2012年9月2日 礼拝説教  
  聖  書  ルカによる福音書9章18〜27節
  説教者  山岡 創

「イエスについて行きたい」

  “わたしについて来たいか?”もしもイエスさまが目の前にいて、そのように聞かれたら、皆さんは何と答えるでしょうか?私なら、“はい、主よ。ついて行きたいです”とは、素直に答えられないかも知れないなあ‥‥‥と思います。大変そうだ、難しそうだ、そう思って返事に躊躇(ちゅうちょ)し、目を伏せてしまうかも知れない。“ちょっと考えさせてください”と逃げてしまうかも知れない。イエスさまについて行くことは、楽しいイベントに参加するとか、おいしいご飯を食べに行くとか、すぐに両手を上げて、“行く、行く!”と言えるようなことではないような気がします。
 けれども、イエスさまが生きて活動していた2千年前の当時は、イエスさまについて行きたいと思う人々がたくさんいました。
 直前の箇所、9章10節以下に、〈五千人に食べ物を与える〉という話がありました。イエスさまが群衆から離れて、ベトサイダという町にひっそりと退(しりず)こうとされた時、5千人もの人々がイエスさまの後を追って行きました。人々はイエスさまの言葉に期待しました。イエスさまの癒(いや)しに期待しました。イエスさまに何かを期待してついて行ったのです。
 やがて夕方になって、お腹を空かせた5千人の人々に、イエスさまはパンと魚を分け与えて満腹させました。サプライズが起こったのです。人々の期待はいやが上にも盛り上がったことでしょう。

 そのような出来事の後で、イエスさまは探るように弟子たちに尋ねました。
「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」(18節)。
 「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、「だれか昔の預言者」(19節)。いずれも当時のユダヤ人の憧れ、尊敬を集めていた伝道者、預言者たちです。イエスさまは、その生まれ変わりだ、というわけです。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)。
 この問いかけに対して、ペトロが弟子たちを代表するかのように、「神からのメシアです」(20節)と答えました。
 メシアというのは、旧約聖書の言語であるヘブライ語で“油を注がれた者”という意味です。それは、特別な使命のために神さまに選ばれた“救世主”“英雄”のことです。具体的には、王様であったり、預言者であったり、戦いのリーダーであったりしました。ちなみに、このメシアという呼び方は、新約聖書のギリシア語では“キリスト”と言うのです。
 当時のユダヤの人々は、力あるメシアを待ち望んでいました。当時ユダヤ人は、ローマ帝国(ローマ人)に国を滅ぼされ、支配されていました。自由を奪われ、税金を搾取(さくしゅ)されていました。そのような苦しみと屈辱の中で、人々は、ローマ帝国を打ち破り、ユダヤ人の国を復興する英雄、救世主を待ち望んでいたのです。
 そのような当時の人々の期待も込めて、ペトロは、「神からのメシアです」と答えたのです。

 ところが、その答えは、イエスさまが最も恐れていた、最も気に染まない答えだったようです。その期待は弟子たちの誤解でした。なぜなら、22節以下で分かるように、イエスさまはご自分のことを、国家復興のリーダーとは思っていないからです。だから、そのような弟子たちの誤解が、そのまま群衆にまで広がって行くことを恐れて、「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じ(た)」(21節)のです。
 私たちもともすれば、イエスさまを誤解します。間違った期待をかけることがあります。それは、イエスさまのことを、願えば何でも叶えてくださる救い主だ、神さまだと思っていることです。教会に来始めた当初、信仰の道に入った最初、特にそのような傾向があるように思われます。信じれば何でも叶えてくださる、という自分の願望を、イエスさまに投影する。宗教に期待するのです。そう信じて、期待して、一生懸命に祈る。病気を治してください。仕事が成功するようにしてください。この学校に合格させてください。子育てがうまくいくようにしてください。家庭が平和で、家族が幸せであるようにしてください‥‥。もちろん、そのように様々なことを願い、祈ること自体が悪いわけではありません。それは、私たちの心からあふれ出る気持です。問題は、祈った後の態度です。祈り願ったようになればいい。けれども、祈り願ったようにならず、うまく行かないと、信仰に失望する。信じることに意味があるのか、と疑ったり、キリスト教は駄目だと投げ出したりする。更に思い余って、イエスさまを恨んだり、憎んだりすることさえあるかも知れません。
 当時のユダヤ人の群衆がまさにそうでした。イエスさまに国家復興を期待して、けれども、その祈り願いが裏切られたと感じて、ついて行くことを止め、手のひらを返して、遂には“イエスを十字架につけろ”と叫ぶ。そのような群衆と同じ道を、私たちも歩んでいるかも知れないのです。

 イエスさまは、ご自分のことを、弟子たちが期待しているようなメシアではないことをはっきりと言われました。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥(はいせき)され殺され、三日目に復活することになっている」(22節)。
 イエスさまの教える救いと愛の道、イエスさまのなさる愛の業は、当時の宗教指導者たちの考えにはそぐわないものでした。自分を犠牲にした愛。そういうことは煙たがられるのです。抹殺されるのです。イエスさまには、そうなるであろうご自分の運命が了解されていたのです。しかも、聖書(現代で言う旧約聖書)には、そのようになる神の僕(しもべ)の宿命が、イザヤ書53章をはじめとして預言されていました。その聖書の預言を分かっているから、イエスさまは、「‥ことになっている」と言われたのでしょう。
 そのように、イエスさまは、ご自分は何者であるかということを弟子たちに語られた後で、それでも“わたしについて来たいか?”と問われたのです。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(23〜24節)。
 イエスさま御自身が、日々、自分を捨てて、人を愛する道を歩んでおられます。十字架に架けられ殺される宿命を覚悟しておられます。そういう方に、弟子は信じて、ついて行くのです。自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従って行くのです。
 しかも、ルカによる福音書が書かれた当時は、ネロをはじめとするローマ皇帝が、教会とクリスチャンを激しく迫害している時代でした。皇帝を神と敬(うやま)い、礼拝しなければ殺される時代でした。だれだって殺されたくはありません。自分の命を救いたいと、イエス・キリストを捨て、皇帝を礼拝するクリスチャンが少なからずいました。でも、その人は今、愛と真理に生きる命を失う。神の国で、永遠の命をいただけなくなるのです。反対に、皇帝を礼拝せず、キリストを信じ抜いて、処刑され、殉教する者は、信仰の命を生きて、神の国で永遠の命を得るのです。それがキリストの救いの約束です。
 私たちはどうでしょうか。今は迫害の時代ではありません。命を懸ける、命を捨てるということはありません。けれども、“自分を捨てなければ、命を得られない”という真理は、私なりに分かる気がします。問題とか悩みとか、何かにぶつかったとき、私たちは、それが“できるか、できないか”を予想し、判断します。そのとき、私たちは、自分の力量を考えながら、“自分が”“自分で”と自分を意識しています。そして、自分がしなければならないけれど、自分の力では大変そうだ、難しそうだ、と思うと、イライラしたり、嘆いたり、あきらめたり、逃げたりするかも知れません。そのとき、私たちは命を失っている気がします。信仰によって生きる命のことです。
 そういう自分に、聖書の御(み)言葉によってハッと気づかされて、自分が、自分で、という思いを捨てて、“神さまが”最善になしてくださると信じて、“イエスさま、よろしくお願いします”と祈り、おゆだねする。すると、今まで自分にしがみつき、自分の命にしがみついていたところから解放されて、“神さまにお任せしたからだいじょうぶ、これで良い”という平安に満たされます。“神さまにゆだねて自分にできることをしよう”という積極的な思いに変えられます。それは、神さまによって救われた命を生きている、ということだと思います。それは、自分の問題とか悩みとか、苦しみとか弱さとか、そういう「自分の十字架」を日々、逃げずに背負って生きているということだと思います。
 カトリックのシスター・渡辺和子さんが、置かれたところで咲きなさい、という言葉を言われました。それは、自分の人生を、自分の人生に与えられている問題も悩みも、苦しみも弱さも、神さまを信じて、ゆだねて、逃げずに、背負って、精一杯生きていきなさい。人生が表面的にうまく行ったか行かなかったかという結果ではなくて、置かれたところで信仰を持って、一生懸命生きて、そういう意味で命の花を咲かせなさい。そういう意味だと私は受け取っています。自分の人生を、自分の十字架を背負って命の花を咲かせる。それが、イエスさまが22節で言われている、苦しみの後で復活する、復活することになっているという、救いの約束なのだと思います。
 “置かれたところで花を咲かせたいか?”もしも今、イエスさまが目の前にいて、このように聞かれたら、皆さんは何と答えますか?私は、“はい、主よ、命の花を咲かせたいです”と答えたい。色んなことがあっても、花を咲かせる人生を生きたいと願っています。約束はきっと実現します。



   ウィンドウを閉じる