようにすることにしたのか?それは、ペトロが復活したイエスさまと出会った後で初めて、この信仰が“本物”になるからです。「岩」(18節)のように固い、確かな信仰になったからです。


 「あなたはメシア、生ける神の子です」と、ペトロはイエスさまに向かって言い表しました。けれども、この時はまだ、ペトロの信仰は、岩のように確かな信仰になってはいませんでした。なぜなら、この後で、イエスさまは敵に捕まり、十字架に架けられますが、そのときペトロは“イエスさまなんて知らない。自分には関係がない”と3度言い放ち、イエスさまを裏切ってしまうからです。これでは、確かな信仰、岩のように固い信仰だとはお世辞にも言えませんね。
 そのとき、鶏(にわとり)が鳴きました。ペトロはハッとしました。前の日の夜、イエスさまから、“あなたは鶏が鳴く前に3度、わたしを知らない、と言うだろう”と予告されていたからです。ペトロは、“死んでも、そんなことは言いません”と言いましたが、イエスさまが言われたとおりになって、ペトロは自分の犯した過ちを後悔し、激しく泣いたと言います。
 けれども、十字架に架けられ殺されたイエスさまは3日目に復活します。そして、弟子たちのところに、ペトロのもとに来てくださいます。そして、ペトロを赦(ゆる)し、もう1度、イエスさまを信じる人々のお世話をしなさい、指導をしなさいと、イエスさまはペトロに命じます。そのとき初めて、ペトロの信仰は確かな信仰になりました。自分の罪を赦されて、イエスさまに送り出されて、イエスさまに愛されていることを知って初めて、「あなたはメシア、生ける神の子です」とのペトロの信仰は、岩のように確かな信仰になったのです。


 話は変わりますが、私は高校1年生、16歳のイースターに、イエスさまを信じて洗礼を受けました。その前に高校受験があって、イエスさまに助けてもらったと感じて、恩返しをしようと思って、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白して洗礼をうけました。けれども、その時の私の信仰は“本物”ではなかったなあ、と思います。
もちろん、嘘(うそ)ではないのです。イエスさまを信じる気持は嘘ではないのだけれども、本当に確かな、固い信仰になっていませんでした。なぜなら、洗礼を受けてすぐに(1か月後ぐらいに)、“しまった、受けるんじゃなかった”と思ったからです。それって、“イエスさまなんて知りません”と言ってるようなもんでしょう。どうしてそんな気持になったかと言えば、“イエスさま一番”ではなく、“サッカー一番”にしたかったからです。
そんな私の、性(しょう)もない信仰が、確かなものになるのは、大学受験に失敗して、自分の人生が分からなくなった、人生の道に迷って迷子になったときでした。そこで自分の罪を感じ、自分はだめ人間だと落ち込んだときに、“そんなことはない。あなたには大切な値打ちがある”とイエスさまに愛されたからでした。一度死んだ私が、イエスさまの愛によって復活したからでした。そのとき、イエスさまを信じる私の気持は、揺るがない、確かなものになったのです。ペトロのようになったのです。


 「あなたはメシア、生ける神の子です」。このペトロの信仰の上に「教会を建てる」(18節)とイエスさまは言われました。けれども、ペトロの信仰も、最初はグラグラでした。岩のように固く、確かなどころか、砂のような、嵐と洪水が起これば流れてしまうような信仰でした。そんな砂のような信仰の上には、教会は建ちません。
 イエスさまのたとえ話の中に、砂の上に家を建てた人と岩の上に家を建てた人の話があります(マタイ7章24〜27)。嵐が来ると、砂の上に建てた家は流され、壊れてしまった。けれども、岩の上に建てた家は嵐にも耐えて、立ち続けました。
 信仰もそう、教会もそうです。イエスさまを信じる信仰が砂のようにもろかったら、そこに教会はできませんね。「あなたはメシア、生ける神の子です」と信じる信仰が、岩のように固く、確かな信仰になって初めて、その信仰の上に教会が造り上げられていきます。そのような、確かな信仰の上に、「教会を建てる」とイエスさまは約束されたのです。
 私たちの信仰はどうでしょう?自分の信仰はどうでしょう?イエスさまの御(み)言葉をしっかりと聞いて、お祈りをして、イエスさまに従って、イエスさまに赦されて、愛されて、心の底から“イエスさま、信じます”と言えるようになりたいですね。






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