2012年9月16日 高齢者を覚える礼拝説教
  聖  書  イザヤ書46章1〜4節
  説教者  山岡 創
「白髪になるまで背負っていこう」

 私たちの教会で101歳という最高齢の教会員であったM.Tさんが7月30日に天に召されました。Mさんは1973年に石神井教会で洗礼をお受けになりましたが、1993年に鶴ヶ島で息子さん家族と同居することとなり、当時生まれて1年余りの私たちの教会においでになりました。Mさんが初めて教会においでになった時のことを今も覚えています。当時、坂戸いずみ教会(当時、坂戸伝道所)は高麗川べりにあって、増改築工事中でした。Mさんが来たときは玄関を工事中で、そこから入ることができず、脇へまわって縁の窓から、ヨッコラショっと膝をついて上がられたことを思い出します。それから20年近くのお付き合い、この新会堂が建った2005年までは、ほとんど休まず礼拝(れいはい)においでになりました。その後は自宅での生活が続きましたが、今年6月頃までは、はっきりと会話をすることができました。いつも坂戸いずみ教会のために祈ってくださいました。
「わたしはあなたの老いる日まで、白髪(はくはつ)になるまで背負っていこう」(4節)。
 本日、高齢者を覚える礼拝を迎えて、この聖書の御(み)言葉を与えられ、真っ先に心に浮かんだのはM.Tさんのことでした。ご長男を幼くして亡くされたり、太平洋戦争の際には桑名で空襲に遭い、家を失ったり、他にも色々な苦しみ悲しみ、また喜びもあったことと思います。そのようなMさんの人生の歩みを、主である神さまは白髪になるまで、最後まで背負ってくださったのだと信じます。

 神さまは、私たちの人生を背負ってくださる方です。救い出してくださる方です。ところが、ともすれば私たちは反対に、自分が神さまを背負っているかのような歩みをすることがある。神さまが背負ってくださると信じて、神さまにおゆだねすることを忘れ、“自分が”“自分で”と、自分の力で生きているかのように思い上がったり、反対に落ち込んだり、信仰を失ったかのような生き方をしていることがあり得るのです。
「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に追わされ、お前たちの担(かつ)いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く」(1〜2節)。
と今日読んだ聖書の御言葉にありました。
 イザヤ書が書き記された紀元前6世紀の当時、イスラエルの人々は、バビロニアに強制移住させられていました。大国バビロニアに戦争で敗れ、国を滅ぼされ、多くの人が故郷を追われ、バビロニアに捕虜として移住させられたのです。皆、打ちひしがれていたに違いありません。その地で、イスラエルの人々は、バビロニア人の信じる神々の像を見ました。ベルやネボというのは、バビロニアの多くの神々の中の主神です。
 けれども、預言者イザヤは語ります。それらは、本当の神ではない。なぜなら偶像に過ぎないからだ。動くことも、答えることもできない。家畜に引かれて移動するような、ただの像だ。しかも、家畜が運び疲れて荷車が傾けば、惨めにも倒れ伏してしまうような重荷でしかない。そのようなものを“神”と呼べるだろうか、信じられるだろうか?まことの神とは、私たちが「重荷」として背負わねばならないものではなく、私たちのことを背負ってくださる方だ。生まれた時から老いる日まで、白髪になるまで背負ってくださる方だ。私たちの人生と重荷を担(にな)い、背負い、救い出してくださる方こそ、まことの神だ。私たちの信じる神なのだ。そのようにイザヤは語るのです。
 そこで思い出したのが、主イエスの御言葉でした。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
(マタイ11章28節)
 疲れた者、重荷を負う者を招き、担い、背負い、救い出してくださる方こそ、まことの神です。そして、この恵みの約束は、私たちの生涯の間、有効です。生まれた時から、老いる日まで、やがて天国に召されていく時まで、主イエスは絶えず私たちに語りかけ、この恵みへと招いてくださっているのです。

 私たちの信仰生活は、この神の恵みを信じながら、また感じながら、そして“神の恵みは確かです”と証ししながら歩む、地上の旅路です。
 話は変わりますが、昨日、大宮教会で、埼玉地区の災害対応委員会が主催する講演会が開かれました。私も委員として準備をしましたが、今回、東日本大震災による福島第一原発の事故で被災し、避難を余儀なくされた福島第一聖書バプテスト教会の牧師である佐藤彰先生をお招きして、お話を伺いました。福島第一原発に最も近い教会であり、『信徒の友』にも何度か執筆されましたので、ご存知の方もおられるでしょう。佐藤先生の語られた話は、一言で言うならば、涙なくして聞くことのできない苦難の避難生活と、そこでの神との出会いの証しでした。段々と風化していく震災と被災された人々への思いを再び呼び起されました。もっと皆さんを誘って、一緒に聞いたら良かった。
 佐藤先生は、3月11日、地震が発生した時、所用で千葉県におられたそうです。地震の発生直後から、電話で教会員の安否を尋ね続け、このままでは教会員が死んでしまうと感じて、バスをチャーターし、物資を集め、3月14日の夜、教会員との集合場所を会津に定め、千葉県をご夫妻で出発したと言います。200名からなる教会でしたが、その時は17人の教会員を救うつもりで行ったら、そこに家族や親族も合わせて60名余りの人が集まっていた。もちろん、それらすべての人を引き連れて3月17日、雪の峠を越えて米沢へ。米沢に3月31日まで滞在された後、東京・奥多摩にある〈奥多摩福音の家〉というキャンプ施設に移られ、2012年3月26日まで約1年、避難生活を皆でなさり、礼拝を守られました。そして、故郷へ帰りたいとの思いから、皆で故郷に近いいわき市に移住し、その地に今、故郷を望み見て祈り、はばたくというイメージで“翼の教会”を建築しようと励んでおられます。
 佐藤先生から伺った中で、多くをお話する時間はありませんが、突然すべてを奪い取られたような状況の中で、“もう神は信じない”“神はよほど私たちが憎いのか、よほどあの福島の地がお嫌いなのか”と言われたら、返す言葉がないような苦しみの中で、教会員の多くが、不思議な出会い、人の優しさに触れて、“私、神さまに愛されました”と述懐したと言います。それは、イザヤ書43章の御言葉「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(43章1〜2節)の生きた信仰体験であり、また、「卑しめ(苦しめ)られたのはわたしのために良いこと(幸せ)でした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」との詩編119編71節の御言葉は本当だと、こんなにも近く神さまを感じたことはなかったと、恵みを実感されたとのお話でした。
 そして、佐藤先生自身は何と3月11日が誕生日で、しかもご自分がこの教会の牧師として召されたのは、この時のためであったと、旧約聖書に出てくるエステルのように確信して今を生きている。今、故郷を望む翼の教会を建てて、教会員皆で再スタートしよとしている、とのお話でした。
 私は、今日の聖書から説教の準備をしながら、この佐藤先生の語られたお話を思いました。人生には色々なことが起こります。本当に思いがけないことが起こり得ます。突然すべてを奪い去られたかのような苦しみ、悲しみに襲われることがあります。“神さまは本当にいるのか”と叫ばずにはおられないような気持になることがあります。
 けれども、そのような人生の中で、“自分が”“自分で”と、自分の人生を背負って生きて来たかのような思いと力をもぎ取られた中で、「わたしはあなたを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と力強く語りかけてくださる神さまを信じることができたら、感じることができたら、私たちは立ち上がることができる、復活することができる、生きていくことができるのです。

 そこで思い起こしたことがあります。信仰の詩(うた)です。

ある夜、彼は夢を見た。それは主と共に海岸を歩いている夢だった。
  その時、彼の人生が走馬灯のように空を横切った。
  その場面、場面で、彼は砂浜に二組の足跡があることに気が付いた。
  一つは主のもの、そしてもう一つは自分のものであった。
  そして、最後のシーンが現れた時、彼は砂浜の足跡を振り返ってみた。
  すると、彼が歩んで来た今までの道には、
たった一つしか足跡がなかったことに気が付いた。
それは、彼の人生で、最も困難で、悲しみに打ちひしがれていたときであった。
  彼はこのことでひどく悩み、主に尋ねた。
「主よ、かつて私があなたに従うと決心したとき、あなたはどんな時も
私と共に歩んでくださると約束されたではありませんか。
でも、私の人生で最も苦しかった時、一つの足跡しかありません。
私が最もあなたを必要としていた時、
どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?私には理解できません」
主は答えられた。
「私の高価で尊い子よ、私はあなたを愛している。
決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの中にあった時、
たった一組しか足跡がなかったのは、私があなたを背負って歩いていたからだ」

 これは、マーガレット・パワーズという人の〈フット・プリント〉と題する詩です。神が“私”の人生を背負っていてくださる。そう信じること、感じることのできる人は幸せです。その人はきっと、打ちひしがれても、勇気と希望を持って立ち上がることができます。私たちも、礼拝によって、聖書の御言葉によって、祈りによって、互いに愛し合う交わりによって、そして人生の出来事によって、この信仰を養われて歩み続けたいと願います。



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