2012年8月5日 礼拝説教
  聖  書  ルカによる福音書9章10〜17節
 説教者  山岡 創

「あなたがたが与えなさい」

 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。
 イエスさまは、弟子たちに言われました。弟子たちはとても戸惑(とまど)ったことでしょう。どうやって? 彼らはパン5つと魚2匹しか持っていないのに、群衆は男だけでも5千人もいるのです。 そうかと言って、5千人以上の人々に与える食べ物を買うだけのお金なんて、弟子たちは持っていなかったと思うのです。
「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(13節)。
 弟子たちの戸惑う気持が、この言葉によく現われています。
 弟子たちの言い分はもっともです。イエスさまの言われることの方が無謀(むぼう)だと思われます。無理です。イエスさまも、その“無理”が分かっていなかったわけではないと思うのです。そうだとすれば、どうしてイエスさまは、このような無理を言われたのでしょうか? 人間には無理でも神にはできる、その力を示そうとしたのでしょうか。結果的には、5千人の人々が満腹するという奇跡が神の力によって引き起こされるのですが、私は、イエスさまがそれを狙って、こう言われたのだとは思われません。それならば、イエスさまは何を考えて、弟子たちにこのように言われたのでしょうか?

 このやり取りがあったのは、弟子たちがイエスさまに遣(つか)わされ、「村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」(6節)後のことでした。9章のはじめに、そのことが記されています。
 やがて弟子(使徒)たちは、伝道の旅から帰って来て、「自分たちの行ったこと」(10節)をイエスさまに報告しました。イエスさまは「彼らを連れ、自分たちだけで」(10節)、人里離れたベトサイダの郊外に退(しりぞ)かれました。弟子たちの疲れた様子を見て、休ませるために、そうしたと思われます。
 ところが、「群衆はそのことを知って、イエスの後を追」い(11節)ました。イエスさまの教えを求め、イエスさまの癒(いや)しを求めて、ひたすらついて来ようとしたのです。そのような人々の気持を思い、憐れに思って、イエスさまは群衆を迎え、「神の国について語り、治療の必要な人をいやしておられ」(11節)ました。
 この様子を弟子たちはどのように感じていたのでしょうか? 皆さんが弟子だったらどのように感じたでしょうか? もし私が弟子のひとりだったら、“勘弁してよ。休ませてよ”と思ったでしょう。村から村を巡り歩いて、伝道の旅から帰って来て、もうヘトヘトなんだ。ちょっと休んだら、また皆のところに行って働くから、今日だけは頼むから休ませてよ。弟子たちもそのように思っていたかも知れません。けれども、主であるイエスさまが群衆を迎えて語り、癒しているのですから、その気持を口にはできませんし、自分たちだけ休むこともできなかったでしょう。そこで嫌々(いやいや)ながら、イエスさまに付き従っている。それが、このときの弟子たちの気持だったのではないでしょうか。
 その不平不満の気持を心に包んで、イエスさまに従っていたら、イエスさまは何も言わなかったかも知れません。疲れているのに、嫌だろうに、よく頑張っているなあ、と思われたかも知れません。
 けれども、弟子たちの不平不満が形となって出ました。しかも、ストレートに“疲れました。休ませてください”と言うのではなく、変化球で、しかも、もっともらしい理屈をつけて現れたのです。
「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れたところにいるのです」(12節)。
 日が傾いて夕方になっているし、確かに弟子たちの言うことは、もっともです。理に適(かな)っています。
 けれども、その提案に、群衆のことを本気で思う“愛”の気持はあったでしょうか?そうではなかったと思うのです。言葉の表面は、人々のことを考えて言っているようで、中味は、自分(たち)のことを考えて、“これで休める。やれやれ。ああ、良かった”という気持でいたのではないかと思います。
 そういう弟子たちの本心を、主イエスは見抜かれたに違いありません。だから、そうしよう、とは言わず、あえて「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのだと思います。
 弟子たちに欠けていたものは“愛”でした。群衆のことを本当に考える愛、隣人を自分のように愛する愛でした。それは、イエスさまの教えを伝える上で、信仰の道を歩む上で、いちばん必要な、大切なものだったのです。悪霊を追い出すことよりも、病気を癒すことよりも、もっと必要なことだったのです。それがなければ伝道できない、弟子でいられない、根本のことなのです。にもかかわらず、弟子たちはそのことに気づかず、自分の都合を優先し、休むことばかり考えて、しかも、もっともらしい理屈をつけて自分を正当化し、格好を付けている。そういう自分の姿に気づかせるために、そういう“罪”に気づかせるために、イエスさまは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのです。
 それは、5千人の人々に食べ物を与え、満腹させるという“無理”を求めている言葉ではなく、5千人の人々を本気で思う“愛”を求めている言葉だと、私は思います。愛のない自分に気づきなさい。愛のない自分に理由をつけて正当化する自分の罪に気づきなさい。そういう自分を悔い改めて、愛しなさい。愛に立ち帰りなさい。イエスさまは、そう言っているのです。
 それでも、弟子たちは、そう言われていることに気づかず、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と、第2の理由をつけて、自分を正当化しようとするのです。
 私は、この弟子たちの姿を笑うことも、さげすむこともできません。弟子たちの姿は、まさに私自身の姿だと思うからです。私もまた、イエスさまの言葉の前に、自分自身を悔い改める以外ないと思うからです。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。
 イエスさまが求めたものは“奇跡”ではありません。“愛”です。ただ“愛しなさい”と言われているのです。そして、愛の前には言い訳することはできません。「パン五つと魚二匹しかありません」と言い訳することは、イエスさまの心に沿わないのです。パン五つと魚二匹でいい。それでいい。それで愛するのです。足りないかも知れない。でも、結果ではないのです。
 我が家の中2の次女が、中学校の陸上部に属して活動しています。駅伝で全国大会出場を目標にしている、かなり本格的な部活動です。その訓練の中で、顧問の先生が、部員の精神面を育てようとして、時々、心構えについての言葉をプリントにして配ります。陸上競技だけに関わらず、良い言葉がよくあります。その中に、次のような言葉がありました。
できないのではない。やらないのである。
 まさにその通り、と思いました。今、我が家の食器棚に貼り付けてあります。部活動もそう、勉強もそう、仕事もそう、家事もそう、人間関係もそう、そして“愛”もそうです。現実を目にして、最初から「パン五つと魚二匹しかありません」と計算し、結果を考えて、“できない”と言い訳する。できないのではない。やろうとしないのです。
 できなくていいではありませんか。人を愛するって、すごいことです。まさに神の業です。本当に最初からできないことだってあります。そのときは、言い訳せずに“ごめんなさいね”と神さまと隣人にお詫びして、またの機会を志(こころざ)せばよいと思います。完全に愛するなんて、私たち人間にはできっこありません。
 それでも、私たちはパン五つと魚二匹を持っている。皆、持っている。自分なりの気持と、時間と、労力と、お金と、必要な何かを、一人ひとりが持っている。「パン五つと魚二匹しかありません」とネガティブ(後ろ向き)に考えるのではなく、パン五つと魚二匹を持っているとポジティブ(前向き)に考えることが大切だと思います。その中で、自分にできることがきっとある。人を愛することが何かできる。5千人に足りるようにと最初から結果を考えなくていい。もし、その相手が自分の愛する家族や愛する人だったら、その人を助けるためだったら、できるかできないかなんて考えずに、私たちはやろうとするでしょう。動こうとするでしょう。奇跡というのは、そういう“あきらめない愛”の心と行いに、神さまが感動して添えてくださる結果なのだと思います。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。
 今日の週報の報告にあるように、私たちの教会で献げた東日本大震災救援献金の累計(るいけい)が459,534円となりました。日本基督教団は2015年3月末までに10億円の募金を目標にしています。震災に遭った人々と教会の被害総額に比べたら、45万円という金額は、まさに5千人の群衆に対するパン五つと魚二匹かも知れません。
 けれども、その45万円には、小さいかも知れないけれど、私たちの“愛”が込められています。小さくても、だれかが、ではなく“私たちが”献げ、与えるものは、きっと無駄には終わりません。イエスさまの賛美(さんび)と祈りの下(もと)に、イエスさまを信じる私たちの信仰の下に、神さまが用いてくださると信じます。
 それだけではありません。私たちは一人ひとり、自分が置かれた場所で、隣人を愛する何かかができます。神さまから自分に与えられている「パン五つと魚二匹」の賜物を用いて、隣人を愛することを心がけて歩いて行きましょう。



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